山下清と禅門さん      

2008.1.27  

掲示板より


山下清は放浪の画家として有名かもしれないが、
禅門(ぜんもん)さんというのは耳慣れない言葉かもしれない。
これは一種の方言で、乞食をあらわす言葉である。

私の田舎では、ものもらいの禅門さんがときどき家を訪れていた。
それにたいして農家の主婦は、なにがしかの施しをしていた。
お小遣いを求められれば何十円かのお小遣いを与え、おにぎりを求められればその場で握っておにぎりを与えていた。
そして禅門さんはおにぎりをおいしそうに食べながら帰っていった。
どこに帰ったのか、それは今でも私の中の謎であるが、
彼らが虐げられることもなく帰る場所があったというのが重要なことである。

いまでは不審者対策として、乞食に対して玄関を開けることなどありえないと思うが、当時はけっして門前払いにせず、玄関を開けて(といってももともと開いていたのだが)、乞食の要求に応えていた。

山下清という画家はこのような社会の中でこそ、その才能を発揮できたのである。
シャツ一枚で放浪する山下清をさげすむことなく、社会の中で受け入れていく雰囲気が当時の社会の中にはあった。

禅門さんといい、山下清といい、今の社会では社会的弱者として位置づけられる存在である。
それがなぜ社会の中の一員として位置づけられ得たのかということが、今の社会に生きている我々には理解しにくいことである。

弱者に生きる場を与えうる社会というのが当時は存在していた。
今の社会は豊かになったとはいえ、当時のような雰囲気で社会的弱者が生きる道を与えられることはない。

『弱い者をいじめてはならない』
そういう社会が本当に存在していたことを、我々の世代であればまだ知っている。

ところが今は『いじめ』は大流行である。
乞食とまではいかなくても、ちょっとした欠点をもつ人間がいれば、彼らは否応なく社会的弱者におとしめられ、そして『いじめ』られていく。

ちょっと変わった人や、ちょっと理解力の落ちる人は、
すぐにキモイとかトロイとかいわれて、その存在をおとしめられていく。

『弱い者をいじめてはいけない』、どころか、
『弱い者はいじめられて当然』、とする雰囲気が社会のどこかにある。

学校での『いじめ』はその最たるものである。

しかし学校でだけいじめが起きているのかというと、
社会全体の中に学校でのいじめを誘発する雰囲気が充満しているのではないか。

企業では終身雇用が崩れ、人々はその中で自分が生き抜くことにきゅうきゅうとしている。
学校は学校で競争原理が持ち込まれて、評価を上げることで精一杯である。
子供は小学生の段階から中学受験の波にさらされて、ゆとりどころか、絶えず何かに圧迫されているような生活をしている。

社会全体が自分のことに精一杯で、誰も他人を顧みる余裕を失っている。

『弱い者をいじめてはならない』社会から遠くなる一方であり、
こんな社会では禅門さんは発生し得ないばかりか、
山下清のような才能も開花し得ない。

このような社会が『個性』や『才能』を重視しているというのが、土台おかしな話である。
そこに何らかの嘘が隠されている。




Click Here!教育の崩壊