個性のはき違えと『いじめ』     

2007.6.3  

ブログより


『個性と個性のぶつかり合い』

私はこの表現を決して良い意味で言っているのではない。


『自分のことばかり主張してはいけない』

昔は、それは当たり前のことであった。

『他人が悲しむようなことをしてはいけない』
『他人を苦しませるようなことをしてはいけない』

『何かをしようと思えば、他人の意見も受け容れなければならない』

ところが今は、『競争原理の導入』とやらで、
『勝てば官軍』『強い者が勝つ』『勝った者が強い』の論理で、
我欲と我欲がぶつかるようになっている。

昔ホッブズが言ったような『万人の万人に対する闘争』の状態に陥っているのが今の学校教育である。

学校内のルールづくりなど、今は無用の長物である。
ルールを破っても、『勝った者が強い』のが今の学校である。

生徒がそうだから学校がそうなったのか、
学校がそうだから生徒がそうなったのか、
たぶんどちらでもあるのだろうが、
そこに一役も二役も買っているのが、そういう風潮を後押しする政府や文科省の方針である。

ここ4〜5年の学校内の無法地帯化は、驚くべきものがある。

『強い者が勝つ』というルールの行きつく先は、『弱いものがいじめられ』そして『泣き寝入り』することである。

教師もそういう風潮の中でどんどん我を強め、自分のやりたいことを最優先し、他の教師のことを考えなくなり、学校全体のルールを破ってまでも、自分の目標を達成しようとする。

良い例が部活動である。
朝の7時前から朝練習をし、夜は8時近くまで毎日練習させる。
生徒が家に着くのは9時過ぎになる。

そういう教師たちの頭の中にあるのは、県内の大会で優勝することである。
『生徒たちが望んでいるから、その希望を叶えさせてあげたい』
それが教師の常套文句であるか、実は、
『自分が優勝監督としての名誉と地位を手に入れたい』
というホンネが隠れている。

学校が定めた練習時間の上限はあるが、管理が甘いことを良いことに練習はどんどんエスカレートしていく。
土日は終日練習付けというのも、よくある話である。

こんな中で生徒はヘトヘトに疲れているが、
それでも選手に選ばれた生徒は良い方で、学校内でも鼻高々で幅をきかすようになり、
選手に選ばれなかった生徒は部活内での立場も悪くなり、ちょっとした失敗でも突き上げられるようになる。
部活内でも明暗はっきりしていく。

『部活動の代表として控えの選手の分まで頑張る』という姿勢はうすれ、
『強い者が選手になるのは当然だ。弱い奴らは参加させてもらっているだけでありがたいと思え』
そういう雰囲気で充ち満ちている。

自分の強さを誇張し、いかに自分をアピールするか、そればかり考えている生徒が増えている。

『個性と個性のぶつかり合い』とは、そういう意味である。
そういうぶつかり合いの中で負けていった者は、二度と日の当たるところに出られない。

だから生徒たちの人間関係はギスギスしている。
『友情を育む部活動』『同じ釜の飯を食った仲間』、
もはやそれは過去のお話しである。

生徒が生徒なら教師も教師、
教師が教師なら生徒も生徒である。

だがもう一つ、
行政が行政なら、現場も現場である。
現場が現場なら、行政も行政である。

『競争原理の導入』『学校選択制の導入』は、このような状況に歯止めをかけるどころか、ますますそれを助長している。

今の学校は『強い者が勝つ』のではなく、『強い者が正しい』、それがまかり通る世界である。
いわば暴力が支配する社会が、教育の名のもとに助長されているのである。


『自分のことばかり主張してはいけない』
『他人が悲しむようなことをしてはいけない』
『他人を苦しませるようなことをしてはいけない』
『何かをしようと思えば、他人の意見も受け容れなければならない』

かつてスポーツマンとして当たり前であったこのような姿勢が、
『強さこそ正義』の論理の前で、『いじめの正当化』の論理に転化していく。

教養の大切さを理解せず、『力の論理』だけを信じている彼らは、
自分たちのやっていることが『暴力の論理』であることに少しも気づこうとしない。

それは残念なことに、指導する側の論理がそうであるからだし、
行政の論理がそうであるからである。




本来、個性は協調性と矛盾しないものである。

個性とは他者を認めつつ、自分を認めてもらうものである。

個性とは力によって成り立つものではない。

力は個性の一部ではない。

個性とは教養であり、知性の一種である。

個性の中に力が含まれるとすれば、その次にやってくるのは恐ろしい社会である。

競争は力の一種であり、個性ではない。

ところが日本では、いつの頃からか、この競争や力が個性の中に含まれるようになった。

個性というのはあくまでも、世の中のルールや他者との協調性が成立する中にあって成り立つものである。

『自分のことばかり主張してはいけない』
『人を苦しませるようなことをしてはいけない』
『弱い者は助けなければならない』

そういう協調性や中庸の徳の中で完成していくものである。

そうでなければ個性豊かな人が集まって、豊かな社会を築くことはできない。

かつて小泉純一郎がそうだったように、自分の思い込みをとことんまで突き進めていくことは、決して個性ではなく、かえってその人の病的性格や、偏狭さを意味する。

最近そのことが忘れられ、多くの個性のはき違えを生んでいる。

『個性』とは、いわば仏教の『空』のようなものであり、そこに何ら『実体』はなく、『関係』性によってのみ成立するものである。
自分を個性的な人間と勘違いしている多くの人間は、やがて自分自身を崇め、崇拝するような病的な狂信性を内部に隠し持っている。




過剰に勉強させることが、精神をむしばむように、

過剰に部活動に励むことも、体力をむしばむ。

ところがこの過剰さが、学校教育のいたるところに散見されるようになり、
全体としてのバランスが極めて悪くなっているところに、
現在の学校の抱える病理がある。

中庸というのは適度の程度を知ることであり、それは高すぎても低すぎてもいけない。
良い風呂というのは40度程度に保たれているのであり、それより温度が低くても、高くてもいけない。
30度では風邪を引くし、50度ではやけどをする。

『やらせすぎ』、これが今の学校の抱える問題である。
勉強もそうなら、部活動もそうである。

今の学校は、生徒に風邪を引かせるか、やけどをさせる危険性がある。

放任はいけないが、熱心すぎてもいけない。

今のご時世、放任する教師はまれである。
熱心なのは良いが、その教師が中庸の徳を知らないため、生徒をやけどさせてしまうのである。

蛇を描いて満足できず、足をつけ加えるのを『蛇足』というが、
それと同じようなことが教育現場でも、行政指導でも行われている。

足のついた蛇はもはや蛇ではない。
それと同じように蛇の足のついた教育は、もはや教育とはいえないものになっている。






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