作業中 1 (日本の個人主義の病理)

2008.6.  


●資本主義と社会主義は対立する思想としてよく扱われるが、その根本は両者とも西洋思想であるというところにある。
その立脚点は、ともに西洋的な個人主義思想の上に立脚しているという点である。
その個人主義思想が、どのような宗教的思想によって裏打ちされているかというと、それはキリスト教的個人主義思想によって裏打ちされている。

このキリスト教的個人主義思想が資本主義の母体であり、やがてその資本主義がある発展段階に達すると、その矛盾を修正するものとして、さらに社会主義思想が生まれてきた。
しかしこのような原理原則を、日本社会にそのまま導入することができるかというと、資本主義思想も社会主義思想も、その根底には根強い個人主義思想が横たわっているという点に注意すべきである。

社会主義思想の持つ個人主義を警戒するのであれば、資本主義の持つ個人主義も同時に警戒されなければならないはずである。
ところが日本では社会主義思想の持つ個人主義の危険性は意識されても、資本主義思想の持つ個人主義の危険性は無視されている。

その結果、社会主義的な完全平等主義への反発によって競争主義が導入され、さらに「市場原理」こそが社会を立て直すものだ、というふうに資本主義的な個人主義が賛美されている。





●西洋の新自由主義が道徳観と結びつく論理の背景には、自由競争を是とする市場原理が、もともとキリスト教の予定説を背景にして生まれたという事情がある。

従ってそこにはキリスト教という文化的背景がなければならない。キリスト教というのは絶対神であり、一神教である。

そのような神への信仰があって初めて、市場原理の中で自由競争に励む行為が、『神の栄光』を増すものとして正当化される。

そこに自由競争が倫理的価値と結びつく根拠があるのであって、その背景には強いキリスト教的世界観がある。

新自由主義がアメリカの保守層に受け入れられる理由はそういうところにあるのであって、彼らは同時に熱心なキリスト教徒である。
西洋の伝統的倫理観がキリスト教の教えに裏打ちされていることはいうまでもない。
アメリカの熱心なプロテスタントたちはキリスト教の教えに従う形で、自由競争の中で生き抜く労働観を作り上げている。

それは神と結びついているし、
社会の安定とも結びついてる。
さらに世界の安定とも結びついているし、
世界の救済とも、そしてまた自らの救済とも結びついている。

彼らは同時にキリスト教的倫理観の復活をも期待している。
アメリカのブッシュ再選の切り札が、イラク攻撃ではなく、キリスト教的道徳観の復活(同性婚の禁止・中絶禁止など)であったことはそのことをよく示している。

私が新自由主義をキリスト教原理主義だと捉えるのはそのような理由からであるし、
そのことは逆にいうとキリスト教原理主義でない新自由主義は、本当の意味での新自由主義ではないということである。

ところが日本ではこのキリスト教原理主義がないまま、新自由主義という上澄みだけを受け入れようとしている。形だけがあって中身がない。これは本当の新自由主義ではない。

しかしこのニセの日本流新自由主義はその中に倫理観や道徳観を伴っていないぶん、よけいに危険なものである。
利益追求オンリーに陥ってしまう危険が大きい。
弱者差別に陥ってしまう危険が高い。

そのことが分からない政府当局は新自由主義でもって奉仕活動や愛国心教育を行おうとしているが、そこに日本の新自由主義の論理的破綻があると思う。

私は仮に日本の経済は復活することが出来たとしても、
日本の道徳的倫理観は途方もなく崩れていくと思う。

ヨーロッパ流の個人主義はキリスト教と結びつくことによって初めて一つの倫理観たりえたのに、
キリスト教的伝統のない日本の個人主義がいかなる意味でも倫理観と結びつくことは論理的にあり得ず、
そればかりか逆に日本の従来の倫理観や道徳観を根こそぎ破壊していく恐れが高い。





●プロテスタンティズムというのは確固たる個人を打ち立てた。

その個人の形成を、歴史的な視点からではなく、歴史的背景の欠如したバラバラの個人をアトムと見たて、そのアトムからどうやって社会を形成していくかを考えたものが社会契約説である。

そのアトムたる個人が、キリスト教の神から人権を与えられているという天賦人権説である。この神から与えられた人権こそが国民主権の源なのである。

人権を与える側が神であり、人権を与えられた側が王とか国民である。
前者を優先すれば王権神授説になり、後者を優先すれば国民主権になる。

とすれば国民主権もまた神と個人の一対一の関係を原則とする、プロテスタンティズムから生まれてきたことになる。
このように神と人との間に教会組織などの仲介物を置かず、神と人とを直接に結びつけてしまうものが、プロテスタンティズムであるが、それはもともと一神教のうちに内在する性格でもある。

そうだとすればキリスト教なしに民主主義は考えられなくなる。





●古代バビロニアのハムラビ法典の石碑には、ハムラビがバビロンのマルドゥク神から王権を象徴する棒と縄を与えられている情景が描かれている。

このことが意味することは、王権は神から与えられるということである。
国というのは実は神のつくったものである。
神が存在しなければ国は存在しない。

だから、古代エジプトの王は『神の化身』として民衆の前に立った。

古代エジプトの古王国時代のピラミッドにしても、世間一般に考えられているように、王(ファラオ)が人民を酷使してつくったというものではない。
むしろエジプト人は、自分たちの信仰にもとづいた自然な姿で、ピラミッドの造営に参加し、額に汗したのである。

ではこのとき神はどのように変化したのだろうか。

古代バビロニアのハムラビ王がバビロンのマルドゥク神から王権を象徴する棒と縄を与えられた時、
または古代エジプトの王が『神の化身』として民衆の前に立った時、
民衆の前に現れる神の姿は、それ以前のまだ国家が現れる以前の神とどう違ったのだろうか。


国家が成立する前には、いたるところにいろいろな神が存在し、彼らはどれが優勢でもどれが劣勢でもなく、互いに対等に存在していたが、
国家が成立すると、その国家に正当性を与えた神は他の神に比べて神としての地位が著しく高くなり、最高神となった。

国家というものが民衆にとって必要不可欠で、その存続なしでは民衆の生存自体が脅かされるような社会の中では、
神が国家に正当性を与えると同時に、その神は民衆にとっても一番大事な神となり、最高神として祭り上げられるようになっていく。

国家成立の前まで、人と神は別々の領域に、別々の時間に住んでいたが、
国家が成立し最高神が誕生すると、神と人とは同じ領域、同じ時間に住むようになる。
そして人々の心の中に一日中、神が同居するようになる。


日本では神と人とが別々の領域に住み分けていたことは、『ハレとケ』という言葉で表される。
『ハレ』の日には神を祀りにぎやかなお祭りを繰り広げるが、それが終わると、
神のことは忘れて通常の『ケ』の状態にもどり、いつもと変わらぬ労働が繰り返される。

ところが、最高神になった神が一日中人々の心の中に住み続けるような精神の変化は、
それまで多神教の中でさまざまな聖霊(スピリット)がうごめいていた世界から、多神教の聖霊たちを徐々に追い出していくようになる。

日本人はこの点、普段、『国』を意識していない民族である。
国家は当たり前のようにそこにあるものであり、国家の正当性がどこにあるかということをほとんど考えずに暮らしている民族である。

