日本と西洋の教育観の違い

     

2004.8.30  


日本の学校は生徒の個人の生活面まで指導を行うのが一般的であるのに対し、西洋の学校は個人の生活面には立ち入らず、もっぱら知識の習得のみに努めるのが常である。

そこにある教育観の違いというものは一体何に由来するのであろうか。

個人の価値観の領域には学校教育といえども踏み込んではならないという考え方は、ヨーロッパの歴史の中で、どこに根拠を持つものであろうか。

中世ヨーロッパ社会ではキリスト教的価値観が広く一般に浸透していたが、ルターによる宗教改革以後は、さまざまな価値観の対立が起こってくる。

それは16世紀から17世紀にかけてのユグノー戦争三十年戦争などの宗教戦争にまで発展していくのであるが、その過程の中で、従来の中世キリスト教的価値観が崩壊していく。

ドイツでは1555年には、アウグスブルグの和議が成立し、封建諸侯はカトリック派とルター派のいずれをも採用できるようになったが、まだこの段階での領民は諸侯の奉ずる宗派に従わなければならなかった。

フランスでも1562年にユグノー戦争が起こった。
その結果フランス王(アンリ4世)は、1598年にナントの勅令を出し、ユグノー(フランスのカルヴァン派)にも大幅な『信教の自由』とほぼ完全な市民権を認めた。
つまり『個人の宗教選択の自由』をフランス国王が認めたのである。このことは大きな変化であった。
(しかしその後フランスは17世紀後半にはナントの勅令を廃止し、ユグノーを追放したこともあって、フランスはほぼカトリックの地盤となった。)

ドイツではさらに1618年に三十年戦争が起こった。
その悲惨さはドイツの人口の三分の一が失われるほどであった。
三分の一と口で言うのは簡単であるが、日本人にとってこれは考えられないほどの悲惨さである。
その過程で、フランスはカトリック国でありながら、ハプスブルク王家打倒を伝統的政策としたため、ドイツのプロテスタント諸侯を援助してこの戦争に介入した。

この戦争は1648年のウエストファリア条約で終結したが、
この条約で、カトリック・ルータ派・カルヴァン派は等しく信仰の自由を認められるようになった。
カルヴァン派はここで公認されたが、そのことは領主と異なる宗派の領民が黙認される結果になった。

このように、激しい宗教戦争のもとで『個人の信仰の自由』が認められるようになったのである。
このことは、キリスト教社会の中の個人主義的伝統がそれまでの中世個人主義から近代個人主義へと大きく変化していくことでもあった。

国家が個人の内面にまで介入せず、個人の自由にまかせるという伝統はこのような所から発生した。
それは介入するととんでもないことがおこるからである。
もともとそのようなことになった遠因はキリスト教会の腐敗にあった(一神教の教義上の問題は別にあるにしても)。
権力が腐敗すると民衆は権力の介入を徹底的に排除するようになる。つまり両者の間に信頼関係が失われてしまうのである。

プライバシーという日本人にとってなじみのない概念はこのような権力の腐敗と、権力と民衆との不信感の成立の中で理解されなければならない。
しかしそのことは権力だけでなく、世俗の何物をも受け付けず、自分の内面を形成しなければならないという態度にも結びついた。

日本では俗に『世話をやく』という。しかし西洋ではそういう人間関係が成立しなくなることをも意味していた。
自分の内面のことは神とのみ話すことであり、人と話すことではなくなる。
人と話せば人は何を考えているのかわからず、喧嘩になってしまうからである。宗教的な立場が違えば、それで終わりになる。
いわば『知らぬが花』である。誰も自分の内面を話さなくなる。
そうでないと生きていけないからである。

日本人ならそういう関係を『水くさい』という。
西洋では人間関係は『水くさく』なければならないものになった。それがうまく生きていくための知恵になった。
人生の一番大事な部分は決して人に話すものではなくなり、神とのみ対話するものになってしまった。



