神々の戦い 18 古代ギリシアの暗黒時代

     

2006.5.6  



このような『神の責任』というメカニズムの発生は、
地中海沿岸の多くの地域に広がっていったようである。

イクナートンは前14世紀、
モーセは前13世紀の人物であるが、
その直後の前1200年頃から、
ギリシアではドーリア人の南下や海の民といわれる民族の侵入によって、
『暗黒時代』と呼ばれる混乱の時代に入っていく。

このような民族の攻防はギリシア社会ではすでに紀元前2000年ころから徐々に始まっていたらしく、
クレタ文明のクノッソス宮殿は城壁をもたず、この文明の平和的な性格を示しているが、
次のミケーネ文明になると、ミケーネ王の王宮には堅固な城塞が築かれ、その好戦的な性格を物語っている。

そのような民族の攻防が本格的になるのが前1200年頃からで、
ギリシアではその堅固な城塞をもつミケーネ王国が滅び、
トルコのアナトリア高原ではエジプトと何回も戦いながらも独立を維持し続けたヒッタイト王国が滅んでいる。(前1190年)

またギリシアの『暗黒時代』とよばれる前12世紀〜前8世紀の400年の時期には、
パレスチナではヘブライ王国が建設され、
ダヴィデ・ソロモンの栄華をへて、
ユダヤ教という一神教がはっきりとその形を現してくる。

さらに東のインドではアーリア人がさらにガンジス川流域へと進出していき、その結果、
政治面ではガンジス川流域に都市国家が現れ、
宗教面ではバラモン教が形を整え、
社会面ではカースト制度が芽生えてくる時期である。

そういうことを考えると、この紀元前12世紀〜前8世紀の400年間は、
実は世界史上とてつもなく重要なことが起こっていたのではないかと思える。

そういう意味で紀元前1200年は、まさに動乱の時期の幕開けである。

その『暗黒時代』が400年も続いた後、
再びギリシアが秩序を取り戻し、ギリシアにポリスが発生するときには、神官の存在は消滅している。

パルテノン神殿のような神殿は建設されるが、
それは共同体全体の守護神であり、
王権を強化するためでもなく(アテネに王はいない)、
特定の神官の政治的影響力を伸張するためにつくられたのでもなかった。
つまりそれまでの社会とは全く違った、神官のいない社会が出現するのである。

これはうち続く混乱と戦闘によって、ギリシア古来の神々が責任をとらされ、敗れていった証拠と考えられる。
加藤隆氏は次のように言っている。

『古代の戦争も、国と国、民族と民族、軍隊と軍隊の戦いである。
しかし古代の戦争には、神と神の戦いとしての意味もあった。
戦争に負けて、国や民族が滅びると、そこで崇拝されていた神も死ぬ。
このことは戦争での勝利という「人の側の要求」について、神は当てにならない、頼りにならないということを意味する。
つまりこの神は、いわば駄目な神である。そのことが戦争の敗北・民族の滅亡という動かしようもない厳然たる事実によって、証明されてしまったのである。』

(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書 P60)

それ以前のギリシアの部族社会の神々しい神々は、英雄の地位に落とされる。
だからギリシアの神々は人間の姿として描かれ、人間と同じように喜び、悲しみ、憎しみあうのである。

日本人は神様よりも英雄のほうが好きなのかもしれないが、
そういう日本人の好みには関係なく、
そこには日本人の気づかない全く違った側面が隠されている。
その神々の人間らしさだけを称賛し、ギリシア文明のすばらしさだけを日本人は絶賛するのであるが、
その根っこのところには神々の敗北があることを見落としてはならない。
つまりそこは神々が『息絶え絶え』の世界なのである。
神々が瀕死の重傷を負っている世界なのである。

しかしギリシア人の良識は、これ以上の神々の没落を防ごうと努力したところにある。
もともと民族・部族の固有の神々が、ゼウスを中心とするオリンポス12神として体系化され、
ギリシア人共通の神々として崇められたことは、これ以上の神々の没落を防ぐ効果があったと考えられる。
また古代オリンピック競技が裸で行われたということは、
汚れたものを一切身につけない状態で参加しなければならなかったということであり、
それが神に捧げるための競技であったことを意味している。