ところがヨーロッパをはじめとする多くの国では、国家の正当性はたえず意識されている。
国家とは意識的なものであった。


もともと人間は自然の懐に抱かれた存在であった。
人間は自然の一部にすぎなかったし、その自然のなかには森羅万象をすみかとする神々が存在した。
人間はそのような神々との生活を最も大切にしてきた。

しかし国家ができ、最高神が誕生すると、そのような今までともに生きてきた神々を排除するようになっていく。

それまで人間は、人とともに暮らす時間と、神々とともに暮らす時間を分離して棲み分けていたが、
国家が誕生するとその時間の使い分けができなくなり、
人間は一つの時間の中で、人の中で暮らすとともに同時に神とともに暮らすようになっていく。
つまり一つの世界の中に神と人とが同居するようになる。
これが国家である。

最高神以外の神々はもはや神とはしては扱われなくなり、
それは見たらいけない世界、考えたらいけない世界として負の価値を持つ世界におとしめられていく。
そこは鬼や妖怪の住む世界であり、悪魔や魔法使いの住む国である。
それは悪の世界であり、夜の世界である。または人の恐がる死の世界である。
このような形で人間の精神世界が分断されていく。
『ハレとケ』の循環の中で、神々とともに暮らした統一された精神世界は失われていく。
ここで人間の心の中に、意識と無意識が分断されるのだが、
人間は無意識の世界に気づくことなく、意識の世界だけを認識するようになる。
その結果、意識の世界だけが肥大化し、人間はその意識の世界だけを頼りに生活するようになる。
このようにして人間の合理的な生活が始まるのだが、合理的生活というのは意識の産物である。


国家を否定することは不可能である。
しかし人間の無意識を無視することも不可能である。

国家神を最高神とする意識の世界はやがて無神論に陥っていくが、
人間にとって神を意識しないことは不可能なことである。

国家の中にいかにして聖霊(スピリット)たちを呼び戻すことができるか。

世界に向けて日本が考えなければならないことは、そのようなことである。


国家とは神々の統合のことである。

最高神になった国家神は、他の諸々の神々の頂点に立つ者として国家を統合しなければならなくなる。
または、唯一神として君臨し、他の神々の存在を否定しなければならなくなる。その結果、一神教が誕生する。

しかし日本では、国家神としての天照大神が誕生したあとも、八百万の神々が至る所に存在し、多神教の世界を維持してきた。
日本は国家神を持ちながらも、その国家神がけっして絶対的な最高神にならなかった国である。

そうであったから多神教の世界を維持できたわけだが、
多神教といっても、日本の神々は全くバラバラに存在していたのではなく、緩やかな結びつきを持ちながら、天皇家の皇祖神たる天照大神のもとに統合されていた。

日本には村ごとに産土神があり、地域ごとに一ノ宮があり、家ごとに檀家寺があり、それらは緩やかな結びつきを持ちながら、国家のもとに統合されていた。

そのような形で民衆が神々と語らう場所は十分に用意されていた。

そのような神々の重層性が、日本人の無意識の構造を考える上では重要である。





●古代エジプトの王ファラオは、神の子として民衆の前に君臨した。
古代メソポタミアの王ハムラビは、神から授かったものとしてハムラビ法典を制定した。
キリスト教の教祖イエスも神の子として崇められたし、
イスラム教の教祖ムハンマドも神の言葉を預かる預言者として、イスラム国家を樹立した。

それらのことはすべて高校の教科書に書かれていることである。

しかし日本の天皇だけは神との関係が書かれていない。
誰もが知っているように日本の天皇は天照大神の子孫として、日本の神話の中に位置づけられているのである。
しかしそのことは高校の教科書には触れられていない。

そのことが日本人の歴史意識を非常に混乱させているのではないか。

王権が神とつながりがあることは世界史上の常識だし、世界史の教科書にはそのことが折に触れて書かれてある。
しかし日本史にはそのことの記述がない。
そのことが日本史をよけいに混乱させているのではないか。

敗戦によって皇国史観(天皇の神格化)が否定されたのはわかるが、天皇と神の関係を記述することは皇国史観ではない。
世界史上では当たり前のことである。

この当たり前のことが日本では行われていない。

このことが日本人の歴史観のみならず、日本人の意識そのものを虚無的にさせているのではないだろうか。





●一神教世界では、
世の中のすべては必然である、太古の昔から決められていたことだ、
自分がいつ生まれ、いつ死ぬか、そんなことははるか昔から決まっていたことだ、
と考える。

そんなことまで決められていたらたまらないと、我々日本人ならそう思うのであるが、どうもキリスト教とはそうは考えないらしい。

一神教というのは考えてみれば恐ろしいもので、この世のすべてを造ったのが一神教の神様であるから、その神様はこの世の終わりにまで責任を持たねばならないらしい。

すべては神のお導き、

そういう言葉はこんなところから生まれてくる。
それはもともとキリスト教という一神教のなかに潜んでいたものであるが、それがプロテスタンティズムのなかのカルヴィニズムのなかで強調されることになり、『予定説』というかたちで広まることになった。





●現在のヨーロッパの人たちの間では、そのような神の意識が消えていきつつあるという問題点がある。
そんなことがなぜ起こるのかというと、このような人間に固有の人権を考え出した17世紀の思想家であるイギリスのジョン・ロックの思想に突き当たる。
ロックは一方では、人間の人権の一種である自由・平等はともに神から与えられたものであると言っているにもかかわらず、他方では彼がその権利の代償として支払うべき義務については全く何も触れていないという矛盾がある。

ロックは、富の蓄積に成功した多くのブルジョアジーたちの財産をどう処理するかという疑問に対して、

『それは誰のものでもない、財産を作った本人のものだ』
とすることによって、ブルジョアジーたちの不安を解消していった。
そしてまたブルジョアジーたちも自分たちの不安を巧妙に解消してくれたロックの理屈を信じてしまった。
ロックは、『それは誰のものでもない、財産を作った本人のものだ』としてしまったわけですから、彼らは拍子抜けしたように、

『そんなんでいいんだ』
と思ってしまった。しかしこのことは当時のヨーロッパ社会において、とても大きな破壊的な効果をもたらすことになる。
本来の宗教上の立場からいえば、カルヴァンの主張を信仰する人々にとって、自己の努力によって蓄積された富は、神に返すべきものとして受け取られていたはずである。





●何物をも信じられなくなったフランスのデカルトが言った『コギト エルゴ スム』(我考えるゆえに我あり)の、あの『コギト』の状態で人間社会を考えているからこのような誤りを犯してしまう。


宗教的感情は、人間が『分離の痛みを止揚』しようとする感情と密接に関わっている。
ある意味、人間の不幸は、太母の子宮と切り離されていることを意識することから始まる。
しかし人間はそのような痛みを、人とのつながりや神とのつながりによって止揚しようとするものである。


そんな都合の良い理屈の上に、ロックの私的所有権が確立される。
しかもそれでいて、社会全体はキリスト教的な世界調和がもたらされることになる。
なぜそんなことが可能かというと、
彼らは富の蓄積に励むことが神の意志にかなうことだという段階で思考を停止しており、その富をどう使うかということに関しては、ロックにより誤って正当化された私的所有権の正当性を信じてしまっているわけだから、
自ら『神を冒涜』しているという意識はなく、また『神の怒り』も感じていないわけだから、『神の恩恵』だけは訪れるというまことに勝手な信仰の中に住んでいるからである。



