言葉が『おくれ』る子供たち

     

2006.8.28  


掲示板より

人前で何かを発表するときには『私』というが、
友人と話すときには『オレ』という。
またやや古風めくが、上司との仕事の打ち合わせでは『自分』といったりする。

妻のことを普段は『家内』というが、
ある時は『うちのやつ』になったりする。
酒を飲むと『愚妻』になったり、
やや機嫌がいいと『かあちゃん』になったりする。

こんな言葉の使い分けは辞書を引いても分からない。

恋人同士がキスをしようとして、
『バカね』と言われたとき、
『何でオレがバカなんだ』と怒る男はいない。
黙ってキスをすればよい。

このような仕組みは何なのか。
普通は人からバカだと言われれば怒るのが当然だが、
この場合は怒ってはいけない。
彼女にとってはそれが彼に対する愛情表現なのだ。

しかしこの問題は説明しようとすれば非常にややこしい問題を含んでいて、なぜ愛情表現が『バカ』という否定的な言葉になるのか。
それは説明するのは難しいが、今まではみんなが理解してきたものである。

ところが今の教育現場で起こっていることは、実際にこのようなことが理解できないということである。

大人のような言い回しではなくても、子供には子供の言い回しがあって、その言葉の言い回しによって、相手の気持ちを推し量らねばならない。

そういうことが極端に苦手な子供たちがいる。いわゆる『自閉症』といわれる子供たちである。
彼らは知的能力に遅れはないが、人の心を読むことが非常に苦手である。相手の意図しているものを察することができない。

『うちの愚妻が』と相手が言った時に、『おまえの愚妻が』と返せば話は弾まない。
相手が『愚妻』と言ったんだから『愚妻』と言って何が悪いんだと言えば、理屈はその通りでも、二度といっしょに酒を飲もうとは思わない。

これは冗談で言っているのではない。
実際にそのようにして『はずされていく』子供たちがいっぱいいるのである。

言葉というのは人間関係のなかで習得されていくものだが、ある人間関係のルールをつなぎ合わせる役をしているのが、言葉である。その言葉は仮の言葉であってはならないし、単なる事務連絡用の言葉であってはならない。

そこには感情を含んだ喜怒哀楽が含まれていなければならないし、小学校の上学年ともなれば、反語や皮肉が含まれているものでなければならない。

そういう言語であってこそ、言語の世界は無限の広がりをもてるものであるし、言葉の裏にもう一つの意味を含ませることもできる。
シャレを言ったり、冗談を言ったりすることは、小学校の上学年の子供たちにとって、無くてはならない言語ゲームである。

そういった言語ゲームがファミコンゲームに取って代わられていることには誰もが危機感を抱くのだが、
そのような母国語による知的なゲームの世界が、単純な『英語遊び』の時間によって食い荒らされていることには、さして危機感を抱かない。

小学校の英語教育というのはそのようなものである。

子供たちが人間関係を作っていくことの入り口は、まず言葉にあるのであり、子供たちの人間関係が希薄化し、それが社会問題化しているこの時期に必要なことは、子供たちの言語能力を身につけさせることである。

子供たちの言葉は、今お笑い芸人やバラエティー番組などのテレビの悪影響もあり、
非常にテンポが速く、『突っ込み』がきついものになっている。
よく子供たちが『ノリが悪い』などというのは、そのことを言い表している。
その『ノリ』に着いていけない大量の子供たちが、今生み出されている。

こんな時にそれを助長するような小学校英語教育をやってはいけない。
もっと他にやるべきことがある。
子供の心が崩れているのは、まずは言葉が通じないからである。言葉こそが人間関係の入口である。




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