中世個人主義のなかにも、神と人との一対一の関係という非常に根強い個人主義的伝統は存在したが、
それでも神と人との間には教会という社会的共同体の存在があったのであり、
個人はその社会的共同体と結びつくことにより個人の価値観を形成していたのであった。
しかし近代個人主義は、神と人との中間にある何物をも認めず、
個人を丸裸にした状態で直接神とを結び付けていくようになったのである。


このような戦争状態のなかで、中世的な価値観は崩壊していき、個人の価値観も大きな不安にさらされることになった。
『我考えるゆえに、我あり』といったデカルト『方法序説』が出版されるのは1637年であり、まさにこのような混乱の時代であった。

『我考えるゆえに、我あり』(コギト エルゴ スム)のデカルトの『コギト』ととは、
自分以外の何物をも信じることのできなくなり、社会的なきずなを失った一思想家の不安の表明であり、これをもって近代的自我の確立というには、あまりにも不安定な問題を抱えているものでる。
デカルトは神への信仰を捨てなかった人であるが、神だけでは安心できず、人と人とのつながりを求めないと不安で不安でたまらないというのは、洋の東西を問わず人の普遍的な姿であろう。

『人は一人では生きられない』、『人は社会的な動物である』というのは普遍的な真理であるが、このことと近代個人主義は鋭く対立したまま、人を不安のどん底に突き落としていくのである。
のちキェルケゴールやニーチェの感じたものは、それがやがて人の生きる意味を奪い尽くす所まで行き着いてしまうというニヒリズム到来の不安であった。



『個人の信仰の自由』が黙認されたウエストファリア条約の次の年(1649年)には、イギリスではチャールズ1世がピューリタン革命により処刑されるという事態が起こっている。

このことに危機感を抱いたイギリスの思想家ホッブズ
1651
年に『リヴァイアサン』を著し、このような混乱状態の危険性を指摘した。
『万人の万人に対する闘争』という表現は彼の危機感の現れであったのだが、
彼はこの『万人の万人に対する闘争状態』を『異常事態』とするのではなく、人間の『自然状態』という表現を使ったために大きな誤りを犯すことになった。

宗教改革と個人の信仰の自由によりもたらされたものは、隣人同士の不信感である。
隣に住んでいる愛想の良いおじさんが実は自分と違うプロテスタントであるかも知れないという不安に、人々は絶えず脅かされるようになった。
『めったなことは言えない』、そのような疑心暗鬼の世界が西ヨーロッパの至る所で見受けられるようになるのである。
それは言ってみれば旧ソビエト連邦の密告社会のような恐さに近いものである。

東ヨーロッパでも確かに宗教の違った様々な民族が入り交じっているのであるが、
彼らは民族同士が住み分けており、同じグループの居住区を持っている。その中での共同体は維持されている。
だから旧ユーゴスラビアのように、一度強力な政権が崩壊すると、居住区間の民族紛争は起こりはするが、居住区単位の民族集団の一つひとつはしっかりと維持されている。政治的不安は深刻ではあるが、ここでいう内面的な不安とはまた別の次元のものである。

しかし西ヨーロッパではそのような共同体がなく、また宗教を異にする民族の住み分けも行われていないため、
お互いが日常の中で無意識のうちに警戒し合うという状態が続いていくのである。
西ヨーロッパではカトリック居住区やルター派居住区、またカルヴァン派居住区などというのは分けられておらず、みんなが好き勝手に、個々人が異なった宗教のもとで、バラバラに散在して住んでいるのである。
個人の信教の自由というのはそういう事態を容認することである。
いきおい自分の内面生活は人に見せないようになる。相互不信はますます高まるようになる。

このようなことを考えるとドイツのヒトラー政権下で、ユダヤ人探しが行われた心理も理解できてくる。彼らの不信感はユダヤ人というスケープゴードを捜すことによって癒されていったのである。
ゲルマン民族の中にあたかも仲間のような顔をして住んでいるユダヤ教徒たちは、宗教の違いから、キリスト教徒たちにとっては不安の象徴になった。
そしてそれがゲルマン民族による第三帝国の実現という荒唐無稽なユートピア思想へとつながっていったのである。