これでよければ、一方では神を信じながら、神への義務を果たそうとしない多くの人々が登場することになる。
また次には、権利だけを主張し、義務を果たそうとしない多くの人々を生み出すことになる。
『人間は神の僕である』とするのではなく、『人間は自分の主人』とする考え方は、現在流行している『自己決定権』の考え方とも結びついていく。


人間を『権利の主体』とのみ位置づけ、『義務の主体』であることを忘れてしまっているこのような考え方は、今では、本来『責任』を問うことができない子供までをも『権利の主体』として位置づけようとするところまで来ている。






●国民主権と王権神授説が同根であるなどといったら意外に思われるかも知れない。
国民主権と王権神授説は相対立するものであり、王権神授説が否定されることにより国民主権が成立してきたと捉えるのが一般的かも知れない。
しかしこの両者は主権の概念の発生として同根なのである。
主権という概念が誰から与えられたのかというと、両者とも神から与えられたという点では共通している。その神とはキリスト教である。
しかもその時期はどうも1500年代の宗教改革以後であるようだ。
主権の概念自体がキリスト教的である。王権神授説がカトリック的であるのに対して、国民主権はプロテスタント的である。
では王権神授説は宗教改革以前からあったのかというと、プロテスタントの発生によりカトリック側が刺激されることにより、王権神授説も発生してきたようである。

このように主権というのは神から与えられたものという意識がなければ、その機能を果たし得ないのである。
つまりもらったものは返さなければならない、神からもらったものであるならば、神に返さなければならない、神から与えられた権利であるならば、神に対する義務が発生するという構造がこの主権の概念には含まれているのである。

しかし、そのことが日本人にはなかなか分からないことなのである。





●キリスト教の矛盾は、
第一に、
本来一対一の関係であるはずの神と人との間に、
聖職者という仲介人をつくり、
さらにその仲介人の権力組織であるキリスト教会をつくったことである。

ここが同じ一神教であるイスラム教と違うところで、
イスラム教の場合には、聖職者も、教会組織もない。
あるのは、ウラマーというイスラム法学者と、モスクという建物だけである。
モスクは信者で運営される単なる建物で、そこに聖職者(もともといないのだが)は住んでいない。


第二に、
もともとローマ帝国の支配に抵抗していたはずのキリスト教が、
ローマ帝国の国教になったことである。
国教になるやいなや、ローマ教会はローマ皇帝の支配下に入ったことである。
そしてキリスト教会はローマ帝国の領域支配に協力していった。

キリスト教がローマ帝国の国教になったことにより、
ローマ皇帝の支配の正当性は、キリスト教の神の意志に由来するということになる。


第三に、
ローマ皇帝の支配下に入ったはずのローマ教会が、
逆にローマ皇帝を支配するようになったことである。

800年のフランク王カールの戴冠はその象徴である。
さらにそれは962年の東フランク王オットーの戴冠によって神聖ローマ帝国を成立させる。

神の代理人にすぎないローマ教皇が、
神の意志を自在に操ることにより、神聖ローマ皇帝を支配することになる。

神聖ローマ皇帝はキリスト教から破門されれば、
その支配の根拠を全く失うことになり、そのことを何よりも恐れるようになる。

キリスト教はもともとローマ教会を否定する要素をもっているが、
宗教組織としてのローマ教会が強くなればなるほど、王権を否定するようになる。
しかし、キリスト教が勢力を伸ばすことができた理由が、ローマ帝国の国教になることができたためであったため、
王権を否定すること自体が、自らの力を弱めるという自己矛盾に陥っていく。

そしてついにはプロテスタンティズムによりローマ教会そのものも否定されるようになる。





●日本では、古代から中世へと移行する院政期に、『梁塵秘抄』という当時のはやり歌を集めた今様集が登場する。
こんな庶民の戯れ歌を編集したのが時の権力者の後白河法皇であったというところがいかにもおもしろい。
同じように中世から近世へと移行する戦国期にも『閑吟集』という当時の庶民のはやり歌を集めた小歌集が登場する。
時代が変わろうとするときに、なぜか庶民のはやり歌が登場するのである。

さらにいえば、時代が近世から近代へと移行しようとする江戸時代後半の化政文化は、庶民文化として特徴づけられる。
洒落本・黄表紙・人情本、さらに滝沢馬琴の読本・式亭三馬の滑稽本などは庶民が好んで読んだものである。
世界に名だたる浮世絵などは本来美術館に飾られるようなものではなく、男所帯の部屋の装飾品として飾られたものなのである。
このような系譜をたどっていくと日本史の中には庶民文芸の流れともいうべきものが歴史の中に脈々と息づいていることが分かる。


日本ではすでに鎌倉時代には農民たちが字を書いている。
和歌山県の阿テ河の荘民たちは文字によって訴状を書き、地頭の湯浅氏を訴えている。
ほとんどカタカナだけの非常に幼稚な文書ではあるが、言い回しはしっかりしている。
このような農民たちが決して例外的でないことは、次の南北朝時代になると、日本の農村の原型である惣村が成立し、そこでは農民たちによって文字で村掟が書かれはじめることからもわかる。
ここでは漢字も用いられ、かなりしっかりした文章になる。


和歌を詠むという行為はもともとやんごとなき人たちの高貴な遊びであったが、
鎌倉末期にはその遊びを庶民が真似して、上の句と下の句の二つに分けて互いに句をつなげるという連歌が流行している。
そしてその遊びを事もあろうに関白の二条良基が『菟玖波集』という本にしてしまうのである。
さらにおもしろいのは古今和歌集の秘伝(古今伝授)をうけたほどの一流の歌詠みであった宗祇という坊さんは、そちらの方には行かず、いつの間にか和歌の道よりも連歌の道にはまってしまい、連歌師になってしまうのである。
しかも都を飛び出して遍歴の旅に出て、至る所に連歌を普及させていく。
旅に出る方も出る方なら、その坊さんから教わる方も教わる方である。
私はこういうことが不思議で仕方がない。
なぜ日本で連歌のような高級な遊びが地方の村々まで広がったのか。
それは日本の農村の文化水準の高さを前提としなくては解けない問題である


能ももともとは地方の田遊びから発生したものである。
それを世阿弥という一人の天才の出現があったにせよ、
将軍足利義満が愛好するということが、日本の非階級社会の証明にもなっている。
いや世阿弥の出現そのものが非階級社会の証明といえるかも知れない。
結崎座という一地方社会の芸能座の中からこのような天才が現れるということが特異な現象だと思う。
さらに都で洗練された能は再び地方にも流出し、各地に都の能に劣らない優れた能が定着した。


銀閣寺の庭園にしてもそうである。
庭園を造ったのは高名な芸術家ではない。
善阿弥という賤民身分に属する河原者と呼ばれた人々の中から出現したのである。
このようなことは数え上げていけば、まだまだ他にもある。
千利休が大成した侘茶にしてもそのルーツは庶民の茶寄会にあるし、後白河法皇の今様にしてももともとは白拍子などの遊び女の芸能である。





