小学校での英語教育


     

2005.8.22  

掲示板より


受験で英語で苦労するものは多い。
そんな苦労はさせたくないと思って、英語の早期教育に熱心になるのは親心だろう。その親心を否定しようとは思わない。

しかし英語教育は早ければ早いほどよいという俗説に、科学的根拠はない。
逆に母国語の能力が不十分なときに、第二言語として英語を習得せざるをえなくなった子どもたちの悲劇のほうが語られ始めている。
小学生低学年で親の転勤で外国(英語圏)に転居せざるをえなくなった子どもたちが、すべてバイリンガルになれるのかというと、かえって英語も日本語もダメになって帰ってくる場合が多いという。

小学校の教師の中には英語教育に熱心な人たちがいる。
そして彼らを利用してNHKは「エイゴリアン」なる幼児向けテレビ番組を制作したりしている。

いま学力低下は、おもに理数系の教科で叫ばれているが、
そのことの本当の意味は日本の子どもたちの抽象的思考能力の低下ではないかと私は思っている。たんに算数だけの問題ではなく、子どもたちの抽象的思考能力の低下が、まずはじめに算数の能力低下となって現れているだけのではないかと思う。
算数や数学というのは高度に抽象的なものである。

逆に算数は抽象的なものだが、現実は高度に具体的なものである。その違いをわからない理系的発想の人たちが、高度に具体的な現実社会を数学的に捉えようとする傾向も一方ではあり、社会を混乱させているが、それはここではひとまず置いておくべき、別次元の問題である。

この問題は算数の問題ではなく、国語の問題だと私は思っている。英語ブームのなかで国語の学習が軽視されれば、ものごとを考えていくときの論理性がまず損なわれる。

人の論理的思考というのは、母国語の言語の論理によって培われるからである。人は言葉によって考えるからである。
例えば、人権という言葉のなかった江戸時代には、庶民が人権について考えることは不可能である。

異文化を理解するにはまず抽象的思考能力がなければならない。まず文化という言葉自体が抽象的な概念である。その文化の違いによってさまざまな言語のバリエーションが発生してくるのであるから、文化の概念のない人間が異言語を習得することがいかに大変なことかは分かるはずである。

それをお遊び程度の総合学習の時間でやることができるという発想自体が、異文化理解の難しさを理解していない証拠である。


仮に小学校での英語教育の有益性があるとすれば発音が洗練されるといったことだけであろう。
しかしこのことについても、市川力は次のように言っている。

『インド人は思いっきりインドなまりの英語を話しているし、メキシコ人はスペイン語なまり、アラブ人はアラブなまりの英語を話している。それでも彼らは、自分の立場をしっかり主張できている。』
(『英語を子どもに教えるな』 中公新書ラクレ より)





デカンショー デカンショー で 半年暮らす ♪

デ・カン・ショーとは、 デカルト・カント・ショーペンハウエルである、と聞いたことがある。

この歌を高らかにうたった旧制高校の生徒が本当に、デカルト、カント、ショーペンハウエルを理解していたのかというと、そんなことはないのであって、彼らはよく理解できずに、
あとの半年ゃ 寝て暮らす ♪
のである。

しかしここで大切なのは、彼らが西洋思想を理解しえたかどうかではなく、理解しようとする思考訓練のなかで、彼らが抽象的思考能力を高めていったことである。

そのようななかから、新渡戸稲造のような独自の日本論を英語で書くような国際人がでてきたのである。
彼らは小学校から英語を学んでいたのではない。
日本語の素養を十分高めた上で、英語の表現能力を取得していったのである。
そしてそれは十分にヨーロッパ人を説得しうるものだった。彼の代表作「武士道」は、ヨーロッパ人が読んでいたものを、日本語に翻訳することによって、日本で読まれるようになった、新渡戸稲造の著書である。

明らかにゆとり教育とは違うし、総合学習とも違う。
小学校からの英語教育とも違う。

思考能力を高めずして、異言語の取得は不可能である。
日本の英語教育が文法指導から始まっていたことは、なぜか失敗のように言われるが、もう一度よく考えてみる必要があるのではないか。

いたずらに会話能力だけを身につけ、発音が流ちょうでも、中身がなければ、たんなる飾りである。





英語の文法教育批判は、難しすぎるからそんなこと理解しなくても会話できさえすればいいではないか、というものであった。
イギリス人は文法を意識しないで英語をしゃべっているから、日本人だって文法なしで英語をしゃべっていいではないか、
そんなお気楽な議論だったと思う。

英語、英語といわれるなかで、国語能力の低下は二の次にされた。気づいていなかったわけではない。若者の活字離れは言われ続けて久しい。

にもかかわらずこの国では英語なのである。
さらにこの英語力養成がおかしいのは、ちょっとした会話能力だけをめざそうとしていた、ゆとり教育的な英語観が、いつの間にか国際人養成に代わってしまったことである。

ちょっとした英会話ができれば国際人になれる、というふざけた国際感覚が、この国には充満している。安易すぎるのである。

先に挙げた市川力氏は、アメリカで日本人子女の教育に携わった人であるが、国際人として生き抜くために必要な英語能力として次の場合を想定している。

『1.国運・社運をかけて交渉・説得を行う場合
 例えば、取引先となった外国企業との間にトラブルが発生し、いかにしてそのトラブルを解決していくかという場合。

2.自分の持つ専門知識を相手に説明する場合。
 例えば、自社製品の売り込みのためのプレゼンテーションを行う場合。』

いずれの場合も、「こんにちは、ご機嫌いかが」程度の英語力では済まされないのである。
しかし文法が難しいから文法抜きで簡単な会話力だけをすべての生徒に身につけさせようとする英語観は、「こんにちは、ご機嫌いかが」程度の英語力で、難しい国際社会を生き抜くことができるとする、安易な国際理解である。

