ブログより
医療保障と国家統制の二つは、一見したところ何の関係もないように見えるが、ところがこの二つは思わぬところで結びついている。
十年以上前のことだと思うが、アメリカで喫煙が原因で肺ガンになったとして訴訟が起こった。 結果はタバコ会社と国に対して賠償を命ずるものであった。
その結果、国は国民の健康に対しても責任を持たねばならなくなった。 このような発想は社会保障の考え方の行き着く先である。
ところが国家が国民の健康に対してまでも責任を持つということは、 国民にとっては、それまで一人ひとりの個人の責任であった自分の健康に対してまでも、国家が介入してくるということである。 それは個人の嗜好(しこう)の領域にまでも国家が介入してくることを許すということでもある。
自分の健康の責任が自分にあるのではなく、国にあるとする考え方は、私的な領域への国家権力の介入を許すことになる。
国の論理は、喫煙による健康被害にあった場合、その医療費は国が負担するのであるから、そうならないために、国が喫煙に対して介入することは国家財政上からも当然ということになる。
こうして喫煙に対する国の介入は始まったが、 それはたんに喫煙に対する介入にとどまらない。
いったん喫煙という個人の私的な領域に国が介入できる論理が敷かれると、それは他の領域にまで敷衍(ふえん)されるようになる。
裁判員制度にもその傾向は現れている。 これは一言でいうと、個人の私的な時間を、国家の命令によって、国家のために使わねばならない制度である。 戦前の日本ではこれと同じ論理で、国民徴用令が出された。
『裁判院制度を持つ国の多くは、徴兵制を持つ国である』 という指摘(裁判員制度の正体 西野喜一 講談社現代新書)は、 こういう点からも同意できる。
これと同じ論理は、社会保障の考え方にも潜在的にあり、 国民の健康に国が責任を持つとすれば、 国民の医療費は国が負担しなければならなくなる。
国家にとっての負担を強いるこのような論理は、今度は返す刀で国民の自由を奪っていく。 国家はこの論理を使ってズカズカと国民の私的領域に踏み込むようになる。
大人に対してもこのような試みが始まっているなら、子供に対してはなおさらである。 教育は本来私的な領域に属するものである。しかし国はこの教育を自在に操ろうとし始めている。 今の教育改革は『生きる力』などという崇高な理想を掲げているが(しかしその実体が何なのかは誰にも分からないのだが)、 文科省の狙いは本当はそんなところにあるのではなく、文科省の要求する無理難題に現場の学校がどれだけ耐えられるかを試しているだけではないかという気がする。
そうやって国家統制のための訓練を学校現場に施しているのだと思える。 教育改革とはそのための隠れ蓑に過ぎないのではないか。 そのことをなぜ見破れないのか。
このことに対して国がまっ先に手を打ったのは大学改革であった。 国立大学が独立行政法人として国家の枠から一回り外側にはじかれた。 これにより日本の知識人たちの多くは震えあがった。 こうやってまず知識人たちの口を封じたのである。
藤田英典氏らの少数の知識人を除いて、日本の教育学者のなかで、教育改革に対して口を開こうとする人はいない。 教育学者の多くは小さな自分の枠内に閉じこもり、こぢんまりとした自分の学問体系のなかで満足しているだけである。 国家と教育との関係を大きく捉えようとする学者はいなくなった。 逆に国家統制の流れにわれ先に乗っかろうとする御用学者は多いのだが。
国は、大学という学問の世界の自由な雰囲気に、統制を敷くことからはじめた。
だから、教育改革の論理を学問的に論破していこうとする大学人の動きは、そのはじまりからつみ取られていたのである。多くの大学人がこの問題から顔を背けたのである。
こうやって国がもちいるお粗末な論理の嘘を見抜ける人が少なくなった。 そのことによって日本は論理よりも力が支配する国になりつつある。 善悪よりも損得で動く国になりつつある。 論理を売り物にするはずの大学人や知識人が損得で動くようになれば、その国の知性は腐っていく。 最高の知性は大きな自由のなかで生まれるはずなのに、そのような場が大学のなかで失われてしまっている。
そのことが文科省のお粗末な教育行政をいつまでも温存させることになっている。
そういう意味で皮肉を込めていえば、国が教育改革の手始めに、まず大学改革に手を付けたのは大成功であった。
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