●祖先崇拝というのは、日本や中国だけでなく、古代ゲルマン社会にも古代ヴァイキンク社会にもあるものであって、古代社会に広く共通して見られたものである。

中国人はまず生きてある親に対する『孝』を尽くすことから始めて、単にそれだけではなく、死んだ親に対する『孝』というものにまで発展させていく。
そうして祖先の魂を呼び戻す行為は子孫の役割だと考えられていくのであるが、このことは単に親に対する親孝行だけではなくて、いずれ自分も子孫に祭られるという観念につながり、やがてそれは自分の死に対する恐怖や不安を解消することにもなっていく。
そこに儒教のもつ強い宗教性があるのであって、儒教は単なる学問ではないということがいえる。


人が一人で誰にも見とられずに死んだり、孤独な死、または不幸な死というのは、古来から最も恐れられた死に方であって、そのような人の霊魂は適切な祭祀を行わなければ人に祟ると信じられていた。だからそこに神として祭る必要が出てきた。
今から思えば、そんな霊魂はお寺さんにお任せすればいいではないかと思うのかもしれないが、そこが間違いの始まりであって、当時のお墓というのは村はずれの共同墓地であった。
そういうところで祖先を祀っても、その子孫はどうも不安でたまらない。どこか安心できない。そういう怨霊を恐れる気持ちがずっと流れていた。

日本の霊魂観に対し仏教はどう考えるかというと、
たとえば諸行無常、つまり常なるものはない、
諸法無我、つまり自分という実体はない、
縁起、つまり縁あって起こる、
すべては関係性の中で起こる、つまり実体はない、
また空、色即是空・空即是色の空であるが、
この様に全てのものに実体はない、つまり霊魂はない、そんな霊魂などというものを考えたらだめなんだ、
というのが仏教の思想であった。
だから物に魂が宿るという日本の思想は、このような仏教思想とは非常に根深い対立をはらんでいた。
無我というのは何もないのであるから、そこに魂だけがあるのはおかしいということになってしまう。そこに矛盾がある。

ところが民間の仏教者である各地をまわる聖という仏教者たちは、『怨霊はいない』とは言わない。庶民の考え方を否定しなかった。
そして丁重に庶民の先祖の供養を行ってやった。そういう活動の中で仏教が次第に庶民の間に溶け込むようになる。


そういうことを可能にしたのが平安初期の最澄と空海の密教であって、密教は仏教思想と日本のアニミズムとの矛盾を解消していく。
日本のアニミズムを論理的に正当化したのが密教である。
平安時代初期の密教は、仏教のもつ実体否定性をまた否定する。つまり二重否定を行う。実体はあるとする。実体があるのだから、霊魂はあるということを認めたのである。
それが平安初期の最澄と空海の共通点である。
最澄はすべての人は仏性を持つ、『一切衆生、悉有仏性』(生きとし生けるものすべてに仏性がそなわっている)ということを強調する。
衆生の一人ひとりに仏性が宿るという。このことによって諸法無我、つまり実体はないという思想が、諸法実相、つまり実体はある、ということになって仏を実体化し、さらに魂を実体化していくことに成功した。





●日本では、人間の霊魂は祟る。
それを鎮めるのが御霊会である。

人間は怨霊化する。
最大のものが、菅原道真である。
それを鎮める場所が、太宰府天満宮である。

今の京都(平安京)に遷都したのも、桓武天皇が自ら殺した弟の早良親王の怨霊を恐れたからだということは今や定説化した観がある。

源氏物語を読んでみると、主人公たちがいかに『もののけ』を恐れていたかが分かる。

そのような信仰は、最近も宮崎駿のアニメ『もののけ姫』がヒットしたことを見ても、現在まで受け継がれているといえる。

人の霊魂が恐れられたということは、つまり日本人にとって他者とは畏怖の対象であったということである。
だから人が不幸に死んでしまうことは恐れられた。
その霊魂が怨霊となり、この世に害をおよぼすからである。

そのような人間の手に負えない霊魂(または怨霊)を封じるものとして、日本人の期待を集めたものが仏教であった。

仏教によって、日本人は決して仏教の『輪廻』を受け継いだのではない。その証拠には、今でも死んだ祖先の霊魂は、いつまでもこの世にとどまり、『草葉の陰』に隠れていると信じられている。

阿弥陀堂建築というのは、本来は自分の極楽往生を願うためのものであるが、他方では同時に怨霊封じの機能を持つ。

壇ノ浦で滅亡した平家はのちに怨霊化し多くの人々が恐れたことは、小泉八雲の『耳なし芳一』の話に記されている。
そしてそのような怨霊を鎮めることを生業とする多くの聖(ひじり)たちが日本中を行脚していたことが知られる。琵琶法師というのもそのような聖たちの一種である。

『情けは人のためならず』とよくいう。
これは情けをかけるなではなく、かけた情けは自分に返ってくるから、情けをかけなさいという意味であるが、
私が今一つピンと来ないのは、そういう自己利益重視の打算的なものだろうかということである。

本来もうちょっと控えめなものではないか。それは、
『人に情けをかけて親切にしていれば、その人が死んだあとも決して自分に祟るようなことはない』
ということがもともとの意味ではないかと思う。

だからそこまで人に親切にできない人々にとっては、
『さわらぬ神に祟りなし』
が生活の知恵ともされた。

ところが日本の文化史のなかでいまだ解明されていないことは、そのように人に災いをもたらす人(または人の霊魂)が、いつの間にか感謝の対象となっていくことである。

『おかげさま』『世間さま』『人は人様』『感謝の心』『人によって生かされている』
そのような言葉は今も生きている。

怨霊という『畏怖』の対象が、『感謝』の対象に変わっていく過程で、何が起こっていったのか。

敬語の発生や謙譲の美学などといったことも、それと関係している。

なかでも最も関連が深いと思われるのは、鎌倉新仏教の段階で現れた『他力』の思想だと思われる。
しかしこれも本来は『阿弥陀仏』の他力にすがることを目標とするものであって、今のように『自分は他人によって生かされている』とする考え方とはまた違うところがある。

日本人の霊魂は体の中にあるとされているが、その体の中にある霊魂はいつの間にか、『仏性』と見なされるようになっていく。

『一切衆生、悉有仏性』(生きとし生けるものすべてに仏性がそなわっている)
という考え方は、インドの大乗仏教にすでに見られるが、それは鎌倉新仏教にとっても大きなテーマであった。

しかしこの仏性はインドでは『空』として捉えられ、実態のないものとされた。
『縁起』(縁あって起こる)とはそういうもので、あらゆるものには実態がなく、すべてのものはそれを構成する他のものとの関係性によってのみ成立するという考え方である。

しかし、日本ではそうは捉えられず、『仏性』はあらゆるものに内在する霊魂のような実態としてイメージされた。
そこには日本古来のアニミズムが温存されて、仏教の中に注入されたように思える。
だから日本人は今でも、川にも山にも石にも木にもありとあらゆるものに仏性を感じることができるのである。
そのことが日本人が自然を愛する心とつながっている。

日本人の現世信仰はよく無宗教の証だといわれるが、決してそんなことはないのであって、日本人の現世信仰の中には人間を神に祀る宗教心が隠されている。その中に自分の命の永遠性をも保証するものがある。

