『祭りと戦争が、よく似た行為であることは、まえから気づかれていました。』
(カイエソバージュⅡ 熊から王へ 中沢新一著 講談社新書メチエ P180)
祭りが戦争と似ているということは、政治がもともと祭りであったということである。
いまでも『まつりごと』といえば、政治を意味する。
祭りとは儀式である。
昔の祭りには神様がいたが、今は神様は後ろに後退していなくなってしまい、神様のいない祭りになってしまった。
神様のいない祭りとは儀式のことである。
神様がいなくなったあとも行われる儀式と祭りの共通点とは何なのかといえば、人を集めるというところにあろう。
つまり人を集めるということは政治の原点である。
人を集めること、つまり今流にいえばイベントである。
このイベントが今学校で大はやりである。
教育が何かといえばイベント化されるようになった。
昔は学校のイベントといえば、体育祭と文化祭ぐらいであったが、
今では、
『親子ふれあい体験』
『地域ボランティア活動』
『職場体験学習』
『ディベート大会』
『特色ある学校発表会』
『高校生の主張大会』
『先輩による講演会』
『留学生との交歓会』
『演劇鑑賞会』
『音楽鑑賞会』
『大学教授の出前授業』
『予備校講師の講演会』
などなど、
あげていけばキリがない。
部活動の大会でも、大会の数は年々増えていく一方である。
運動部にしろ文化部にしろ、生徒と保護者を一カ所に集め、そこで一つの競技を競わせることは、一種のイベントである。
一つの大会には大きな動員力が働く。
教師はこれらのイベントのために多くの時間を割かなければならなくなった。
学校は今、『まつりごと』の場と化している。
教師は今本来あるべきはずの授業への熱意を維持する時間を失っている。
それよりも、イベントをいかに実行するか、そういうことに終始するようになった。
それは学校そのものが好んでそれに取り組んでいるというよりも、行政指導によりそうさせられているのである。
当然、学校の雰囲気そのものも多数の授業派の教師よりも少数のイベント派の教師に握られていく。
私は、祭りと戦争が似たものであるというのは認めるが、祭りと教育が似たものだとは認めることができない。
教育がお祭り化されて、そこで一体どういう教育が行われるのか。
教育がイベント化されて、そこで一体どういう教育が行われるのか。
それで本当に質の良い教育が受けられるのか。
生徒は授業への興味を失っていく一方である。
そしてにぎやかでイベント好きの生徒だけが、教室を支配するようになる。
そういったところにもいじめの温床がある。