さらにそのことは大学の学部・学科や、大学の名前そのものにまで『国際』という文字を冠するだけで、人気が上がっていくという、日本人の『国際社会幻想』の背景になっている。

『文科省が英語を壊す』(茂木弘道 中公新書ラクレ) にも、小学校からの英語教育について同じようなことが書かれていた。





にもかかわらず、
2004.3月、当時の河村文部科学大臣のお声がかりで、小学校の正課として英語の導入を検討するため、外国語専門部会が中央教育審議会の中に設置され、検討作業が始まった。

国語と英語を同時に小学生から教えるなんて、よく考えてみれば、これほどひどい詰め込み教育はない。

英語を理解すれば国際人になれるのか。

小学校の先生にもある程度の専門性はあり、小学校の国語専門の先生と話していると、問題行動を起こす子は決まって言葉を持たないと言う。自分を表現するだけの語彙を持っていないというのである。

考えるということは言葉で考えることだから、言葉を持たないと言うことは考える力を持てないということでもある。その際の考える言葉というのは、母国語である。英語を習ったから英語で考える小学生はいない。

その小学校の教師曰く。
『本当は国語の将来を考えれば、英語教育の導入など潰してやりたいくらいだ』

そういう話を交わしたことがある。

しかし小学校の先生の中には自分が多少の英語をしゃべれるからといって、子供に英語を教えたくてたまらない先生がいる。
『英会話ができなくてもいい、英語に親しむだけでいい』と、よくそんなわかったようなことをいう。

自分のしたいことに操られているだけで、初等教育の全体をみていないと思う。授業時間が不足し、多の教科で進度を上げるのにきゅうきゅうとしている中で、その先生だけはゲームみたいな英語教育に熱心なのだ。

『リンゴをアッポーという、アップルではない、アッポーなんだよ』、そして外国人がリンゴを食べている絵を見せる。それが国際理解になると信じている。

バカげた話なのだが、その先生は小学校英語が、正式に教科になりそうな中で、ますますご満悦である。最先端の進んだ教育を施していると思っているらしい。

アメリカ人がアメリカなまりで日本語を話すことは、日本では当たり前である。それをおかしいという日本人はいない。

しかし日本人だけは世界の中で日本語なまりのない英語を話さなければ、国際社会の中で通用しないとその先生は思っているらしい。
こういうのを『かぶれ』というのではなかろうか。

国語の能力のないところに、いかなる他言語理解も成立しないのである。
そして自己表現とはあくまで母国語の語彙と文法上の論理性の中で深められるものなのである。

英語の文法を学んだものとそうでない者とは、外国生活をしていく中で、その英語取得能力に明らかに差が出てくることは、周知の事実である。





『本当は国語の将来を考えれば、英語教育の導入など潰してやりたいくらいだ。』
そういう小学校の教師もいる一方で、現場では多勢に無勢、表だって声を上げたら反対派だと思われるふしがあって、見て見ぬふりをしていることが多いらしい。
中には英語に興味もないのに、英語教育の流れに乗っかる教師もいて、これは処世術のうまさというしかない。

しかし中には、最近の子供の質的変化やその脆弱さを本気で心配しているもののわかった教師もいて、それをたんに学力低下と捉えるのみならず、もっと大きな視野で捉え始めている教師もいる。



補足 
処世術のうまい英語便乗派の先生に多いのは、一見、弁舌さわやかで、ハイカラなイメージをもつ人たちが多い。
彼らは上の動向を察知する能力にはたけている。やたら文部省の動向や、県教育委員会の人事に詳しい。
意識が生徒に向いているのではなく、どこか上の方を向いているからである。






【たきさんよりの投稿】
『僕の経験を言わせてもらいます。正直僕は英語が下手だし、文法もなっていないです。
しかし、僕の研究所にくる外国人には相手されないことはないし、積極的に会話を楽しんでくれています。
僕は、他の研究所の面子に比べれば、日本の文化についての理解が深いようで、日本の文化の本質を理解しているらしいのです。
ですから、彼らは僕との会話を楽しんでくれます。僕が外国に行ったときも同様です。
正直日本文化の理解があることが、英会話がうまいことより国際理解のためには重要であるということを実感させられます。』
(投稿終わり)





【玉葱さんよりの投稿】
一昨年小学校のALTとひょんなことから、マンツーマンで話す(会話になっていませんでいたが。)機会がありました。数校かけもちの20代後半の講師は、海兵隊員として来日し、日本女性と結婚、在住ということでした。人柄としては、熱意のある方でしたが、あの当時、教育委員会がどのような採用基準でALTの方を雇用し、小学校へ投入していたのか、疑問に思ったことを覚えています。』
(投稿終わり)





【窓拭きさんよりの投稿】
英語ですか・・・私も低学年からの英語教育には反対です。というか、ほとんど憎んでいます。
私は若いころから英語と縁の切れない仕事で、ずいぶん苦労しましたから、英語の重要性は身に沁みております。
仕事上の会話はもちろん、膨大なマニュアル・技術図書の翻訳、上司のための手紙代筆から退職直前はメールのやり取りまで、まさに英語漬けの35年でした。
うちの嫁が、1歳の孫に英語の歌教材を聞かせているのを見て、「かっ」となりかけましたが、そこはそれ、ぐっとこらえて、嫁のいないところで小学校唱歌や童謡をゆっくりと歌ってやっています。私の密かなかつ唯一の楽しみです。
「挨拶も 出来ぬ子供に 英語塾」は故 内海 芳江さんの言葉だったでしょうか。
だから、言いたいのです、まず日本語をしっかりと学べ!と。
(投稿終わり)




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