今起こっているさまざまな社会問題は、そのような日本人独特の宗教心が根底から崩れているからではなかろうか。


例えば、
見ず知らずの人が、交通事故で亡くなった人の現場に花束を捧げたりすることは、今では良くあることだが、
日本の伝統的な社会では、そういう不幸な死に方をした人に花束を捧げることは、非常に恐れられたことであった。

死者の供養をすることは本来その親類縁者の仕事であり、
見ず知らずの他人が、(たとえ善意であっても)交通死亡事故の跡地に花束を捧げたりすると、
成仏できずにこの世をさまよっている霊魂が自分に取り憑いて、我が身を不幸に陥れるようなことが起こると信じられていた。

私は『死者への献花は良くない』などと言いたいわけではない。
私は逆に、そのことによって死者の供養への責任の分担が社会の中にあったことをいいたいのである。

死者の供養をするのは、あくまでもその血筋につながる者たちの責任であり、それ以外の人たちがたとえ善意であってもそのことを代行しようとすることは、逆にとんでもない災いを起こすきっかけとなった。
死者の供養ができるのは、その広がりは大きくても地域共同体の枠の外に出ることはなかった。
親類縁者か村の共同体によって、つまり然るべき人によって、弔いや祀り上げが行われていたのである。誰でも死者の弔いができるわけではなかったのである。

誰でも死者の弔いができるとする考えは、逆に傲慢ですらある。
人はそれほどの力を神から与えられてなどいないからである。

そのことは、死者にとっては一族の血のつながりや村の共同体のつながりが、いかに大事であったかを示すものである。

私は死者がタタルかどうかを言いたいわけではなく、
それほど人間の霊魂が信じられ、死者の霊魂が恐れられたことによって、今とは違った人と人との関係や、社会組織の機能が維持された面があるのではないか、ということを言いたいのである。

そのことが人の心に成長に一定の筋道を与え、
生の意味や、成長の意味、結婚や出産の意味、そして死後の世界の意味づけを、ちゃんと行えるようになっていたのではないか。

不幸に死ぬことがなぜいけないのか。
自分の勝手だからどう生きようと良いじゃないか。
そう考えることは本人の自由であるが、そこからは人倫や共同体の意味は出て来ない。

今日本は困ったことになっている。
人を勝手に殺したり、殺したあとで勝手に悲しんだりしている。

気まぐれで悲しんでもらっても、死者の霊魂は余計にこまるはずである。
成仏できない死者の霊魂は、少しばかり悲しんでもらったことによって、怒りさえ発することができずに、ますます成仏ができなくなるからである。

人を傷つけることは、その人の中にある霊魂を傷つけることであるし、それは自分がいつかその霊魂によって傷つけられることを意味した。
そしてそのような人は人倫関係の枠組みから除外され、共同体から排除されることを意味した。
そうなれば、自分の死後の霊魂を弔う人は誰もいなくなり、自分の霊魂がいつまでもこの世にさまよい続けることにもなった。

そのような、人間関係の不備からくる負の連鎖を、人々は最も恐れたのである。
逆に、そのような恐れこそが日本の人倫関係や共同体を築く核となり、人の心の傷に触れることを差し控える、繊細な心の交わりの方法をも発達させていった。

傲慢な態度は人を傷つけるし、傷つけられた心は後々になって自分の身に降りかかってくることを、死後の時間をも含めた長大な時間の中で、考えていく能力をも身につけさせることにもなった。

そのことは自分の身の安全をはかるためには、それよりも先に他者の安全を確保することが必要とされたということである。
そういう意味で他者の信頼を得ることは、最大の関心事となったのである。
そのためには人の心の機微を理解する必要があったし、それを読みとった上で、人に接することが必要でもあったのである。

敬語の発達もそのような心のうえに成り立つもので、自分を救ってくれる他者に対する尊敬の念があってはじめて生まれるものである。
救われる者が自分で、救う者が他者だとすれば、救われる者が救う者よりも上位にあることはない。

自分を下に見て、他者を自分の上位に置くという敬語の発達はこのような心性から生まれていったのである。
しかし逆にいえば、他者によって自分の後生までも含めた人生が救われるという心性を理解することができない者は、他者に対して敬語も使えなくなるはずである。使う必要を感じないからである。

上司に対してのみ敬語を使い、部下に対しては命令口調でしかものの言えない人間が増加していることは、敬語の根底にある他者の体の奥にある心のイメージを、多くの人が失っているからではなかろうか。

人間の潜在能力には目に見えない部分があって、そこには後生を含めて計り知れない力が宿っている。そのような人間の能力に対する畏敬の念が、人間の尊厳を生んできたのであり、そこにまた敬語の発生する余地も生まれてきた。

そしてそのことは人様を決して不幸に死なせてはならないという、他者へのいたわりや思いやりの情を生んでいったし、そういう心を理解するところにまごころを込めた人間関係も成立してきたのである。

『情けは人のためならず』というのをある種の政治的『施し』と捉えてしまえば、
そのような人間関係は維持されないし、それが維持されないところでは、社会的弱者の存在は一種のお荷物にしかならない。
それでは結局、弱者をおとしめることにしかならない。

社会的弱者への恐れは日本では暴動や革命への恐れにはならず、
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『力(りき)ばか』(「怪談」岩波文庫)の話にあるような、
知能の遅れた子供やその母の願いが、この世にはっきりとした形を取って転生するという思想によって表現されている。

そのように知能の遅れた子供をいつくしみ、大事にする風潮が過去の日本にはあったし、そのことはそういう子供たちの中にも普通の人と変わらぬ後生まで含めた畏怖すべき能力の存在を認めていたからであった。

そうであるからこそ、日本に革命を起こすような風土は発生しなかったのである。





西洋の中世個人主義のなかにも、神と人との一対一の関係という非常に根強い個人主義的伝統は存在したが、
それでも神と人との間には教会という社会的共同体の存在があったのであり、
個人はその社会的共同体と結びつくことにより個人の価値観を形成していたのであった。
しかし近代個人主義は、神と人との中間にある何物をも認めず、
個人を丸裸にした状態で直接神とを結び付けていくようになったのである。


このような戦争状態のなかで、中世的な価値観は崩壊していき、個人の価値観も大きな不安にさらされることになった。
『我考えるゆえに、我あり』といったデカルト『方法序説』が出版されるのは1637年であり、まさにこのような混乱の時代であった。

『我考えるゆえに、我あり』(コギト エルゴ スム)のデカルトの『コギト』ととは、
自分以外の何物をも信じることのできなくなり、社会的なきずなを失った一思想家の不安の表明であり、これをもって近代的自我の確立というには、あまりにも不安定な問題を抱えているものでる。
デカルトは神への信仰を捨てなかった人であるが、神だけでは安心できず、人と人とのつながりを求めないと不安で不安でたまらないというのは、洋の東西を問わず人の普遍的な姿であろう。

『人は一人では生きられない』、『人は社会的な動物である』というのは普遍的な真理であるが、このことと近代個人主義は鋭く対立したまま、人を不安のどん底に突き落としていくのである。
のちキェルケゴールやニーチェの感じたものは、それがやがて人の生きる意味を奪い尽くす所まで行き着いてしまうというニヒリズム到来の予感であった。

