小泉政治の帰結

     

2006.1.15  

以下は掲示板より


当初小泉が首相になるに当たって利用した国内の動きには二つあった。

1つは、規制緩和の流れに乗って『小さな政府』で経済界の人気取りをすること。
1つは、ナショナリズムの台頭によって『靖国参拝』し、国民の支持を集めること。

今年首相交代の時期に当たってこの2つがどうなったか、
前者の『小さな政府』の実現は、後続内閣によっても受け継がれるべきだとしているが、
後者の『靖国参拝』は政治課題から外そうということになっている。

私が思っていたとおり、『やっぱり』である。

もともと小泉というニヒリストにナショナリズムほど似合わないものはないのである。彼のニヒリズムにはどこかに死の影がある。

靖国参拝はもともと日米関係の問題であり、これに対して先の戦争の対戦相手であり、戦前の政治家の中のスケープゴートとしてA級戦犯を作り上げたアメリカがどう動くかということが、国民のほのかな期待であったと思う。
アメリカ一辺倒の戦後日本の中でアメリカとの間にこれで適当な距離が保持されるのではないかという期待があった。

しかしその後すぐ小泉はアメリカで青シャツを着てブッシュとキャッチボールをするというパフォーマンスにより、一方ではブッシュのポチ公になることを選択した。

そしてアメリカの要求に従い郵政民営化を行い、日本を市場原理主義化していく地ならしを行った。
その間アメリカ資本をバックにしたホリエモンが登場し、彼を政治の舞台に引きづりだした。ホリエモンはアメリカ資本の代役であり、その代役であるホリエモンが総選挙で活躍したことは、日本人のアメリカ資本に対する反発を封じる効果があった。
いつの間にかホリエモンは『悪から善』に変わり、そのことはアメリカ資本を『悪から善』へとイメージを変える役割を果たしている。

そういう意味で小泉は、『アメリカのいいなりになる日本』をつくることに貢献しただけである。

靖国参拝に対してアメリカは何も言わず、日本の行動を許容するかに見えたが、それは許容ではなく綿密な国際分析に基づく静観であった。
アメリカが静観を決め込んでいる間、しびれを切らしたのは中国である。靖国参拝は日米間の外交問題に発展することはなく、アメリカの思惑通り、逆に日中間の外交問題として噴出した。

ソ連崩壊後、アメリカがもっとも恐れている国は実は中国であり、アメリカにとって日本が自分の傘下から飛び出し、中国のもとに走ることは最悪の事態である。アメリカにとって日本が自分の傘下に入っているためには、日中関係はギクシャクしていなければならないのである。

そこを間違った(あるいはそれに刃向かった)戦後最大の首相が田中角栄であったというのは今では公然の秘密である。田中はアメリカが日本の頭越しに米中共同声明を結んだことから、今度はアメリカの頭越しに日中共同声明を結んだ。ロッキード事件の背景には深くこのことが関係している。ロッキード事件はアメリカの議会での告発から始まったのである。

アメリカが今最も恐れる中国とは、日本は関係を改善するどころかますます対立を深めている。
まさにアメリカの術中にはまったのである。

つまり小泉政権下で日本は、中国とも韓国とも北朝鮮とも対立を深め、東アジアのなかで孤立を深め、頼るべきものとしてアメリカしかない状況をつくり出した。
これこそが小泉政治の本質である。

このような男が唱えたナショナリズムは、『使い捨てのナショナリズム』であり、この『使い捨てのナショナリズム』によって彼は何万票という支持票を上乗せすることができた。

ナショナリズムという国民の心に関わることをこのように『使い捨て』にできるところがニヒリストのニヒリストたるところである。彼はそれを恥じるどころか、自慢さえするであろう。

残ったのは倫理・道徳・宗教を含む教育界の混迷と、それをさらに食い破っていく泥沼のような市場原理主義だけである。




【補足】
『市場原理主義』は欧米では通常、『新自由主義』(または新保守主義)といわれる。そしてこの新自由主義は単に経済ルールだけではなく、道徳ルールや倫理ルールまでをもその思想上に含んでいる。
そういう意味で新自由主義とは社会全体のルールとして機能しうるものであるはずなのであるが、日本では西洋と日本との文化の違いから日本的な価値観との整合性が成立していない。
そういう意味で私は日本の新自由主義は社会を破壊する『エセ新自由主義』だと思う。

だから日本のマスコミが最近これを新自由主義とよばず、限定的に市場原理主義とよぶことはある面では筋が通っていることである。
しかしこのような呼び方によって、議論の対象が『市場原理主義が正しいかどうか』ということだけに限定されてしまうことは、たいした結論を引き出さない。
もともと新自由主義は市場原理の上に、どのような『倫理の構築』が可能かという問題と切っても切れない関係にあるのであって、市場原理のもつ良さもそのマイナス面も、その二つのもののからみの上で発生する。
市場原理だけに限定された土俵の上では、結局は効率主義や成果主義が必ず幅をきかすことになるのは理の当然のことである。

小泉政治以来、日本はこのような複雑ではあるが避けて通れない問題を避け、ものごとを極度に単純化して捉える傾向がある。
私はその代表格が竹中平蔵であると思う。




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