『自分の力を操れぬものは、その力によって自ら滅ぼされることになる』
中国ではそのことの危険性に早くから気づいていた。
自己の肥大化をどうやって食い止めるか。
中庸とはそういうものであった。
中庸という言葉は中国ではすでに春秋戦国時代には現れる。
やがて『中庸』という書物が成立し、それは四書の一つとして儒教の教典にまでなる。
孔子の偉大さは、自分の力で自分が滅びることを見抜いたことだろう。
春秋戦国時代という荒れた世の中にあって、世の中に混乱をもたらす原因を自分のなかに探していった。
『気』の鍛錬というものもそういうものであった。
日本でも武道の鍛錬はそういうことの理解のうえに成り立っている。
ところが西洋にはこのことを言い表す言葉がない。
西洋に見られるのはあくまでも支配の原理である。
それは力の原理であり、自己の力の拡大を目指すものであった。
自分の力の拡大によって自分が支配されることには無自覚であった。
孔子はそのことに自覚的であった。
『自分の力を操れぬものは、その力によって自ら滅ぼされることになる』
500年も続いた中国の春秋戦国時代に孔子が目の当たりにしたものは、そういった諸侯たちの姿であった。
この繰り返しのなかからは平和は望めない。
もっと別の原理が必要なことを孔子は自覚したのであった。
西洋流の言葉でのみ考えている人たちにはこのことは理屈の立たないものに見えるかも知れない。
しかしそれは中国の歴史を西洋の歴史よりの一段低く見ているからである。
ところが我々日本人は中国の知恵を一段低く見ながらも、漢方薬や鍼灸、太極拳など、それらの知恵が有効であることを知っていて、生活のなかに当たり前のように取り入れている。
そして和洋折衷の生活様式についてあまり深く考えることはせず、何となく西洋の知恵の方が優れていると思いながら過ごしている。
そのことにもっと自覚的であって良いはずだ。
日本人にとって『個性』はどこまでも自己を肥大化させていくものである。
その個性によって自己が破滅に追い込まれる危険性を東洋の知恵は教えているのだが、そのことを西洋の言葉で言い表すすべがない。
個性尊重とは実は日本人にとって破壊的な響きをもつ言葉だが、そのことのもつ危険性を言葉で表現できないのは、西洋の言葉には、そのことへの自覚がないからである。
西洋もそのことに全く気づいていないわけではない。
近代になってそのことに気づきだした。
しかしそれはあくまでも病気として気づいたに過ぎない。
それは精神病理学として病気として語られるに過ぎない。
西洋でも個性の始まりは、自分をコントロールするためのものであった。
ルターに始まるプロテスタンティズムは、神と人との一対一の関係を強烈に意識させることとなった。
神の教えのもとに自分をコントロールすることが求められた。
最初はそうであった。
しかし職業上の利益追求が認められたところから、欲望との共存が始まる。
そして最後には欲望の方が自分をコントロールすることよりも、強くなっていく。
そこに自我の暴走が発生する。