官房副長官 下村博文

     

2006.10.22  

掲示板より

今日テレビで見たところ、
とんでもなく単純な教育イメージの持ち主のようだ。

もと塾の経営者らしく、私塾のイメージだけで、日本全体の教育再生を考えているらしい。

他にこれといった特効薬がないのだから、
それに今までの改革がことごとく失敗してきているのだから、
つぎつぎに新しい改革を考えて、
『ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たる』式の改革も、
何もしないよりはいいかもしれないが、

競争原理を導入すればそれで良しとするのは、
あまりにも短絡的過ぎはしないか。

曰く
『今までの教育は子どもたちにだけ競争を強いるものであった。子どもに競争を強いるのであれば、教師間に競争があるのは当たり前だ』

これが教育論なのかと思うと、暗澹たる気分になる。

私は決して競争は否定しないが、競争自体が教育の目的だと思ったことはない。

競争が一つの手段だとすれば、その目的は何なのか。
子どもの規範意識の向上ということなのだろうが、
競争と規範意識の向上がどこでどう結びつくか、誰も言わなかった。

ヤンキー先生もたぶん下村博文先生と同じだな。
単純な教育イメージの持ち主には変わりない。

教育が競争のみに終始してよいのなら、現場の教師たちの負担も軽くなるに違いない。
生徒たちの尻を叩く教育は本当にそれに専念すれば、一番簡単な教育である。
それでよいのなら教師は楽である。

それでよければそれでよいとはっきり明言してもらいたいと思ったが、言葉の終わりには、いろいろぐたぐたと付帯条件を付けて、『そんなことは言っていない』と、言い逃れの道を残している。

つまり競争原理を全面に出して、生徒の尻を叩いて、それでいろいろ問題が噴出したら、
その時は、現場の先生たちが責任をとってくださいと言うことに過ぎない。

なんだ、今までと変わらないじゃないか。
こうやって教育現場はますます追いつめられていくんだな。



官房副長官 下村博文先生曰く
『今までの教育は子どもたちにだけ競争を強いるものであった。子どもに競争を強いるのであれば、教師間に競争があるのは当たり前だ』

競争とは本来自分のための競争である。
一般サラリーマン同士が競争する場合、自分の実績を上げればよい。
しかし教師の場合そこにワンクッション入ってくる。

学校では、教師がいくらがんばっても、生徒ががんばらなければ何にもならない。
教師の競争とは、実は自分ががんばることではなく、生徒にがんばってもらうことである。

逆に言えば、教師ががんばらなくても、生徒ががんばればそれで良いことになる。

さらに言えば、競争とは絶えず客観的な評価がなければ競争にならないから、いくらがんばってもそれが目に見えるものでなければがんばったことにならない。

『善行は隠れて積め』などとは言えなくなるし、そんなことは競争原理の中では無意味である。

勢い、教師も目に見えることしかしなくなる。
人の評価につながらないことはしなくなる。
それが、競争原理の裏にあるもう一つの真実なのだ。

目に見える形の競争のみを重視すれば、
『自分に優しく、他人に厳しい教師』でも十分にやっていける。

昔はベテラン教師は、学年の中で問題の多いクラスを担任するのが常だったが、今では良いクラスほどベテラン教師が担任するようになった。
教師自身がそれを望むことも多いし、校長もそれを望むようになった。
それは進学高校ほどその傾向が強いし、そうやって早く大学進学率を目に見える形で上げたいからである。

そういう現実を目の当たりに見るにつけ、
『こういうことが当たり前にとおる世の中になっていくんだな』
そういう絶望感をもった。

しかし世の中は『それで何が悪いんだ』と思う人が多いように思える。
『民間企業はそれどころの競争ではないんだぞ』
『教師の生ぬるさは鼻持ちならない』


しかし我々教師が相手にしているのは、責任能力のない子どもである。

もし教師が子どもの尻を叩きすぎて、その子どもが自殺するようなことがあれば、
教師への非難は、今回の北海道や福岡の事件と同じかそれ以上のものになるであろう。
そういうことを考えると、教育に対する世間一般の考え方が、一種のヒステリー状態に陥っていると感じざるを得ない。

ただでさえこういう事件が起こっているのに、追い込まれた現場の教師は、いずれ『窮鼠、猫を噛む』の状態に陥るのは目に見えている。

人間、誰でも自分が大切であるが、教師とはそれを厳しく抑制していく職業である。
『自分よりも生徒が大切だと思えるか』
そのことへの自問自答の繰り返しである。

もちろん、『自分よりも生徒が大切だ』と思いながら、
やはり自分が大切だとする気持ちから離れられないのが凡人の常なのだが、
それでも生徒のことを大切に考える教師は、たとえ偉くなれなくても、教師仲間の間では大切にされてきたし、尊敬されてきた。

ヘタな管理職より、そういう教師にこそなりたいと思う教師も多い。


しかし冷静に考えると、
『善行は隠れて積め』ということが言えなくなる中で、
教育再生会議のもう一つの柱である『生徒の規範意識の向上』とは何を指しているのか、そのことを思わずにはいられない。




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