権力の信用度 ローマと中国

2008.5.20  

(掲示板より)


ヨーロッパ社会は古代ギリシアの時代から、権力への不信感がある。
古代ローマ社会もそうである。だから初代ローマ皇帝オクタヴィアヌスは自分のことを皇帝といわず、プリンケプス(市民の第一人者)といい、自らを市民の一人に過ぎないと位置づけた。
それはローマ市民にはもともと根強い権力者への不信感があることを見て取ったからである。
実際、ローマの権力者は、人間を人間として扱うことをせず、戦争に負けた者や借金で首が回らなくなった者を奴隷として使役していた。
権力への不信感というのはこういう社会の中で発生する。

ところが中国では、皇帝に人間としての『徳』を求めた。徳があってはじめて皇帝たりえるという思想が生まれ、皇帝がその徳を失えば、天命が革まって、革命が起こり、新たな徳を持った皇帝が誕生するという思想が芽生えた。これが易姓革命である。

中国の皇帝が本当に徳のある政治家だったかはとにかく、中国では皇帝は『徳』を持っているべきだと考えられたということが、ヨーロッパの皇帝権と比べた場合に重要である。

ヨーロッパには徹底した、権力への不信感がある。
それに対して中国では常に権力への信用を勝ち取ろうとした歴史がある。
人間としての徳を判断するためには教養が必要である。
人間としての徳という発想のない古代ローマでは民衆の人気を勝ち取るために『パンとサーカス』がさかんに催された。
民衆に無償でパンを供給し、コロッセウムで人間と猛獣との死闘をイベントとして興行する。そういう形でしか民衆の不満を解消することができなかったのである。

それに対し中国では、徳の質を判断するための教養が、儒教の教養によって培われた。

『パンとサーカス』と『儒教』、つまり『イベント』と『教育』である。
教育によって国を治めるか、たんにイベントによって民衆の不満を抑えるか、
今の日本はどちらを選択しようとしているのか。




教育の崩壊