プロテスタンティズムの個人主義      

2005.3.20  

掲示板より


プロテスタンティズムは、
聖書に書かれてあることだけを神の教えとし、
神と人との間に教会という組織を介在させることを拒んだわけですから、

その結果、
神の前に一個人としての人間を向き合わせることになり、
神経質なまでに強烈な個人意識を生んでいくことになりました。

神の教えに従う強烈な人間の意志を生んでいったのです。

しかし同時に、すべては神の必然のもとにあるという意識のなかで、
人間の持つ自由意志の問題がクローズアップされるという、一種の逆説めいたことが起こってくるわけです。

プロテスタンティズムの発生後約100年ののち、
1600年代の社会契約説というものはそういった強烈な自由意志の結果として生み出されていったように思われます。

それは決して人間社会の持つ過去の歴史的事実から未来を予想していくという思想ではなく、
人間は自分の持つ自由意志によって、いかようにも社会を造り替えていくことができるという思想のように思われます。

自然状態からいかにして脱出するか、逆にいうとその前提には人間は自然状態から脱出できる強い意志を持っているという信仰がこの思想にはあるように思われます。

現在では人間は自然を造り替えることができるという思想が、逆に自然破壊を生んでいることは承知の事実ですが、
プロテスタンティズムの国であるアメリカ合衆国が
京都議定書(自然環境保全に関する国際協約)に調印を拒否していることは、
単にアメリカの国益優先策だけではなく、
その背景にはやはりプロテスタンティズムの思想的影響があるような気がします。

ホッブズやロック、そしてルソーのような社会契約説は、
人間の自由意志を重視し、人間はどんな社会でも自らの意志で造り替えていくことができるという思想の結果生まれてきたもののようです。

その最終的な人間社会の姿が、ルソーの一般意志という概念を発展させて、
さらにそれを経済学説と合体させることにより、マルクス主義という共産主義思想にまでたどりついてしまうのです。

フランス革命からロシア革命へと続く革命の時代は、
人間がその自由意志によりいかなる社会もを造り得るとする社会契約説の行き着く先だったのであり、
その背景にはプロテスタンティズムによる強烈な個人意識と自由意志の尊重があったのです。

しかもそこに必ず人間社会の明るい未来が輝いているように見えるのは、
『神の見えざる手』によって予定調和の世界が訪れるというプロテスタンティズムの予定説の信仰があったからなのです。





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