ホッブズの言う『万人の万人に対する闘争』という言葉は、
そのような西ヨーロッパの不安な社会状況を言い表した言葉だったのである。
そういう状態からは必然的にニヒリズムしか生まれてこない。
しかし、ホッブズはそれを『自然状態』だと捉えたのである。
ホッブズは人間がいつの時代も持っていた共同体内部での安心感へ希求を、完全に捨象してしまったのである。

しかしこのような人間観は一面では非常に危険なものである。
しかも、それを『自然状態』だと捉えれば、次にはそれを肯定的に捉えるものが出てくるはずである。
初めから人間の社会性を捨象してしまう人間が出てくることになる。

世界史の大きな流れはそういうことになっていく。



ピューリタン革命後のヨーロッパ社会は安定に向かうどころか、
イギリスとフランスの絶え間ない第二次英仏百年戦争に突入していった。
それはイギリスとフランス間の新大陸での植民地獲得戦争と同時進行で行われた。

この第二次英仏百年戦争がイギリスの勝利に終わったかに見えたとき、
イギリスに対して今度は植民地のアメリカが独立戦争を開始した。
そしてアメリカは1776年、アメリカ独立宣言を行ったのである。

さらにこれがヨーロッパに飛び火し、フランスではルイ16世の政治に反対する民衆が反乱を起こし、
1789年にフランス革命が勃発したのである。

このようなことを見ていくと日本の安定期に当たる江戸時代は、ヨーロッパでは絶え間ない戦争の時代だったことがわかる。





一方日本ではどうだったのかというと、
1598年のナントの勅令の約10年前、
1587
年に豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、キリスト教宣教師の国外追放を命じている。
その後、豊臣から徳川に代わっても、禁教令は拡大され、全国にむけて禁教令が出されるようになった。

ヨーロッパでは1648年にウエストファリア条約が結ばれて個人の信教の自由が黙認されたが、
日本ではその約10年前の1637年に島原の乱が起こり、
キリスト教的価値観が政治的に結集したときの恐ろしさを十分に味わうことになった。
ヨーロッパではウエストファリア条約以後は、個人の内面にかかわる思想や信仰に対して、国家が口出しをすることはなくなったが、
逆に日本では島原の乱以後は、個人の宗教生活にも幕府の指示が色濃く行き渡るようになり、幕府の仏教政策のもとで国民の大多数が仏教徒になっていった。
寺請制度とか檀家制度と呼ばれる政策である。

このことは一般的には日本の封建制を示すものとして否定的に扱われるのが常だが、
一方でこの檀家制度は日本の伝統的宗教感情である祖先崇拝の信仰と結び付き、
社会の最小構成単位である『家』制度を、命の連続体として捉えることに成功していった。
そしてそれを庶民のレベルまで浸透させていった。
そのような形で日本人の『あの世』観が安定し、命への肯定観労働に対する勤勉性を育んでいった。
それは宗教的なものから出でて、脱宗教的で合理的なものへと発展していったのである。

また日本では、ウエストファリア条約の次の年の1649年に『慶安の御触書』が出され、農民の日常生活への心構えが示され、農民の生活安定が目指された。
そしてそれ以降、日本では島原の乱に匹敵するほどの農民反乱は、幕府が滅亡するまでついに起こらなかったのである。

つまりここで言えることは、
ヨーロッパでは、
個人の信仰の自由に端を発する個人の価値観の自由を認めたことにより、宗教観の対立や王権への反乱、そしてまた国家同士の対立が果てしなく続いていたのに対して、
日本では、キリスト教的価値観を排除することにより、上は武士から下は農民に至るまで、幕府の政策による価値観の浸透が進んでいき、天下泰平の時代が続いたのである。
徳川の平和がもたらされたのである。

