英雄 美女 野獣
     

2009.2.28  

ブログより

英雄 美女 野獣

2009-02-17 | Weblog

英雄・美女・野獣は一つのセットになって多くの神話で語られる。

ギリシャ神話では、
英雄……ペルセウス
美女……アンドロメダ
野獣……海の怪物 メドゥーサの首

日本神話では、
英雄……スサノオ
美女……クシナダ姫
野獣……八俣の大蛇(やまたのおろち)

北欧神話(エッダ)では、
英雄……ジークフリート(シグルト)
美女……ブリュンヒルデ
野獣……眠りの茨 オーディン

グリム童話(いばら姫 眠れる森の美女)では、
英雄……王子
美女……いばら姫
野獣……糸引きの錘(つむ) 老婆
(いばら姫は北欧神話の変形だとグリムは見ている)

グリム童話(灰かぶり シンデレラ)では、
英雄……王子
美女……灰かぶり(シンデレラ)
野獣……継母


このような神話は、アメリカインディアンなどの未開の民族にはなく、
ある程度文明の発達した地域に限定して発生している。
日本でも、国を形成しなかったアイヌ民族には見られない。
ということは、この神話・昔話は文明の発生と何らかの関係がある。

英雄は野獣と戦い、それに勝利することで美女を手に入れる。
なぜならば美女はもともと野獣のものであったからだ。
そしてそのことは古来、女性の持つ神々とのつながりを暗示している。

英雄は王に変わり、
助けた美女との間に恋愛が発生し、
それと同時に古い秩序が崩壊し、新しい秩序がもたらされる。

その新しい秩序とは、新しい神と言い換えても良い。
古い秩序とは古い神と言い換えても良い。
であるならば、野獣とは滅びゆく古い秩序、つまり滅びゆく古い神々のことである。

英雄……王
美女……恋愛
野獣……神

神々との交信は古くは女性を通じて行われた。
だから女性は処女でなければならなかった。
女性の処女性は本来神々に捧げなければならない神聖なものであった。
神に対する処女の人身御供の話は、広く世界中に分布している。
スサノオが助けるクシナダ姫も、八俣の大蛇に対して人身御供にされる処女であった。

人間の青年期とはこのようなことを体得するための自己の内面への集中期間であった。
処女性を獲得するための試練に耐えうる内面的成長を遂げて初めて、一人前の男になれたのである。
未開社会の成人式(イニシエーション)では青年に大きな試練が与えられ、彼らは勇気と能力を試される。
その試練は若い女性の見守るなかで行われる。

青年期に異性への関心が高まることと、神話が下ネタが大好きなことは深いところで関係している。

日本神話でも、アマテラスが天の岩戸に隠れて、世の中が真っ暗になったとき、
ある女の神が自分のホト(女陰)を見せて裸踊りをしたから、
アマテラスは気を取り直してまた出てきて、やっと世の中に光が戻ったという。
ホトまで見せる裸踊りとは、並みの裸踊りであるはずがない。
そんなことを一所懸命に語る神話の意味とは何なのか。

女性の秘所はカンノンサマという隠語もある。
それは性的なものというよりも、聖的なものである。

英雄は野獣を退治することによって王になる。
王がかつて野獣を退治したという神話は、王が古い神々に代わる新しい神として人々の前に立つことを保障する。
王は美女を手に入れることによって、新しい神と交信する権利を手に入れるのである。

古代エジプトのように王が神の化身そのものになることもあるが、多くの地域では王は神そのものではない。

王の祖型は祭司王である。
祭司王とは神を祭る王のことである。
日本でも中国でもメソポタミアでも王は祭司王である。
エジプトですら、王は祭司王の要素を兼ね備えている。

沖縄では神々との交信は、『ユタ』や『ノロ』のような巫女的な女性に限られていた。
ところが王はそのような権限を、美女(処女)を手に入れることにより自らの手に握ったのである。

王の出現以前にも、首長(インディアンの酋長)や将軍のような指導者はいた。
首長が部族内外のもめごとなどの判断を行うものだとすれば、将軍はその判断を軍事面に限って指導するものである。
彼らは決して宗教的権限を持たない。

