以下は掲示板より
国民主権と王権神授説 2005/03/19
国民主権と王権神授説が同根であるなどといったら意外に思われるかも知れない。 国民主権と王権神授説は相対立するものであり、王権神授説が否定されることにより国民主権が成立してきたと捉えるのが一般的かも知れない。 しかしこの両者は主権の概念の発生として同根なのである。 主権という概念が誰から与えられたのかというと、両者とも神から与えられたという点では共通している。その神とはキリスト教である。 しかもその時期はどうも1500年代の宗教改革以後であるようだ。 主権の概念自体がキリスト教的である。王権神授説がカトリック的であるのに対して、国民主権はプロテスタント的である。 では王権神授説は宗教改革以前からあったのかというと、プロテスタントの発生によりカトリック側が刺激されることにより、王権神授説も発生してきたようである。
このように主権というのは神から与えられたものという意識がなければ、その機能を果たし得ないのである。つまりもらったものは返さなければならない。神からもらったものであるならば、神に返さなければならない。神から与えられた権利であるならば、神に対する義務が発生するという構造がこの主権の概念には含まれているのである。
そのことが日本人にはなかなか分からないことなのである。
偶然か、必然か
「♪ 運が良いとか悪いとか、人は時々口にするけど」 むかし、さだまさしが歌っていた。 人には運・不運がある。 そういうことは我々日本人の常識である。
しかし世の中にはそう考えない人もいる。
世の中のすべては必然である。 太古の昔から決められていたことだ。 自分がいつ生まれ、いつ死ぬか、そんなことははるか昔から決まっていたことだ。
そんなことまで決められていたらたまらないと、我々日本人ならそう思うのであるが、どうもキリスト教とはそうは考えないらしい。
一神教というのは考えてみれば恐ろしいもので、この世のすべてを造ったのが一神教の神様であるから、その神様はこの世の終わりにまで責任を持たねばならないらしい。
すべては神のお導き、
そういう言葉はこんなところから生まれてくる。 それはもともとキリスト教という一神教のなかに潜んでいたものであるが、それがプロテスタンティズムのなかのカルヴィニズムのなかで強調されることになり、『予定説』というかたちで広まることになった。
すべてを因果関係のなかで解明するという手法は数学的発想であるし、科学的発想にも通じる。1500年代に生きたカルヴァンの百年後の1600年代にデカルトやニゥートンが生きていたということは、非常につじつまの合うことで、世の中の科学的思想というのはこのようにして発展した。
世の中をすべて必然的に捉えようとする科学的思想は、実はカルヴァンの『予定説』にもとづくものである。
神の見えざる手
一神教というのは考えてみれば恐ろしいもので、この世のすべてを造ったのが一神教の神様であるから、その神様はこの世の終わりにまで責任を持たねばならないらしい。
『すべては神のお導き』
そのお導きが間違っているはずはないのがキリスト教である。なぜならキリスト教は救いの宗教だから。選民思想というのはそういうことである。
人が自由競争を行って、なおかつ社会の安定が保たれるという思想はそういうところから発生する。
これが資本主義の思想である。
それは何ら証明されたものではない。それは信仰である。私はここで信仰の話をしている。ということは資本主義というのもまたキリスト教から発生したことになる。
民主主義
プロテスタンティズムというのは確固たる個人を打ち立てた。
その個人形成の歴史的な過程ではなく、その歴史的背景を持たない個人をアトムと見たて、そのアトムからどうやって社会を形成していくかを考えたものが社会契約説である。
そのアトムたる個人の条件が神から人権を与えられているという天賦人権説である。この神から与えられた人権こそが国民主権の源なのである。
人権を与える側が神とか王権とかいわれるものであり、人権を与えられた側が国民である。 前者を優先すれば王権神授説になり、後者を優先すれば国民主権になる。
とすれば国民主権もまた神と個人の一対一の関係を原則とする、プロテスタンティズムから生まれてきたことになる。 このように神と人との間に教会組織などの仲介物を置かず、神と人とを直接に結びつけてしまうものが、プロテスタンティズムであるが、それはもともと一神教のうちに内在する性格でもある。
ホリエモン登場の意味
科学主義・資本主義・民主主義は、それぞれ文化・経済・政治の領域に相当するものである。
キリスト教は単に現代社会の文化面だけではなく、政治面・経済面にまで影響を及ぼしている。
ライブドア問題がここで関係するのは、このうちの経済に関してである。
日本人は会社経営を市場の論理だけで捉えることを当たり前だと思っているし(その究極の姿がホリエモンなのであるが)、ニッポン放送株買占めに関して、残念ながら多くの人がホリエモンのやり方を支持する傾向にあるということは、日本人の多く(たぶん若年層)が会社経営を市場の論理(市場原理)だけで捉えることを当然視しつつあるということである。
しかしキリスト教社会のなかでは、市場の論理は『神の見えざる手』(アダムスミスの言葉)という形で、『神様のお導き』や『神の栄光』を増すための手段になっているということである。
つまりどこかでそれは高い宗教的な精神性と結びついているということである。
ところが日本ではその精神的バックグラウンドがないため、市場の論理は実利をもたらすためだけのものに、成り果ててしまうのである。
今まで日本の実利志向のなかで企業価値だけは人間の精神的価値と結びつき守られてきたのであるが、
ホリエモン登場の意味は、会社株価の時価総額だけが企業価値であるがごとき理念のリーダーが正面切って現れてきたことを意味するのであり、しかも日本政府が初めてそのことの持つ危険性に気づいたことである。
何せ日本政府は規制緩和の名のもとに市場原理の大幅拡大を進めてきたのであり、今問題になっている郵政民営化問題ともそのことは密接な論理的関連を持っている。
教育の世界にも株式会社の学校など、市場原理は導入されており、森前総理の「これが教育の成果か」という発言はそのことを意味しているわけである。
間違った教育によって育ってきた間違った理念を持つリーダーのいうことを、どうやって防ぐことができるか、そういう問題に今政府は直面していることになるのである。
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