オリンピアの祭典は、そういう共通する神々を仰ぐ人々の巡礼のようなものであった。
巡礼がメインで、競技は余興のようなものである。
イスラム社会でメッカへの巡礼を果たした人が一段高く尊敬されるように、
オリンピアの神殿への巡礼をはたした人は競技で勝っても負けても、地元に帰れば一段高く尊敬を受けたはずである。
だから参加することに意味があったのである。

しかしそういう努力が、本当に神々の没落を食い止めることができたかどうか疑問である。

繰り返すが、このような状態が『暗黒時代』以前からのギリシアの伝統であったのかというと、決してそうではない。

『暗黒時代』以前のギリシア社会は、
ミケーネ文明に見られるように強力な王権に支えられた社会であった。
そのミケーネ王の王宮の入口には、左右対称に2頭のライオンが彫られた城門があり、ミケーネの獅子門として有名である。
そのライオンにどういう意味があるのか私には確定することはできないが、何らかの強力な神の象徴として彫られていたことは想像できる。

このように王権と神々がはっきりと結びついていたギリシア社会の特徴を、『暗黒時代』は葬り去ったのである。

戦争がうち続くと人間が死んでいくが、
それ以上に実は神々が死んでいく。
戦争は合理性を身につけるには最もよい方法である。
その戦争の責任論に対して神は死んでいくしかない。
戦争のたび勝ったり負けたりしながら、神の機能は失われていく。
そしてまた神と結びついた王の権力も失われていくのである。





そして神の代わりに求められるのは、強力な『男性原理』や『父性原理』である。

ギリシア神話には『アマゾン(アマゾネス)』という変な女軍団が登場する。(アマゾン川の語源でもある。)
彼女たちはギリシアの英雄アキレスと戦う女戦士として描かれている。
この物語は有名なホメロスのトロイ(トロヤ)戦争の話の中にでてくるが、ここではアマゾン女軍団は、アキレスの敵トロイを味方する戦士たちである。

しかしトロイは『トロイの木馬』の奇策により滅亡する。

つまりこの話は、女軍団に対する、アキレスというギリシアの英雄の勝利という側面をもっている。
女に対する男の勝利である。
そういう社会からギリシアの民主政治は発生したのである。
『母性原理』に対して『父性原理』が勝利したのである。

日本人はよくヨーロッパの『レディーファースト』を見て、日本は男尊女卑の国だと思ったりするが、
ヨーロッパの『レディーファースト』の風習は近代になってから出てきたもので、
それは逆に言えば、それまでのヨーロッパでの女性の地位が低かったため、それに対する反動として出てきたものである。

それほどヨーロッパは『父性原理』の強い国である。
そのような傾向は、狩猟を生業とするインド=ヨーロッパ語族の部族会の時代から受け継がれたものでもあったが、
そのような社会原理がよりはっきりと打ち出されたのが、紀元前8世紀のポリス社会が成立する時期だったのである。

だからギリシアの民主政治は、成人男子だけの政治である。

『対立』が根底にある。
それは戦いや掠奪が行われているということである。
戦いに負けた他の部族は政治から排除されだけでなく、奴隷にされる。
つまりこの社会は、奴隷制と切っても切れない関係にある。

そういう意味ではアテネを中心にギリシア社会を説明するよりも、
王制の残っているスパルタを例にとってギリシア社会を説明した方が、より実態をつかめるのではないかと私は思っている。
なぜスパルタが軍事国家にならざるをえなかったのか。
それは少数の支配民族が、圧倒的多数の戦争の敗者たちを奴隷として支配しなければならなかったからである。

私はギリシアの奴隷制社会の説明なしに、ギリシアの民主政治を説明することは不可能だと思っている。
理解できないだけならよいが、さまざまなやっかいな誤解を生むから余計いけない。

このような強烈な『男性原理』『父性原理』によるギリシア社会の結末は、衆愚政治(デマゴーグ)である。
これによってギリシアは衰退する。

人によっては古代ギリシアは、圧倒的兵力をほこる専制国家ペルシアの前に敗れ去ったがために滅亡したと勘違いしているが、
ギリシアはペルシア戦争に勝利し、ますますの繁栄を築くのである。
ギリシアが崩れるのは外からの敵対者によるのではなく、内側からである。

それが衆愚政治である。
『みなの衆が愚かになる』政治と考えればよい。

フロイトはこの強すぎる『父性』が、人間の心にさまざまなひずみをもたらすことに気づいた最初の人物である。




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