王の祖型は宗教的権限の獲得にある。
そのためには美女が必要であるし、野獣が必要である。
そして野獣を退治するための試練(冒険)が必要である。

そのような価値観を共有する人々の間に国ができる。

『英雄色を好む』とは、権力者が力によって女性を手に入れることばかりではない。
英雄であることと、美女を求めることは同じ所から出てくる。
英雄であることも、美女を求めることも聖なるものを求める作業である。
英雄は女性の処女性を通して神に触れようとする人である。
女性の処女性を通して新しい神に触れようとするそのエネルギーが、国をつくっていく。

文明段階にある国家で一夫一婦制が多く見られ、女性の処女性が尊ばれるのもそのことと大きく関係している。
国と家族は女性の処女性から生まれた双子のようなものである。
(イスラム社会が一夫多妻をとっているのは女性の救済という別の理由がある)

人が恋愛に突き進んでいくエネルギーもそのようなものである。
人間は経験を積めば積むほど何事も上達するはずだが、恋愛だけはそうではない。
本当に人の心を打つ恋愛というのは、その処女性を前提としている。
経験のない恋愛ほど人の心を打つものであるのは、恋愛がその処女性を前提としているからである。

『トリスタンとイゾルデ』にしろ、そこからヒントをえた『ロミオとジュリエット』にしろ、
イゾルデやジュリエットが処女でなく、経験豊富でベッドテクニックばっちりの女性だったとしたら、
想像しただけで、その物語のおもしろさは半減する。

これは、経験を積めば積むほど人は上達し人の心を打つ恋愛ができるはずなのに、おかしなことである。

女性の処女性に秘められた謎は、人間に偉大なことをなさしめてきた。

英雄が美女を獲得するとき、その美女が穢(けが)れなきものであればあるほど、英雄の成し遂げたことは偉大さを増す。

その偉大さが国を形成する。

国の発生は恋愛の発生でもある。
恋愛をするエネルギーは国をつくるエネルギーでもある。

私は処女でなければ恋愛はできないなどと言いたいわけではない。
恋愛するのは人の自由である。
しかし、自由だからといって誰でも恋愛ができるわけではない。
現代は恋愛がうまく成立しない時代になっている。

処女でなければ恋愛はできないことよりも、
処女であっても恋愛ができなくなっていることが、問題の本質であろう。

本当の意味で女性の処女性が失われた場合、
人はどのようにして国を維持し、恋愛に突き進むエネルギーを保ちうるのであろうか。

恋愛の価値をなくした社会は、国家を成り立たせている価値までなくしてしまうであろう。
ロマンスのない社会は、英雄も生まない。
それは多分、英雄が野獣に逆に飲み込まれた社会であろう。

現代社会で神がどこまで可能かは未知数だが、
少なくとも英雄は自分の命よりも高い価値を追い求める存在である。
だから英雄の最期は悲劇的な死で終わる。

恋愛は喜劇的ではなく、その本質において悲劇的である。
英雄もまた悲劇的存在である。
英雄の誕生は悲劇の誕生でもある。

悲劇とは自分の存在がなくなったあとも、その存在と引き替えに何かが残りうるという信仰である。
人間の感性はこの種の事態によって、持てる力を数段高めることができる。

ロマンは神とは違うが、何らかの形で自分の命を超えようとする点では神の存在と共通している。
恋愛は個人的なものだと思われがちだが、実は恋愛こそが個人を超える力を人間に与えている。

個人的な恋愛は性的であるが、個人を超える恋愛は聖的である。
恋愛を個人のレベルに落とさせない知恵が現代社会には求められている。

恋愛が神と結びついているのと同じ程度に、
また国家が神と結びついているのと同じ程度に、
ロマンは何らかのかたちで神と結びついている。

『すべての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、想像力のない合理主義の産物である。』
(人生論ノート 三木清 新潮文庫 P92)

日本はいま新自由主義を中心とした19世紀的な合理主義という野獣に、経済だけではなく、政治的にも文化的にも食い荒らされて、
公的な意味での国家や私的な意味での恋愛までもが、ボロボロに崩れ去っていこうとしている。




教育の崩壊