教育はサービスか

     

2006.12.9  

ブログより



『児童が教員採点』
こういう素案が、教育再生会議の報告の素案に盛り込まれた。



産経新聞WEB (2006/12/08 07:55)より
(以下引用)
「教育はサービス」と唱える政府の規制改革・民間開放推進会議は、児童・生徒や保護者による教員評価を再三、求めてきた。
 この結果、3月末に閣議決定した「規制改革・民間開放推進3か年計画」では、「学校教育活動に関する児童生徒・保護者による評価を学校評価の一環として実施し、評価結果を公表するよう促す」と明記。
教育再生会議の素案にも「保護者、学校評議員、児童・生徒などが参画する仕組みを導入する」と盛り込まれた。
(引用終わり)



教育にはサービスの面が確かにある。
それは否定しないが、それがすべてなのだろうか。
特にヨーロッパの教育は、その傾向が強く、
教科指導が中心で、生徒の生活面には関与しない。

ヨーロッパでそれが可能なのは、
キリスト教という日本にはない宗教があるからで、
教会で道徳や倫理が教えられるからである。
そうであってこそ、学校は道徳や倫理とは別の領域である知識の習得だけに専念できる。

ところが、日本の学校は、生徒の生活面まで指導を行うのが一般的である。
そこが大きく日本の教育と違う。
日本の学校は、生徒の生活面まで指導しなければならず、教科の指導のみしていればよいのではない。

小学校 → 中学校 → 高校と、子どもが成長するにしたがって、生活指導の比重は大きくなる。
以前は中学や高校だけの問題であり、小学校ではそういう問題は起こらなかったが、
最近では、学級崩壊や、小学生の早熟化・非行化・性犯罪化の問題が社会問題にまでなっている。

そういう問題は、学力の高い優秀な学校ほど、それにかける労力は小さくてすむ。
つまり有名進学校といわれるところほど、その必要性がなく、そのノウハウをもたない。
同じように、有名進学塾も、そのノウハウをもたない。
もともと塾はそういう役割すら背負わされていない。
『教育はサービス』であるという発想は、そういうところから生まれる問題である。

教育の現場を知る者からすれば、まるで素人考えである。
今、問題になっていることは、生徒の規範意識の低下であり、道徳心や公共心の欠如である。

茶髪や服装の乱れ。
コンビニでカップラーメンを地べたにすわこんで食べる生徒。
登下校の電車の中で床に座り込む生徒。
もはやこういう規範意識の低下に、男女の区別はなくなった。
学校には、この手の苦情の電話が常にかかってくる。

とすれば、このような規範意識の低下に対応している学校のノウハウこそが必要なはずだが、
教育再生会議は、全く逆の方向に向かっている。

『教育はサービス』とすることは、
教科指導だけをしていればすむ学校や進学塾の論理であり、
そうではない学校はそれ以上の大きな日常的問題を抱えている。
生活指導の面は、そこからすっぽりと抜け落ちている。

そういうことは多くの国民がすでに知っていることであり、
生活指導の必要性を求める声は、日に日に高まっている。

やはり教育の全体を見た議論になっていない。
教育再生会議にもあきれたものだ。
国民感情から見ても、教育再生会議の意見は、一部特権的な人の意見である。




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