45.「個人の幸福追求権」からは「公共の福祉」は生まれない

2002.8.31

 自分の命だけが、生きることの根拠であるとするのなら、それ以上の深まりはない。
 生きることを支えているものは、自分の命だけではない。さらにその先にある。「死の意味」なのだ。

 西洋では、「死の意味」はキリスト教の「神」と結びついていたが、日本にはそれに相当するものがない。神の教えというものがない。
 西洋であれば、「人間はすべて、唯一人の全知全能なる創造主の作品であり、すべて、唯一人の主なる神の僕であって、その命により、またその事業のため、この世に送られた」ものであり、神の教えがすなわち人間の道徳であり、その道徳を守ることによって人は救われていた。人権とは本来そのような神の教えを守り、道徳を守るはずの、神の子である人間に与えられた権利であった。
 ところが日本ではそれに相当するような、理論的統一性を持った神の教えがはじめからないのであって、神の根拠を持たない人権の概念は、はじめから宙に浮いたようなあやふやなものであった。(西洋でも「神の消失」により、人権は土台を失い迷走しはじめているが)

 そのような日本で人権の根拠を探すとすれば、神道、儒教、仏教といった、各種宗教を総合した歴史全般ということになるであろう。
 それはあえていえば、文化体系の中に含まれる「死生観」といったものになるであろう。
 日本の場合には、神は単なる神ではなく、人は単なる人ではない。神は人でもあり、人は神でもある。
 そのような「死生観」の中に、日本人は特有の道徳を築き上げてきた。

 自分の欲求を満たすことだけが正義(ライト)であり、それが権利(ライト)であるとする思想は、誤りであることは誰にも分かる。それが「他人に迷惑をかけない限り」という、たったそれだけの条件をつけるだけで、正しいものになるとする思想は、どこから生まれるのか。
 それを「個人の幸福追求権」と呼ぶ言い方もある。しかし個人の幸福感は、個人的な欲求の充足のみで満たされると考えてよいのか。人間の欲求には永遠性への願いがあるのだが、それを望まないとすることによって、個人の幸福追求のみを是認しようとする考え方もある。

 人間の欲求は、最初は肉体的な欲求から始まるが、それは次第に精神的な欲求にまで広がりを見せていく。そして最後は、自分の「死」を乗り越えようとするところまで行きつく。それがなければ、人は「死」の準備をすることができない。
 「死」の準備をすることがなければ、人はバラバラのアトム状態の、孤立した一個人で終わるのであり、その不安から抜け出すことができない。しかしその不安から目を覆ってはならない。
 その不安の充足がなければ、人は健全な価値観を構成することができない。そのことが、顕著に現れるのは青年期である。

 青年期には、従来の肉体的欲求に加え、急速に「性」的欲求が高まってくる。普通その「性」的欲求は、充足することのできないものだが、その欲求を常に内部に蓄えておくことによって、人は新たな「生」の意味づけをしていく。
 結婚前の性交渉が制限されるのは、子供の養育の問題が解決できないからである。結婚前の性交渉が、タブーとされることによって、人は異性を愛することの意味を深く考えうるようになる。
 そして異性を愛することは、生命の連続性につながっていく。それは生命の交代の問題であり、さらに自分の「死」の問題でもあるが、それはもう一方で、自分の「生」の永続性の問題としてもとらえることができる。
 自分の生の永続性を意識することによって、人は社会の永続性の問題も捉えうるようになる。人の一生は短くとも、社会は連綿と続いていくものだからである。そこにはじめて個人と社会との調和が見いだせるのである。

 山上憶良が読んだ、
「しろがねも くがねもたまも なにせむに まされる宝 子にしかめやも」
という歌は、古代から日本人の子供に対する共通する思いであった。

 そこに日本人の命の永続性があった。
 神は単なる神ではなく、人は単なる人ではない、神は人でもあり、人は神でもある、といった言葉はそのような意味である。人を仏として祀ることと、自分が仏として祀られることとは、分かちがたく結びついている。
 前にも書いたことだが、私は生殖行為によって発生する生命の永続性だけをいっているのではない。人から認められ、社会から頼りにされ、尊敬され、死んだ後も、結果として自分が生きていたことを後世の人が覚えていてくれる。そういう社会的な行為のことを生命の連続性・または生命の永続性といっているのである。

 それは広く捉えれば、個人を越えた他者への愛といえるものである。私は死後のことを話したいのではなく、本当は現世での愛について語りたいのだ。人が自分を越えた存在である他者を愛したがるのはなぜか、ということを語りたいのである。

 「個人の幸福追求権」とは、最終的に「死」の問題と結びつかなければならない問題である。
 神の教えのない日本で、もしそれがなければ、社会的な義務や責任、社会への貢献といった問題への答えは解答不能になってしまう。
 そしてそれは「公共の福祉」とは何であるかということに対しても、答えを見出せなくなるばかりである。そして、「個人の幸福追求権」と「公共の福祉」の問題は、対立概念として、接点を見いだせないまま、果てしなく不毛な論争を呼ぶだけである。

 



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