総合学習と観点別評価

     

2006.10.21  

掲示板より


『観点別評価』については以前書いたが、
その中で生徒の『関心・意欲』をどう点数化し、評価に結びつけるかという無理難題に、
学校現場は多くのエネルギーを注ぎこむハメになり、そのため教育本来の活動に支障が出ている。

ここで再確認したいのは、現在の教育の混乱を招いた悪の元凶が、平成はじめに文部省が鳴り物入りではじめた『新しい学力観』である。
文科省はすでに恥も外聞もない役所で、この期に及んで、まだそのことの過ちを認めないばかりか、
今では周知の事実になっている『ゆとり教育』の過ちさえ認めていない。

この『新しい学力観』のための二本柱が、『総合的な学習』(以後、総合学習と表記)と『観点別評価』であった。

『ゆとり教育』と『総合学習』は、今では全く人気のないものであり、今では誰も本気で扱ってはいない。
(ただ総合学習は形を変えて、総合学習としての小学校英語教育として、新たな勢力を獲得しだしている)

ところが『観点別評価』は、それがより専門的で、一般の人々には理解しにくいことが、かえって幸いして、今でもしぶとく生き残って現場の教師を苦しめている。

これが現場の教師にとっては大変な代物で、何を基準にして評価したらいいか分からず、その証拠づくりのために、日々の授業が妨害されている始末である。

『観点別評価』とは4つの観点によって生徒の成績を評価するものであるが、その最大の眼目は生徒の『関心・意欲』である。

『学習は教えられるものではなく、生徒自ら「主体的」に取り組むものだ』、
というのが『新しい学力観』の中心思想であった。

その『主体性』をつくるための教科が、教科書もない『総合学習』であり、
そういうあやふやな学力観を全教科に及ぼすための方法が『観点別評価』、とくに『関心・意欲』の項目であった。

しかし生徒の主体性、主体性といって、オンリーワン、個性化、自由化、自主性、ゆとり、特色づくり、などなど、そんなことばかりやってきた結果、どういうことになったのか、今やっと明らかになりつつある。

文科省などホントになくてもよい役所だと思うが、
仮に生き残るとしても、今までやってきたことの誤りを認めることが今求められている最優先の課題であり、まっ先に手をつけなければならないことである。
『新しい学力観』の誤り自体をもういい加減認めなければ、日本の教育は今や崩壊寸前のところまできている。
もはや一つの省庁の生き残りの問題ではないと思うのだ。

そういう切迫感が現場の教師にはある。
にもかかわらず業務命令として、『興味・関心』の点数化をやらされているのである。

そんなもの、神様でもない限り、出来るわけないだろ。

この『興味・関心』の点数化は、『新しい学力観』が熱病にでも浮かされるようにして出てきたときに、何の具体的方法も示されないままに、理念だけが先走りする形で現場に降りてきたものである。

そしてあとは、現場の工夫が望まれる、とされただけなのである。

無責任だと思う。

中野重人はそれを推進する立場から、平成10年に次のように書いている。

『「個性重視の原則」を打ち出した昭和62年の臨時教育審議会の最終答申を受けて、平成元年に「新しい学力観」のねらいが提示された。自ら学ぶ意欲・態度や表現力の育成を重視する学力観への変化である。その評価も知識・理解から、関心・意欲・態度の重視へと変わろうとしている。』
(教職研修 中野重人編 特色ある教育課程を工夫する、平成10年1月)




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