その間、農民層に関しては主に仏教による価値観の形成が行われ、
また支配層である武士階級に関しては主に儒教的な価値観の形成が行われていった。
それとともに日本の伝統的な宗教である神道も上下を問わず広く根付いており、
仏教・儒教・神道という3つの宗教が緊張関係を保ちながら、国民全体に維持され浸透していったのである。

そしてそれは、個々の人間が幕府と一対一の関係で直接結び付くという形をとらずに、
農民に関しては村を通して、
商人に関しては町を通して、
武士に対しては武家社会を通して、
というように社会的紐帯を伴う形で進められた。

宗教面でもプロテスタントのように教会を通さず直接に神と人とが一対一で結びつくという形にはならず、
仏教は寺院を通して、
神道は神社を通して、
また儒教は藩校や寺子屋などの学校を通して、
というように社会的な組織を通じて浸透していったのである。

しかし今、『村』『町』『武家社会』『寺院』『神社』『学校』という政府と国民との間に介在する中間組織として、現在でも機能しているのは『学校』だけである。

このような組織がすべて無くなれば、絶対的価値というものを発展させずにきた日本社会では価値観の共有はできなくなる。
何らかの組織を介して、はじめて個人の価値観が形成されうるいうことは、この時代だけに特徴的なことではなく、今でもあてはまることである。
天才的な優れた先生から何かを習うというよりも、多くの人々とともに何かを習っているという安心感こそが大切だったのである。

このようなことは現在では価値観の押し付けと受け取られてしまうようであるが、
江戸時代の人々にとっては、みんなが同じ価値観の中で生きているということが大切だったのであり、それはそれで安心して暮らせる社会でもあったのである。
そうであってこそ人々は相互に気を配り、つつましく暮らしていけた。



贈り物をするにしても、『つまらないものですが、お口直しにどうぞ』といって、相手に手渡すのが礼儀とされていたのである。
そういう意味では、高飛車な価値観の押し付けは厳しく嫌われていた。

先日あるテレビで、贈答の作法について、
『つまらないものですがなどと言っては相手に対して失礼である、あなたはつまらないものをもらってうれしいですか』
そういう指導をするテレビ番組があった。(TBSの『学校へ行こう』という番組)。
職員室で必死で採点しているときに、
『先生、このお菓子、○○のお土産で、やっと見つけたんですよ。絶対おいしいですよ』
悪びれずにそう言う生徒のお土産を、『オレは甘いのダメなんだ』とは言わない。
でも『良かったら、どうぞ』と控えめに言ってもらう方が、私にはよほどありがたい。
いま日本では価値観の押し付けはいけないといいながら、一方ではものすごく高飛車な価値観の押し付けが行われようとしているのかもしれない。

日本で自己主張を行おうとするとこんなバカげたことになってしまうのである。
日本ではこんなことを防ぐために『知・徳・体』の教育が重視されてきたのである。
この『徳』の部分を教育に生かそうとするとそれが道徳教育につながっていくのであるが、
しかし日本では道徳教育というとすぐに国家主義に結びつくという批判が起こる。また『体』の教育というとすぐに体育会系の教育になってしまい、『理屈を言うな、体で覚えろ』式の教育になる。

実際、理屈で説明せずに、語気と雰囲気だけで国会を乗り切っていく小泉式デマゴーグ政治を見ていると、日本にはこの危険はたえずあると危機感を覚えるのだが、かといって学校教育から生活指導を奪ってしまえば、日本の学校教育など成り立たないということも自明のことなのである。

日本の教育が決して『知育』教育だけを目指すものではないことは、教育基本法にも書かれてあることで、『人格の完成』とはそういう意味なのである。
日本人の人格とは神から誉められるような人格ではなく、
どこまでも人からの尊敬を受けるような人格なのであり、
人からの尊敬を受ける人格とはそれがどこまでもこの世での倫理的要素を持っているということなのである。





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