公立高校の生き残りは罪なのか

     

2006.11.6  

ブログより


今回の高校の単位不足問題で、
『所詮は高校の生き残りのためではないか』
そういう批判を耳にもするし、目にもする。

その一方では『教育に競争原理を』という声は高まっている。
競争原理を生きるということは、『生き残り』をかけることではないのだろうか。
それとも競争原理に身を置く高校だけは、生き残りをかけてはいけないのだろうか。
なぜいけないのだろうか。
そんなバカな。

断っておくが、私は教育に競争原理を導入することには反対である。
だか、進学校の置かれている現状を考えれば、競争そのものがなくなることはない。
なくなることはないが、競争原理そのものを教育の本流として導入してはならないと考えている。

にもかかわらず世間では、『教育の世界は甘い。教育に競争原理を』という声が高い。
いうまでもなく進学校では、受験という競争原理の中にすでに身を置いている。
今回のことも受験競争が背景にあるから起こったことである。

そのことは周知の事実で、受験競争がないなどという主張を掲げた新聞は一つもない。
にもかかわらず、『教育に競争原理を』という声は、日増しに高まっている。

こういう中で、今回の単位不足問題に対して、
『所詮は高校の生き残りのためではないか』
という批判が高まっていることを考えると、
高校に身を置くものとしては、一体何をどう考えたらいいのか分からなくなってしまう。

悩んだすえに思いつくことは、
『学校に競争原理を導入することが、一体どういうことなのか、本当は分かっていないのではないか』
ということである。

大人の世界で競争原理の中にに身を置くということは、生き残りをかけるということである。
それは教師も同じである。

競争によって追いつめられた人間は、人を搾取するようになる。
教育の世界でもそれは同じである。

教師は特別劣った人間ではないが、普通の人と同じくらいには生きていく力をもっている。
つまり普通の人である。

普通の人が追いつめられれば、生き残りをかけるようになる。
それは人を搾取してまで生き残ろうとすることなのである。
しかもそれは一般社会と同じ程度に、合法的にである。

ただ違うところは、一般社会では搾取される相手が大人であるのに対して、
教育の世界では搾取される相手は、まだ未熟な子どもであるという点である。

そういうことが起こらないように、教育の世界では一般社会と違った工夫が施されているということを、みなが忘れてしまっている。
その工夫が取り外されたときには、一般社会と同じことが、教育の世界で起こるのである。

そんな当然のことが、『そんなことあるわけない』と思っているとしか考えようがない。
でもそんなことになったら、それこそ大変である。

でも、大人の世界で起こることは、どこででも起こるのである。




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