『ゆとり教育』と『競争原理』は同根

     

2006.11.4  

掲示板より


普通は、右を潰せば左が大きくなり、逆に左を潰せば右が大きくなると思われがちである。
だから、右も左もダメだというのは理屈に合わないと思われるかもしれない。

しかし、右の『競争原理』と左の『ゆとり教育』とはその出所が同じものである。
その根底には西洋流の強い個人主義への信仰がある。
『競争原理』は、強い個人の確立があって初めて成立するものだし、
『ゆとり教育』とは、そのような強い個人意識のもとに、自ら主体的に学んでいくことによって成り立つものである。

そういう意味では『競争原理』と『ゆとり教育』とは同じところから出てきたものの裏と表なのである。

しかしこの個人意識こそが日本ではもっとも成立困難なものである。
それどころか日本文化との鋭い対立をはらんでいる。

個人意識はキリスト教の理解なしでは成立し得ない。
しかし八百万の神の住む多神教の日本では、一神教であるキリスト教の世界観を理解することは困難である。
できたとしてもそれは、キリスト教の歴史を専門に学んだ者だけである。

世界史必修もそういう流れの中から生まれてきたものであったが、ここ10年の選択者の数が逆に減り続けていることを見ても、それがいかに人気のないものであるかが分かる。

それほど困難で不可能なことを一般教育の中に持ち込むべきではない。

必修にするかどうかはともかく、重視すべきは世界史ではなく、自国の歴史であり、自国の文化理解である。
英語よりも国語であり、
英語の言い回しを小学生に教えるくらいなら、日本語の敬語の一つも覚えさせた方が良い。

挨拶もできない子どもに英語を教えるよりも、
ちゃんとした日本語の言葉遣いを教え、尊敬語と謙譲語の区別ぐらいは教えた方がよい。

『他人を敬う気持ち』
これが教育の基本である。
『いじめ』の横行もそれがないから起こっていることである。

教育再生会議のもう一つの柱である自国文化・伝統文化の尊重、他人への敬意と礼儀の関係、敬語の使い方、そういったものをちゃんと教えてこそ、
『自分を超えるものへの価値』の存在を、生徒に理解させることができる。

みんなが自分中心、自分が一番大事、オンリーワン、そういったもののオンパレードの中で、
『自分を超えるものへの価値』など、みんな聞く耳持たないでいる。
子どもたちもそういうものの存在をあざ笑っている。

しかしそれは子どもたちが知らないからであり、誰も教えないからである。

性欲というのは自己欲求の最たるものと受け止められ、恋愛ドラマは大流行であるが、
この性欲というものこそ、自分のことにだけ終始すればよい自然界の生き物を、自分以外のものを創造することへとかき立てている、根元的な力である。
そのことを多くの人が誤解している。

『自分を超えるものの存在』

そういったものが教育の高い目標に掲げられなければならない。




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