単位不足問題(未履修問題)の行方

     

2006.11.3  

掲示板より

今回の高校の単位不足問題で、高校の受験体制が問題になっているが、
それがために進学校から『競争ルールをなくそう』などと非現実的なことをいう輩の口車に乗っては何にもならない。
といって、これ以上の『競争原理』を持ち込んでも事態はますます悪くなるだけである。

この問題はもともと『ゆとり教育』を、無理やり教育課程に盛り込もうとしたところから出てきた問題である。

文科省はいまだに『ゆとり教育』の過ちを認めていないが、
それを認めないままさらに、
なし崩しに『学力向上』へと180度舵を切ったことが、
この問題が実にさまざまな要素を内包することになった原因なのである。

この問題の中には、いろいろなベクトルが右に左に乱れ飛んでおり、
その中のどれを取り出すかという政治的立場によって、
どのようにでも勝手な結論を導き出すことができる。
そのからんだ糸を解きほぐすことが先決である。

『第一義的には学校に責任がある』
というのが政府見解であるが、本当にそうなのか。


今回の事件の中で、
教育の本道というべきものが真ん中にあるとすれば、
その左側に『ゆとり教育』があり、
逆に右側には『学力向上』ラインがある。

そしてこの『学力向上』ラインは、教育が本来追求すべき『教養』よりも、
実社会で即役立つ『実利』や『国際競争力』重視の面を含んでいた。

いわば、左の要素を温存させたまま、右の要素も同時に入れられたのである。
つまり、交換条件として、政治的な取引で、
相異なる二つのものが学校現場に持ち込まれた格好になった。

『ゆとり教育』と同時に『情報』という教科が新設されたというのはそういうことである。
もっと具体的にいえば、新学力観にたつ『総合学習』と、実利教科である『情報』という相異なる方向性をもつ二つの新教科が、
同時に学校現場に持ち込まれたのはそういうことである。
しかも学校週5日制と同時に。
そして学校現場はパンクした。

文科省が『学力向上』に舵を切り直してからも、『総合学習』は廃止されず、そのまま学校のカリキュラムの中に居座り続け、
それと同時にさらなる『学力向上』を推進するために、『学校評価』『中高一貫』『学校選択』『小学校英語』などの実利教育中心の競争主義が推進された。

学校現場もその急展開の流れに着いていこうと必死であったが、
小泉・竹中政権時代には、『市場原理』や『競争原理』などという言葉が、教育改革の理由づけとして用いられることが当たり前になった。

そういう中で、
教育の世界に市場原理や競争原理を持ち込むのは感心しない
という発言を初めて行ったのが、伊吹文明文部科学大臣であった。

私はこのことは、右のラインの『市場原理』の否定であると同時に、
左ラインの『ゆとり教育』の否定でもあると思う。
いわば一種の逆交換条件であったと思う。

そういう発言の矢先に、高校の単位不足問題が噴出した。

たまたま起こったにしては、このことはあまりにも公然の秘密すぎた。
高校の教育界でこのことを知らない人はいない。それが今なぜ噴出するのか。
話ができすぎているのである。

本当にたまたま起こっただけなのか。
右側が仕掛けたものなのか。
左側が仕掛けたものなのか。
またはその双方が伊吹つぶしに動いたのか。
はたまた、その双方が結託して学校つぶしに動いたのか。
このことは、今後のことの推移を見守るうえで、注意すべきことである。

注意すべきは、この問題によって高校の『受験体制』批判がわき起こったということは、
ちゃんとした議論をふまえないと、
またもとの『ゆとり教育』に舞い戻ってしまう危険性があるということである。

大切なことは、『ゆとり教育』か、『学力向上』か、ではなく、
そのどちらでもない、ことに気づくことなのである。

とくに『学力向上』は『市場原理』と結びついたあたりから急激におかしくなり始めた。
そしてこの『市場原理』『競争原理』はますます勢いを増していきそうである。

学校現場は、このような政治状況に絶えず振り回されてきたのである。
『文科省』と『生徒・保護者』との板挟みになるだけでなく、
『ゆとり教育』と『競争原理』との板挟みにもなってきた。

学校の一番の生命線は教育課程(カリキュラム)である。
もし学校に今回の事件の最高責任があるとすれば、
学校の生命線である教育課程は、学校の裁量でつくられたものでなければならない。
しかし学校の教育課程は、文科省の作成する学習指導要領でがんじがらめに縛られている。

しかも現行の学習指導要領はいたって評判の悪いものであった。
そのような評判の悪い学習指導要領になぜ反対が起きなかったのかというと、
学習指導要領はあくまで目安であり、学校の裁量権は尊重されているという、学校運営上の慣例が生きていたからである。
目の前に子どもを抱える学校現場では、子どもの発達段階や子どもの置かれている状況に合わせて、その主体性を発揮しなければならないからである。

この履修不足問題が『いじめ』問題と大きく違うのは、
『いじめ』問題は、実際に子ども自身が著しく不利益を被っているのに対し、
この『未履修』問題は、このことによって、どこにも著しい不利益を被ったと訴える生徒がいないことである。
逆にこの問題の発覚によって、新たに生徒の負担が創出されたことにある。

そしてそのことによって新たな学校の責任が創出されたのである。

しかしこうなるまでにはここ10年来の長い教育行政の経過がある。失策がある。
そこに目を当てなければ、ただでさえ受身的に行政の指示に従うようになっている学校現場は、
ますます歪んだ教育行政に振り回されるようになり、
忠実に文科省からの職務命令を実行していくことになる。
そういう形で一応の矛先は収まるかもしれないが、
しかしそのしわ寄せは、子ども自身に来る。




『学力向上』『市場原理』がダメだから、『ゆとり教育』がいいのではなく、
『学力向上』『市場原理』がダメだから、『ゆとり教育』もダメなのである。

私は言葉遊びをしているのではない。つまりこういうことである。

今までは、左が重すぎるから同時に右も重くしてバランスをとってきたが、
その結果、天秤棒が折れてしまった。

今度は重荷を降ろす番である。
重すぎる荷物を降ろすときには、
右を降ろすのなら、同時に左も降ろさないと、またバランスを崩してしまう。
もしまた失敗すれば、今度は崖から落ちてしまう、ということなのである。




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