学問の基礎は母国語の論理にある     

2007.3.11  

ブログより

学問の基礎は言語にある。
国語・英語・数学は語学の基礎である。それはすでに中学においても、高校においてもそうである。俗に主要三教科といっている。

数学は言語なのかと思うかもしれないが、理系の場合、理系の論理を表すのは数学の数式である。
そういう意味で、数学は理系の母国語である。

言語というのは論理を表す数式であるとも言える。

とうぜん言葉は民族によって違う。
民族の文化を表すのは、その民族の言葉である。
論文・小説・詩・評論、すべて母国語によって表される。
特に芸術性の高いものになると他言語では表せないものを多く含むようになる。


英語というのは、国語で表すための、一手段である。
日本人は通常、英語で読みとったものを日本語で表し、日本語で考えたことを英語に翻訳する。

論理としては一貫して日本語の論理が底流に流れている。
まれに英語的発想をすることがあってもそれはあくまで日本語の論理の土台の上に咲いた花のようなものである。土台がなければ花は決して咲かない。


小学校では、国語と算数、中高では、国語・英語・数学が主要三教科と位置づけられていることにはこのような理由がある。

しかし、大学では専門領域に分かれる。
大学で国語、英語、数学を自分の専門領域として学ぶ学生は全体の1割にも満たないと思う。

『基礎』の上に『専門』があるというのはそういうことである。

では『総合』とは何か。
早い人は大学から、一般には社会に出てから徐々に時間をかけて、多くの体験を重ねながら、長い時間をかけて培っていく領域である。

一流の学者というのはこの『総合』に長けている。

それを『ゆとり教育』の中で、小学生から培っていこうと考えた国は、私の知っている限りでは日本だけである。
人間を甘く見ている平和ボケの証拠である。




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