『個人の信仰の自由』が黙認されたウエストファリア条約の次の年(1649年)には、イギリスではチャールズ1世がピューリタン革命により処刑されるという事態が起こっている。

このことに危機感を抱いたイギリスの思想家ホッブズ
1651
年に『リヴァイアサン』を著し、このような混乱状態の危険性を指摘した。
『万人の万人に対する闘争』という表現は彼の危機感の現れであったのだが、
彼はこの『万人の万人に対する闘争状態』を『異常事態』とするのではなく、人間の『自然状態』という表現を使ったために大きな誤りを犯すことになった。

宗教改革と個人の信仰の自由によりもたらされたものは、隣人同士の不信感である。
隣に住んでいる愛想の良いおじさんが実は自分と違うプロテスタントであるかも知れないという不安に、人々は絶えず脅かされるようになった。
『めったなことは言えない』、そのような疑心暗鬼の世界が西ヨーロッパの至る所で見受けられるようになるのである。
それは言ってみれば旧ソビエト連邦の密告社会のような恐さに近いものである。

東ヨーロッパでも確かに宗教の違った様々な民族が入り交じっているのであるが、
彼らは民族同士が住み分けており、同じグループの居住区を持っている。その中での共同体は維持されている。
だから旧ユーゴスラビアのように、一度強力な政権が崩壊すると、居住区間の民族紛争は起こりはするが、居住区単位の民族集団の一つひとつはしっかりと維持されている。政治的不安は深刻ではあるが、ここでいう内面的な不安とはまた別の次元のものである。

しかし西ヨーロッパではそのような共同体がなく、また宗教を異にする民族の住み分けも行われていないため、
お互いが日常の中で無意識のうちに警戒し合うという状態が続いていくのである。
西ヨーロッパではカトリック居住区やルター派居住区、またカルヴァン派居住区などというのは分けられておらず、みんなが好き勝手に、個々人が異なった宗教のもとで、バラバラに散在して住んでいるのである。
個人の信教の自由というのはそういう事態を容認することである。
いきおい自分の内面生活は人に見せないようになる。相互不信はますます高まるようになる。

このようなことを考えるとドイツのヒトラー政権下で、ユダヤ人探しが行われた心理も理解できてくる。彼らの不信感はユダヤ人というスケープゴードを捜すことによって癒されていったのである。
ゲルマン民族の中にあたかも仲間のような顔をして住んでいるユダヤ教徒たちは、宗教の違いから、キリスト教徒たちにとっては不安の象徴になった。
そしてそれがゲルマン民族による第三帝国の実現という荒唐無稽なユートピア思想へとつながっていったのである。

ホッブズの言う『万人の万人に対する闘争』という言葉は、
そのような西ヨーロッパの不安な社会状況を言い表した言葉だったのである。
そういう状態からは必然的にニヒリズムしか生まれてこない。
しかし、ホッブズはそれを『自然状態』だと捉えたのである。
ホッブズは人間がいつの時代も持っていた共同体内部での安心感へ希求を、完全に捨象してしまったのである。

しかしこのような人間観は一面では非常に危険なものである。
しかも、それを『自然状態』だと捉えれば、次にはそれを肯定的に捉えるものが出てくるはずである。
初めから人間の社会性を捨象してしまう人間が出てくることになる。

世界史の大きな流れはそういうことになっていく。

ピューリタン革命後のヨーロッパ社会は安定に向かうどころか、
イギリスとフランスの絶え間ない第二次英仏百年戦争に突入していった。
それはイギリスとフランス間の新大陸での植民地獲得戦争と同時進行で行われた。

この第二次英仏百年戦争がイギリスの勝利に終わったかに見えたとき、
イギリスに対して今度は植民地のアメリカが独立戦争を開始した。
そしてアメリカは1776年、アメリカ独立宣言を行ったのである。

さらにこれがヨーロッパに飛び火し、フランスではルイ16世の政治に反対する民衆が反乱を起こし、
1789年にフランス革命が勃発したのである。

このようなことを見ていくと日本の安定期に当たる江戸時代は、ヨーロッパでは絶え間ない戦争の時代だったことがわかる。


一方日本ではどうだったのかというと、
1598年のナントの勅令の約10年前、
1587
年に豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、キリスト教宣教師の国外追放を命じている。
その後、豊臣から徳川に代わっても、禁教令は拡大され、全国にむけて禁教令が出されるようになった。

ヨーロッパでは1648年にウエストファリア条約が結ばれて個人の信教の自由が黙認されたが、
日本ではその約10年前の1637年に島原の乱が起こり、
キリスト教的価値観が政治的に結集したときの恐ろしさを十分に味わうことになった。
ヨーロッパではウエストファリア条約以後は、個人の内面にかかわる思想や信仰に対して、国家が口出しをすることはなくなったが、
逆に日本では島原の乱以後は、個人の宗教生活にも幕府の指示が色濃く行き渡るようになり、幕府の仏教政策のもとで国民の大多数が仏教徒になっていった。
寺請制度とか檀家制度と呼ばれる政策である。

このことは一般的には日本の封建制を示すものとして否定的に扱われるのが常だが、
一方でこの檀家制度は日本の伝統的宗教感情である祖先崇拝の信仰と結び付き、
社会の最小構成単位である『家』制度を、命の連続体として捉えることに成功していった。
そしてそれを庶民のレベルまで浸透させていった。
そのような形で日本人の『あの世』観が安定し、命への肯定観労働に対する勤勉性を育んでいった。
それは宗教的なものから出でて、脱宗教的で合理的なものへと発展していったのである。

また日本では、ウエストファリア条約の次の年の1649年に『慶安の御触書』が出され、農民の日常生活への心構えが示され、農民の生活安定が目指された。
そしてそれ以降、日本では島原の乱に匹敵するほどの農民反乱は、幕府が滅亡するまでついに起こらなかったのである。

つまりここで言えることは、
ヨーロッパでは、
個人の信仰の自由に端を発する個人の価値観の自由を認めたことにより、宗教観の対立や王権への反乱、そしてまた国家同士の対立が果てしなく続いていたのに対して、
日本では、キリスト教的価値観を排除することにより、上は武士から下は農民に至るまで、幕府の政策による価値観の浸透が進んでいき、天下泰平の時代が続いたのである。
徳川の平和がもたらされたのである。





●『キリスト教とは言葉によって、神が自己自身を啓示する宗教である。まさしく「はじめに言葉ありき」なのだ。このように聖書によって何から何までが作られていく世界には以心伝心とか口約束などという生やさしいものは通用しない。』
(神聖ローマ帝国 菊池良生 講談社現代新書 P163)


中世ヨーロッパは以心伝心の通じない疑り深い社会である。
啓蒙思想家のホッブズが『万人の万人に対する闘争』という社会像を思い描いた背景には、このような中世ヨーロッパ社会の歴史がある。





