地域崩壊のカタキを、学校でウツ ?

     

2006.1.10  

以下は掲示板より


経済界の人が教育関係の審議会に入り、日本の教育を操るようになって久しいが、彼らは経済界に適した人間をより多くつくりたいのだと思う。

しかし学校現場から見ると、このままでは日本は保たないというところまで来ている。今の青少年がこのまま良識ある大人のなることはない。

優等生にしろそうでないにしろ、小粒で何かに脅えている。そうでなければ尊大にすぎる。バランスのとれた人間が育っていない。

このツケは今の経済界の人たちが第一線を退いた頃にもっとはっきりした形で現れて来るであろうから、彼らにとってはどうでもよいことかも知れないが、このままでは日本は保たない。

いくらエリートを育てたところで、子供集団そのものが崩れているのであるから、彼らが将来大人になったところで、職場のチームプレーができるわけがないのである。

今学校がガタガタになっているように、近い将来日本の職場はガタガタになる。それは決して職場だけのことではないが、すでに地域と家族はガタガタになってしまっているから、今から本格的に崩れていくのは、経済界である。

そういう予兆は街ですれ違う若者たちの目を見れば十分分かるではないか。すれちがえるのはまだ良い方で、その陰には何十万という引きこもりの若者たちがいるのである。




家庭・地域 → 学校 → 職場

以前はこのようなルートが存在していた。
学校は健全な社会人として生徒を職場に送り込むことを目的としていたが、そのような学校の機能が可能であったのは、家庭と地域が健全であったからである。

日本の職場は終身雇用制などのもとに、単なる機能集団としてではなく、一つの共同体的な場を形成することが可能であった。
日本の経済力が強かったのは、そのようなところにあり、決して特別な経済戦略家がいたからでもなく、研ぎ澄まされた知的天才がいたからでもない。
経済論理にすぐれていたからでもなく、金儲け主義に走っていったからでもない。
自分が働く集団を一つの場として意識し、場の維持を前提としてそれを守るためにみんなが一生懸命働いたからこそ、世界に誇れる経済力の強さが維持できたのである。

その源泉は決して学校にあるのではない。
その源をたどれば、学校に子供達を送り込んだ家庭や地域集団の中に、その強さの秘訣があった。

今学校が崩壊してしまったのは、学校の責任は別にあるとしても、
もともとは学校に子供を送り込んできた家庭や地域の機能が崩壊してしまったからである。

それが表面的には学校が子供を育てきっていないように見えるため、新卒者に大人としての能力が備わっていないのは学校の教育が悪いからだということになってしまった。

そこで経済界はこのままでは日本の経済力が落ちることを危惧して、国の審議会などに入り込み、日本の教育界をいじりはじめた。

それからもう十年以上経つ。
その結果日本の教育がよくなったのかというと、現場を知らない評論家ばかりが増えて、日本の教育はますます混迷の度を深めている。

先にも言ったように、従来の日本の教育力の強さは、決して経済力に邁進する強さではないのである。場の共同性を維持する強さなのである。そのことを知らずに経済界やノーベル賞受賞者などは、日本はエリート教育が遅れているなどと、ピントのはずれたことを言ってきた。

そうではないのであって、今学校で起こりつつあることは、
生徒たちの共同性が崩れ、
一人一人が孤立してしまい、
学校での催し物やクラスでの催し物ができなくなりつつあり、
生徒たちが誰もそのようなことに興味を示さなくなっていることなのである。
友人も少なく、
一人一人が殻をつくってしまい、
自分の殻の中に閉じこもってしまい、
場の雰囲気にどうやって溶け込んだらいいのか分からなくなっていることなのである。
だから生徒たちはたえず何かに脅えているのである。

よく旧制高校復活論をいう人がいるが、
これなどは時代錯誤も甚だしいものである。
あの当時に日本社会はまだ家族も地域も健全であった。子供達は幼い頃から子供集団のなかで揉まれて育ち、小学校を上がる頃には場に馴染むということがどういうことなのか、場の雰囲気をよむためにはどうしたらいいのか、そういうことをちゃんと分かっていた。

そういう子供集団に馴染んだことがある人は、エリートとなって旧制高校に通うようになっても、他の人とつきあうにはどうしたらよいか、場に溶け込むにはどうしたらよいか、そういうことを無意識のうちに体得していたのである。

そういう体験をしていたからこそ、
自分が集団によって生かされていることを知っていたし、
自分の努力が自分一人の幸せのためであったら何にもならないことを知っていた。
そういうところから、
エリートの中から『国』を考える人が出てこれたのである。

ところが今のような状態でエリートを選んでしまえば、彼らは一種の勉強マシーンであり、自分の利益のことだけ考えて何が悪いんだと開き直ってしまうような人間になってしまう。
ホリエモンのイメージを描くだけでそのような人物像を重ねることはできる。

本当に日本の教育力が失ったものは学力ではない。
経済を生き抜くための知識でもない。
そんなものはあとからでもどうとでもなる。

しかし日本の経済界は子供の学力だけを欲しているように見えるし、学力以外のものがあるとすれば『企業戦士』型の人間のみを欲しているのであるが、日本の教育の復活はもっと奥深いところに隠れている。




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