競争原理と『世間』

     

2006.10.14  


掲示板より



競争原理による教育を持ち出す人は、一般庶民からみるとやはりエリートで、世間一般から見れば成功者である。競争に勝ち抜いてきた人たちである。

いかにして競争に勝ち抜くか、そのノウハウが自分の人生の大きな柱になっている人たちである。

人生に競争が付き物だとしても、競争はその一方で多くの敗者を生んでいき、数からいえばその方が多い。
努力は報われるのが理想だが、現実には努力しても報われなかった多くの人々がいるのが現実であり、彼らは彼らなりに(私も含めて)それでも現実を生き抜くノウハウを身につけている。

社会の底流には人生の成功者にはなれなかった多くの人々の生き方がある。
私は社会を支えているのは、実はそうした生き方ではないかと思っている。
誰の言葉か忘れたが、『隠れて生きるものは善く生きる』というのは、そういうことを意味している。

競争主義者たちにとっては、みじめでくだらない生き方なのだろうが、そこには人生を競争主義だけで生き抜こうとする生き方よりも、もっと幅広い古典的な生き方が隠されている。

誰でも一番になれる、オンリーワンになれる、などという言説はその底に競争主義を隠しているのであり、本当は世間の大多数の人は別にオンリーワンなどにならなくても生きる道をちゃんと持っているのである。

そういう道を知らないことがかえって競争原理だけが人生を生きぬく知恵だと勘違いしてしまう、一つの原因になっているのであり、彼らは一見能力が高そうに見えても、実は幅の狭い人生を選択していることに気づかないのである。

勝負は多くの勝者をつくっていくものではなく、逆に多くの敗者をつくっていくものである。

そして世の中は多くの敗者で成り立っている。
敗者が再チャレンジして勝者になることは良いことだが、
実は社会の本当の良さは、
『誰もが敗者になりうる』ということを多くの人が了解しているところにある。
さらに言えば、敗者を敗者として扱わないところに良さがある。

そういう『普通の生き方』が社会の根底を支えている。
そのことは目には見えないが、多くの人が了解していることである。

先日亡くなった元一橋大学長で歴史学者の阿部謹也氏は、そのことを『世間』という切り口で解明しようとしたが、突然の死によりそれは志半ばで終わった。
もう少し長生きしてもらえれば、教育改革ももう少しまっとうなものになったかもしれないと思うのだが、残念である。




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