●人を傷つけることは、その人の中にある霊魂を傷つけることであるし、それは自分がいつかその霊魂によって傷つけられることを意味した。

そしてそのような人は人倫関係の枠組みから除外され、共同体から排除されることを意味した。

そうなれば、自分の死後の霊魂を弔う人は誰もいなくなり、自分の霊魂がいつまでもこの世にさまよい続けることにもなった。

そのような、人間関係の不備からくる負の連鎖を、人々は最も恐れた。

逆に、そのような恐れこそが日本の人倫関係や共同体を築く核となり、人の心の傷に触れることを差し控える、繊細な心の交わりの方法をも発達させていった。

傲慢な態度は人を傷つけるし、傷つけられた心は後々になって自分の身に降りかかってくることを、死後の時間をも含めた長大な時間の中で、考えていく能力をも身につけさせた。

そのことは自分の身の安全をはかるためには、それよりも先に他者の安全を確保することが必要とされた。
そういう意味で他者の信頼を得ることは、最大の関心事となった。

そのためには人の心の機微を理解する必要があったし、それを読みとった上で、人に接することが必要であった。


敬語の発達もそのような心のうえに成り立つもので、自分を救って入れる他者に対する尊敬の念があってはじめて生まれるものである。
救われる者が自分で、救う者が他者だとすれば、
救われる者が救う者よりも上位にあることはない。

自分を下に見て、他者を自分の上位に置くという敬語の発達はこのような心性から生まれていったのである。





●日本語のバリエーションの多くは『自発』または『受身』を中心にしてその周囲を取りまいている。
なかでも『主語』を必要としないのは『自発』のほうであり、その意味で最も特徴的な表現は『自発』であるといえる。
日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつのである。

『自発』とは、『主客合一の世界においてある行為が成立すること』であり、そのことは日本人の感情の心地よい原点が、『主客合一』『自他未分離』にあることを示している。

日本人にとって良い関係とは、それが人間であろうと物事であろうと、『主客合一』『自他未分離』の状態を感じさせる関係である。

その関係が成立しているかどうかという判断が『場を読む』『雰囲気を読む』『空気を読む』ということであり、それが一旦成立していると見られた場合には、その関係を崩さないようにお互いが会話し行動することが求められる。

いわば『我』を目立たせないことが大切になってくる。『我』を出すということは『自発』の嫌う『主体性』を発揮するということであり、その結果『場の空気』を乱すことでもある。

それはまた『主客合一』の居心地のいい状態を崩すことであり、『自他未分離』の状態から『自他分離』の居心地の悪い状態へもどることである。

このようなことから日本人にとっては『主体性』を表現しないようにすることが常に求められているのであり、
そういう意味では常に『主語』を表現し『主体性』を誇示することを求められる英語の表現とはかなり違った能力が求められている、ということができる。

『我』を出すばかりで、『場の空気』を乱すものはやがて排除されていくようになる。

『個性尊重』の教育にともない、『自己主張』をするように絶えず求められている今の子供たちに、『いじめ』が起こりやすくなっていることはこのことと無関係ではないように思える。


敬語の基本は、極力『我』を出さず、すべてのことが『自発』的世界の中で起こっているかのように表現する言葉遣いにある。

よく敬語は自分を低く見て、相手を高く見ることだといわれるが、それは決して間違いではないが、より正しくは、自分に対しても相手に対してもその行為の『主体性』消し去ることにある。

自分を下にして相手を上にした言葉遣いをしすぎると、かえって不自然で『慇懃無礼』に感じられるのはそのためである。





●日本は、鎌倉新仏教成立以後の中世社会以降、ヨーロッパ的な個人の自己決定などというものはなかった。
鎌倉新仏教の教祖たちが共通して目指したものは『自己の救済』ではなく、『庶民の救済』である。

そこには、
『一人だけ救われても何にもならない、すべての者が救われなければならない』
という大乗仏教以来の思想的伝統がある。
そこから『利他の精神』が生まれ、
他者によって自らも生かされていることに気づくという、
他力本願の考え方も生まれてくる。
そこに日本的な道徳基盤があったのである。

そのような道徳基盤の中から、他者のことを優先し自らのことを後回しにするという克己的禁欲が発生する。
近江商人の商人道とはそういうものであった。
彼らは財を蓄積し江戸で大棚としての名声を博しても、決して華美に振る舞わず、一汁一菜、木綿の羽織という生活スタイルを崩さなかった。

そして
『富は社会に還元してこそ富である。皆さんのおかげでここまでなれたのだから、皆さんのために商売を広げてお役に立ちたい』
という姿勢を崩さなかった。

ヨーロッパキリスト教社会では、神の保護を受けているから富の蓄積によって神への奉仕をしていくという思想が脈々と流れている。(主のものは主へ)
日本の場合には、他者の保護を受けているから自分の稼いだ富もいずれ社会という他者に返していくという思想が流れている。
そこには確かに保護に対する奉仕の関係(借りたものは返すという関係)として共通するものがある。


しかし大きく違うものは、前者が神と人の関係であるのに対し、後者は人と人の関係であるということである。

自己決定というのは本来神と人の関係の中で発生する宗教的な関係である。
そしてその神はキリスト教のような一神教であることが条件である。

それに対し人と人の関係の中に人生の本質を読みとろうとする日本のような社会の中では、ヨーロッパ的な自己決定の考え方は成立しえない。
もしあるとするなら、その自己決定はわがままと称されるものになる。このわがままをもって社会ルールとし、社会の安定を図ろうとするのは、無謀というものである。

ヨーロッパの権利というのは、このような神と人との一対一の関係に置いて保障され、その条件の中で人間に生得的に与えられた自然権として発生した。

しかし日本では神によって社会の安定が保障されるという思想も、国の安定が保障されるという思想もない。

だから社会を安定させているのは一人一人の人間であって、国を安定させているのも一人一人の人間であるという考え方が当たり前のこととして受け入れられてきた。
逆に自分一人だけの利益をはかる者は、他の不利益を生むものとして社会的に戒められてきた。

日本人にとって権利とは、他者の生活の安定にとっても有益であるという条件の下に成立するものであって、
それは自分も他者からのいろいろな面での支えや保護を受けているという前提があって、
その相互作用の中で成立していたものであった。
社会的な責任を果たし、社会的な義務を果たしているから、
社会的な権利も主張できるという構造があったのである。

他者からの恩恵をこうむり、他者からの保護を受けているから、
その保護を受けた分は社会的責任として他者に返さなければならないという合意があり、
それを成し得た上で、他者からの信頼を勝ち得た者に社会的な権利が与えられたのである。

普通、自己責任を果たした者には自己決定権を行使するだけの力が備わっているが、
逆は真ならずで、自己決定をした者に自己責任能力が備わっているとは限らない。
その不足している部分を誰が補うかというと、神が補うのではなく、
社会全体や行政全体が補わなければならないとしているのが、
日本の自己決定論の不思議なところである。
自己決定には必ず自己責任が伴わなければならないにもかかわらずである。

そんな都合の良い社会はいつの時代もなかったのであって、
それでいて社会が維持されると考えるのは、非常に危機管理の甘い社会である。
社会の治安は必ず今以上に悪くなる。

日本では神によって社会の安定が保障されるという思想も、国の安定が保障されるという思想もないが、
人々の努力が忘れられ、なおかつ各個人に自己決定権を認めることによって、ますます良い社会が築けるという思想自体が、
思想的論理構造を無視した思想なのである。

