脱A型社会の病理

2008.6.1  

(掲示板より)


日本人に血液型のA型が多いことは統計上知られているが、このA型の特性とは、まじめで几帳面、内向的でおとなしいことである。
いわば決められたことを決められたとおりきちんとやる性格である。それは学校が従来求める生徒像に良く適合するものであった。
このような学校のなかでA型人間はその特性を良く生かされ、社会に適合していった。

ところが今はこのA型特性に類するものが学校現場で遠ざけられ、その代わりに個性とか活動力とか応用力が求められるようになった。

それと同時にA型特性の子供たちは学校現場で煙たがられる存在となるか、または気の利かないのろまな存在とみなされるようになり、徐々に学校での居場所を失っていった。

代わりに気の利いた活動的な子供たちが学校での中心となり、学校そのものの雰囲気を変えていった。

行き場を失った子供たちは、自分の殻に閉じこもるようになり、やがて大量の不登校の子供たちを生み出していった。
几帳面でおとなしいA型特性の子供たちは学校での子供集団から排除され、孤立感を深めた結果、学校に行けなくなって、精神病理を深め、もともとの几帳面さから来る二次傷害を発症するようになっている。

日本人の約半分はA型だといわれるが、今脱A型を目指しているのは実はこのA型だと思われる。A型人間の多くが脱A型を目指している。このA型人間による脱A型人間への移行に乗り遅れた子供たちが、学校への不適応を起こし、社会問題化している。

(ここでいうA型人間とは血液型がA型であるだけではなく、いわゆるA型人間に似た性格をもった子供たちすべてを指している。
日本人の約半分はA型だということは、それが日本人の国民性を形成する上で重要な役割を果たしているということであり、そのことはA型の血液型ではない人でも、日本人の国民性としてその性格の大部分を受け継いでいるということでもある。
それは日本という国が農耕社会として成立して以来の、日本人の多くが受け継いできた性格である。
そういう意味では、日本の農民の勤勉さや几帳面さは、日本の社会の根底を形成してきたものであり、少なくとも江戸時代以来の数百年の歴史をもつものである。
私は、明治以来の日本の近代化も、敗戦後の高度経済成長も、日本人のこの勤勉さや几帳面さによって成し遂げられてきた部分が大きいと思う。)



脱A型人間の特徴は、まず乱雑さ、粗暴さである。

日本の企業にはサラリーマンとしての几帳面さより、発想の豊かさやオリジナリティーが求められているいうのが企業社会の言い分かもしれないが、
それがそのまま教育現場に降りてくるということがどういうことなのか、そこは企業の論理だけではなく、教育の論理で考えなければならないことだと思える。

子供が乱雑で粗暴になる一方で、それについて行けない子供たちは学校から排除されつつある。

このような事態はもはや学校だけでの問題ではなく、日本社会を取りまく企業倫理や大人社会の価値観まで含んだ社会全体の問題である。

そういった傾向にほんらい警鐘を鳴らすべきはずの文部科学省は、何を勘違いしたのか、逆にそのような傾向を助長する方向に舵を切ってしまった。
平成が始まったころからの、個性化・自由化・ゆとり教育という一連の流れがそれである。
それは、文部科学省の大失態として教育史上に名を残すものであるが、いまだ文部科学省はその誤りを認めようとせず、根本的な見直しを行わないまま、ただ自らの失態を隠蔽することにのみ汲々としている。
そして今も個性化・自由化・ゆとり教育という流れは地下水のように文部科学省内に流れ続けている。
問題の根幹にあるのはゆとり教育という表面的なものよりも、その根幹にある個性化・自由化という思想上の病理である。


思想上の病理が現実社会にまで根を下ろすには時間がかかるが、それが今はっきりと現れてきている。
ここ30年間の生徒の変化を見るとき、
生徒が教師を傷つける校内暴力から、生徒が生徒を傷つける校内暴力へと変化してきていると思う。
そしてそれは目に見える校内暴力から、目に見えない校内暴力への変化でもある。

子供同士が傷つけあう社会、それが学校で起こりつつあることである。




教育の崩壊