いじめの防衛

2008.8.  

ブログより


『子供たちは今校門をくぐったとたんに身構えながら学生服のボタンをはずしている。昔でいえば不良の仲間入りをしなければ生き残れないのである。』

中高生が、眉を剃ったり、化粧をしたりして強がった格好をするのはなぜか。
一昔前なら、そういう格好をすることによって、まわりに威圧感を与え、クラス内での自分の地位を上げたがっていると考えられたものである。

しかし最近ではどうもそうではない。
それは決して攻撃的なものではなく、逆に防衛的なものである。
彼らは強がった格好をすることによって、いじめられることを防いでいるのである。
逆にいえば彼らは強がった格好をしなければいじめられてしまうのであって、彼らはそのような危険性とつねに隣り合わせにいるのである。

教師に対してタメ口を使うのも強がりの一種である。
教師に対してタメ口の一つも使えない子どもは、逆にまわりの子どもからいじめられてしまう。

今の子どもは自分を守ることに汲々としている。

だから友人関係にも防衛的な意味が含まれている。
たんに気の合う友だちだからというよりも、つねに自分といっしょにいてくれる相手なら誰でもよいというのが彼らの本音である。
彼らにとって一番恐いことは孤立することである。孤立はいじめにつながる。それはみじめなことである。そのことだけは防ぎたい。
だから大して好きでもない相手と仲の良いふりをして友人関係のふりをする。それは友人関係という内面的な関係であるよりも、その友人関係をまわりに誇示することが大事な対外的な関係である。

まわりから見ると仲の良い2人が、陰ではお互いの悪口を言い合ったりするのはそのためである。

今の学校内のクラスというのは、いわば戦国時代のようなもので、絶えず誰かと同盟関係を結んでいなければ、すぐに誰かにいじめられてしまう。
以前の学校であれば、担任の指導に従うことが当然であるという生徒たちの合意があったが、またそのことによってクラス内の秩序が維持されていたのだが、今は将軍の権威の低下した戦国時代のように、担任の権威など誰も信じていない。
代わりに個々の生徒たちが声高に『個性』を叫ぶ時代である。
個性の拡張はあたかも戦国大名の領土拡張の要求のようである。
その結果、担任の指導には反抗的な態度の一つも示すことが、友だちの人気を得るために必要なことだとさえ思われている時代になった。

その結果担任は恐いものではなくなった。
しかしその代わりにいつ何時自分がいじめられるか分からない、戦国時代のようなクラスの雰囲気が誕生した。

その雰囲気を読めない生徒は、とろくて、のろまで、天然ボケの生徒とされる。

このように今のこどもたちは過酷な時代のなかで、つねに誰かに注意を張り巡らせていなければならず、相手につけいるすきを与えないように、いつも強がっていなければならない。

確かに学校には生徒を動かす強制力がある。しかしそのことは生徒を保護する力でもあった。
その力がなくなれば子どもは自分で自分の身を守るしかなくなる。
教師の権威をいかに有効に活用するかということが考えられるべき時代に入っているのかもしれない。




教育の崩壊