高校で古代ローマ史をやろうとすると、 『ローマはどこにあるんですか』とくる。 そもそもイタリアの場所がわかっていなかったりする。 指導困難校の話ではない。 れっきとした進学校での話である。
その前の古代ギリシア史になるともっとわからない。 『ローマの東にギリシアがあって、その東がトルコであって、その東にエルサレムがあって、キリスト教はここから伝わってきたのだ。光は東方よりというのはそういうことだ』 といってもチンプンカンプンである。
そもそも小学校では日本の都道府県すら教えない。 東京、大阪、奈良、京都すらわからない人間が、ギリシア、ローマがわからなくても不思議ではない。 これもゆとり教育の成果である。
では高校の教科書が薄くなったのかと言えば、そういうことは全くなく、かえってぺージ数が増えた感さえある。 大学の入試レベルが低くなったということもない。 高校の授業はゆとり教育の前も後も、同じ水準を保っている。
ということは、小学校、中学校でゆとり教育によって削減されたぶんは、高校にしわ寄せされているということなのである。
こういう現状をみていると、ゆとり教育が失敗に終わり、学力向上へとカーブを切ったことは喜ばしいことのように見える。 しかしゆとり教育が失敗に終わって小学校が基本教科の授業時数を増やそうとしているかというと、そうではない。 削減された授業のコマ数を、もとに戻すことこそが急務なハズであるが、削減された教科の授業コマ数はそのままである。 では何に使うのか。 それが小学校での英語教育である。
円周率が「3」になり、読み書きの能力は低下し、都道府県名を知らず、ギリシアも、ローマも知らないなかで、新たに導入されるのが、小学校での英語教育である。
私はそういう状況を見るにつけ、文科省は一体何を考えているのかと疑問に思うのであるが、 小学校の教師の中にはそういったことに全く無頓着な人もいて、自ら進んで小学校での英語教育に進んでいく人もいる。
自分のことだけを考え、子供たちが将来いかに苦労するかということを全く考えていないとしか言いようがない。
『いい気なものだ』
本当にそう言いたくなる。
『同じ教師なら、それくらいのこと分かりそうなものじゃないか』
でも分からないのである。 小学校で英語を教えることよりも、 今の現状からいえば、都道府県を教えたり、イタリアは国名でありローマはその首都であることを教えることの方が大切なことは、常識として分かりそうなものである。
ギリシア・ローマが分からなければ世界史が教えられないように、奈良・京都が分からなければ日本史は教えられない。 それでも彼らは奈良・京都を教えることよりも、小学生に英語を教えることの方を優先するのである。 そして
『英語活動と英語教育は違う。大切なことは学力よりも、英語に親しみを持って活動することだ』
などという。 でもそれは彼らの思い込みである。 彼らこそ今はやりのジコチュウ人間である。
そんなことを親は期待しているのではない。
親は、彼ら英語派の教師たちの本音を知らないだけである。 知れば何と思うだろうか。
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