人を人として育て上げていくという思想を放棄した上で、生得的に人の自己決定権だけが発生することなどいつの時代にもなかったのである。
日本は人は人から育てられる以外には方法はなく、
それ以外に頼るべきいかなる一神教的戒律も道徳観もない。道徳は神から与えられるものではなく、人から受け継ぐものである。
それがなければ社会的禁欲さえも育たない。
人のものを盗って「だって欲しかったんだもん」という子供さえ、制止できないことになる。

人からも育てられず、神の教えもない日本で、強い道徳心が育つわけはない。

『自己決定権』
『個性尊重』、
『競争原理の導入』、
『習熟度別クラス編成』
『エリート教育』など、
現在の教育改革が失敗の一途をたどり、
子供たちの人間関係を自ら政府が切り崩している今日、
そのような論理との整合性を全く持たない道徳教育がいくら導入されても、
社会的な保護も義務も責任も知らされない今の子供たちの心に届くはずはなく、
みんなが白けた中で道徳的退廃が待っているだけなのである。





● 『学校は、単に学習の場というよりも、養育の過不足を補う機会なのである。
子どもが抱えている、ごく初期の誇大自己症候群は、この学校という過程を経て、現実的なものに修正されてきた。
しかし、こうした修正機能がうまく働かなくなっているのを感じる。
それは、教師のせいというよりも、人々の考え方の変化や教育理念自体のミスリードが大きいように思える。
学校は、家庭の問題の緩衝装置として働かなければならないのだが、全く逆に、家庭と同じような方向に問題を助長してしまいがちだ。
その最たるものは、『個性尊重』教育のような、見当はずれな発想である。
甘やかされて躾もろくにできていない子どもの傍若無人な振る舞いを『個性』だと大目に見ていれば、学級が崩壊してしまうのも当然の帰結である。』
(『誇大自己症候群』 岡田尊司 ちくま新書)


誤った『個性化教育』は、誤った『自己主張』を生む。


日本では従来それを『個性』とは呼ばずに、『我』と呼んできた。
『我が強い』と言われればそれは決して誉め言葉ではなかったように、日本人は『我』のもつ恐ろしさを知っていた。


『個性』や『主体性』というのはこのように、権利と責任が表裏一体となって表示され、そのために起こる深刻な不安をキリスト教という一神教の神と向かい合うことによって癒さねばならないような社会の中で誕生するものである。

ところが日本の『個性化教育』は、まだ責任能力の問えない子供たちに『権利の主張』ばかりを教え、それと表裏一体の関係にある『責任』を引き受ける恐さを教えないものである。

その結果、子供が生のかたちでもつほとんど『わがまま』と同じレベルの『自己主張』が肥大化することになる。





●子供のしつけがなっていないといわれてから久しい。
子供のしつけがなっていないということは、子供が暴力的になるということである。人間が礼儀をわきまえなければ暴力的になる。

私は子供のしつけはほんらい家庭教育の役割でそれを学校ですべきものとは思わないが、
子供のしつけがどうしようもなく崩壊している現状では、学校は子供のしつけの崩壊を食い止める方向に動くべきであった。

ところが文部科学省がとった方針は全く逆のもので、平成の初めから、『新学力観』のもとに子供の『個性化・自由化』を言い出した。

個性化・自由化といえば聞こえはよいが、それはたんに子供を放任し、しつけらしいしつけをしないことであって、子供のしつけの崩壊を食い止めるどころか、全く逆に子供のしつけの崩壊をさらに推し進めることになった。

子供のしつけが崩壊し子供が暴力的になれば、いじめが横行する。
それは誰にでも予測できることなのだが、実際にその通りになった。

神学論争のような教育論議のなかで、ことの真相は意外と簡単であるような気がする。

しつけが崩壊し、子供が暴力的になった。
しかも文部科学省は個性などというおよそ初等教育にはふさわしくない高尚な机上の空論のなかで、逆に子供の暴力性を促進するような政策を打ち出した。

文部科学省は未だ自分の過ちを認めようとしないが、
ことの真相は意外と簡単なところにあるのではなかろうか。


先ほど『神学論争のような教育論議』と言ったが、文部科学省が目的としている学力観とは、いわゆる『PISA型』の学力観である。

横文字でPISA型などというから余計わからなくなるのだが、一言でいえば従来のような『知識・理解』に学力の重きを置くのでなく、『思考力・応用力』に重きを置くものである。
そこでは教師は子供を答えに導く存在ではなく、子供自らが知識や真理を探究することを支援する存在でなければならないとされる。
つまり教師は子供に何かを強制してはならないのである。

実はこのPISA型の学力観は、国際機関の経済協力開発機構(OECD)が提唱したものである。
つまり、教育の専門機関が提唱したのではない。
経済の専門機関が教育の分野で主導権をにぎり、国際的な学力観の大幅な変更を行おうとしたということである。

OECDが養成したかったのは、教科の知識の習得よりも、『社会に出て使える力』である。
言葉の響きはよいが、これがいったいどういう力なのかは誰にもわからない。

実際、OECD側は、どのようにしたら、そのような能力が得られるのか、何も具体的なことを言っていないばかりか、
どのようなカリキュラムによってその教育目標が達成されるのか、現在のところほとんどわからない、と述べている。
(競争しても学力行き止まり 福田誠治著 朝日新聞社 P165)

このことだけでも不思議な話である。

ところが日本ではこのPISA型の学力観が無批判に受け入れられ、文部科学省がそれまで推進してきた『新しい学力観』の補強材料として使われることとなり、『生きる力』というこれまた意味不明の言葉を生み出すことになった。
この言葉はOECDのいう『社会に出て使える力』を日本人受けするように言い換えたものである。

こういう流れの中で、新たに文部科学省が生徒の学力を測る方法として打ち出したのが、『観点別評価』というものである。
これも、PISA型の学力観に沿うものである。

そこでは従来、学校教育の基本とされていた『知識・理解』が、学力を測定するための1パーツにすぎなくなり、その他に学力を測るための新たな3つの観点が登場した。
あとの3つの観点とは、『関心・意欲』、『技能・表現』、『思考・判断』である。
学力とはこの4つの観点をもって測定しなければならなくなったのである。
このうち特に強調されているのが『思考・判断』と『関心・意欲』である。

この『思考・判断』と『関心・意欲』とがOECDのいう『社会に出て使える力』を養成するためにもっとも必要なものとされたのであるが、どうやってそれを育てるのかということになると、誰にもその方法はわからないのである。
このようなことを考えると、『新学力観』の根幹をなす『生きる力』『個性化』『自主性』は、いわば羅針盤を持たずに大海に乗り出したようなもので、あてもなく漂流することは最初から目に見えていたことである。

子供たちの多くは『授業への構え』もできないまま、緊張感のない中で、教師から何ら強制されることもなく、『自ら学ぶ』意欲が出るまで、放任されるのである。

放任されたほうは大変である。
子供は授業の『理解』を強制されるのでもなく、学校での『知識』を強制されるのでもない。
あくまでも『生徒自らが』学ぼうとする『意欲』こそが大事だとされ、あとは生徒の自主性に任されたのである。

その結果、『授業への構え』が崩れ、学級崩壊などの今まで見られなかった学校教育の病理が現れてきた。

そしてこのような事態は子供への『しつけ』を著しく低下させたのである。
















教育の崩壊