過剰に勉強に打ち込むことが良くないのと同じように、過剰に部活動に打ち込むことも良くない。
ここでいう「ほどほど教育」とは、そのような「ほどよい」バランスのとれた教育のことである。
しかし一番悪いことは、勉強にも部活動にもどちらにも打ちこまないことである。それが今の「ゆとり教育」である。
「ゆとり教育」が提唱され、「勉強にも部活動にも、どちらにも打ちこまないこと」が何か良いことのように言われだし、従来のバランスが崩れた結果、それに対する反発として「学力低下論」が浮上してきた。
これは勉強派の教師たちにとっては、「願ったり、かなったり」のことであった。ここぞとばかりに授業を延長し、補習を増やし、業者の模擬試験を入れ、課題を増やし、学習会なるものを新設する。当然学校運営は窮屈になり、部活動の時間にしわ寄せが来る。
これに対し、「部活動低下論」は出てこない。「学力低下」の危機意識に押されっぱなしである。部活動派の教師たちのいらだちは募っている。
このような事態を考えると、「ゆとり教育」は結果的に「部活動つぶし」の方に作用している。
「ゆとり教育」は本来、「自主性」を養うためのものであった。生徒の自主性を養おうとするのであれば、課外活動(部活動)の領域は広げられるはずである。しかし結果的には課外活動(部活動)の領域は狭められ、逆に課内活動(授業)の時間が拡大している。であるばかりか、本来、部活動に当てられるはずの時間も、授業以外の補習などの時間にどんどん奪い取られている。
そこに来て「総合学習」の増設である。1日の授業時数は増える一方である。
その一方で、生徒たちが自ら活動する「自主的」な時間は狭められるばかりである。
手段を間違うととんでもないことになるという良い見本である。本来一斉授業を行うべき課内活動の授業において、生徒の自主性を養おうとするのは方法的に間違っているのである。
生徒の自主性は強制参加ではない課外活動においてこそ育まれるものなのである。
「自主性」を「強制的」に植え付けようとするのは、土台無理な話なのだ。「自主性」は、「強制的」ではない「時間」と「空間」と「場」が必要である。そういうものを一切無視して「自主性」なるものを植え付けようとする今回の新学習指導要領はどこかに「ファッショ的」な要素を含んでいる。
その「ファッショ的」なるものは、寺脇研や宮台真司の考え方に見て取ることができる。そのことは今まで書いてきたとおりである。