掲示板より
古代バビロニアのハムラビ法典の石碑には、ハムラビがバビロンのマルドゥク神から王権を象徴する棒と縄を与えられている情景が描かれている。
このことが意味することは、王権は神から与えられるということである。 国というのは実は神のつくったものである。 神が存在しなければ国は存在しない。
だから、古代エジプトの王は『神の化身』として民衆の前に立った。
古代エジプトの古王国時代のピラミッドにしても、世間一般に考えられているように、王(ファラオ)が人民を酷使してつくったというものではない。 むしろエジプト人は、自分たちの信仰にもとづいた自然な姿で、ピラミッドの造営に参加し、額に汗したのである。
ではこのとき神はどのように変化したのだろうか。
古代バビロニアのハムラビ王がバビロンのマルドゥク神から王権を象徴する棒と縄を与えられた時、 または古代エジプトの王が『神の化身』として民衆の前に立った時、 民衆の前に現れる神の姿は、それ以前のまだ国家が現れる以前の神とどう違ったのだろうか。
国家が成立する前には、いたるところにいろいろな神が存在し、彼らはどれが優勢でもどれが劣勢でもなく、互いに対等に存在していたが、 国家が成立すると、その国家に正当性を与えた神は他の神に比べて神としての地位が著しく高くなり、最高神となった。
国家というものが民衆にとって必要不可欠で、その存続なしでは民衆の生存自体が脅かされるような社会の中では、 神が国家に正当性を与えると同時に、その神は民衆にとっても一番大事な神となり、最高神として祭り上げられるようになっていく。
国家成立の前まで、人と神は別々の領域に、別々の時間に住んでいたが、 国家が成立し最高神が誕生すると、神と人とは同じ領域、同じ時間に住むようになる。 そして人々の心の中に一日中、神が同居するようになる。
日本では神と人とが別々の領域に住み分けていたことは、『ハレとケ』という言葉で表される。 『ハレ』の日には神を祀りにぎやかなお祭りを繰り広げるが、それが終わると、 神のことは忘れて通常の『ケ』の状態にもどり、いつもと変わらぬ労働が繰り返される。
ところが、最高神になった神が一日中人々の心の中に住み続けるような精神の変化は、 それまで多神教の中でさまざまな聖霊(スピリット)がうごめいていた世界から、多神教の聖霊たちを徐々に追い出していくようになる。
日本人はこの点、普段、『国』を意識していない民族である。 国家は当たり前のようにそこにあるものであり、国家の正当性がどこにあるかということをほとんど考えずに暮らしている民族である。
ところがヨーロッパをはじめとする多くの国では、国家の正当性はたえず意識されている。 国家とは意識的なものであった。
もともと人間は自然の懐に抱かれた存在であった。 人間は自然の一部にすぎなかったし、その自然のなかには森羅万象をすみかとする神々が存在した。 人間はそのような神々との生活を最も大切にしてきた。
しかし国家ができ、最高神が誕生すると、そのような今までともに生きてきた神々を排除するようになっていく。
それまで人間は、人とともに暮らす時間と、神々とともに暮らす時間を分離して棲み分けていたが、 国家が誕生するとその時間の使い分けができなくなり、 人間は一つの時間の中で、人の中で暮らすとともに同時に神とともに暮らすようになっていく。 つまり一つの世界の中に神と人とが同居するようになる。 これが国家である。
最高神以外の神々はもはや神とはしては扱われなくなり、 それは見たらいけない世界、考えたらいけない世界として負の価値を持つ世界におとしめられていく。 そこは鬼や妖怪の住む世界であり、悪魔や魔法使いの住む国である。 それは悪の世界であり、夜の世界である。または人の恐がる死の世界である。 このような形で人間の精神世界が分断されていく。 『ハレとケ』の循環の中で、神々とともに暮らした統一された精神世界は失われていく。 ここで人間の心の中に、意識と無意識が分断されるのだが、 人間は無意識の世界に気づくことなく、意識の世界だけを認識するようになる。 その結果、意識の世界だけが肥大化し、人間はその意識の世界だけを頼りに生活するようになる。 このようにして人間の合理的な生活が始まるのだが、合理的生活というのは意識の産物である。
国家を否定することは不可能である。
しかし人間の無意識を無視することも不可能である。 国家神を最高神とする意識の世界はやがて無神論に陥っていくが、 人間にとって神を意識しないことは不可能なことである。
国家の中にいかにして聖霊(スピリット)たちを呼び戻すことができるか。
世界に向けて日本が考えなければならないことは、そのようなことである。
国家とは神々の統合のことである。
最高神になった国家神は、他の諸々の神々の頂点に立つ者として国家を統合しなければならなくなる。 または、唯一神として君臨し、他の神々の存在を否定しなければならなくなる。その結果、一神教が誕生する。
しかし日本では、国家神としての天照大神が誕生したあとも、八百万の神々が至る所に存在し、多神教の世界を維持してきた。 日本は国家神を持ちながらも、その国家神がけっして絶対的な最高神にならなかった国である。
そうであったから多神教の世界を維持できたわけだが、 多神教といっても、日本の神々は全くバラバラに存在していたのではなく、緩やかな結びつきを持ちながら、天皇家の皇祖神たる天照大神のもとに統合されていた。
日本には村ごとに産土神があり、地域ごとに一ノ宮があり、家ごとに檀家寺があり、それらは緩やかな結びつきを持ちながら、国家のもとに統合されていた。
そのような形で民衆が神々と語らう場所は十分に用意されていた。
そのような神々の重層性が、日本人の無意識の構造を考える上では重要である。
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