26.「人生論ノート」② 抜粋

(三木清 著  新潮文庫)

2002.6.29

  ●死について

 真実は死の平和であり、この感覚は老熟した精神の健康の徴表である。P9

死の平和が感じられるに至って初めて生のリアリズムに達する。P9

 観念らしい観念は死の立場から生れる。P9

執着する何物もないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死にきれないということは、執着するものがあるから死ねるということである。深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところをもっている。それだから死にたいする準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永世を約束する。P11

 死の問題は伝統の問題につながっている。死者が蘇りまた生きながらえることを信じないで、伝統を信じることができるであろうか。P11

 伝統の問題は死者の生命の問題である。P12

 

●幸福について

 人格は地の子らの最高の幸福である。(ゲーテ)P21

 

●懐疑について

 知性に固有な快活さを有しない懐疑は真の懐疑ではないであろう。P24

 不確実なものが確実なものの基礎である。哲学者は自己のうちに懐疑が生きている限り哲学し、物を書く。P26

 人は不確実なものから働くところから、あらゆる形成作用の根底に賭があるといわれ得る。P26

  独断はそれが一つの賭である場合にのみ、知性的であり得る。P26

 独断の多くは情念に基いている。P26

 人は他に対する虚栄のために独断的になる。P27

 政治にとっては独断も必要であろう。けれども教育にとって同様に独断が必要であるかどうかは疑問である。P27

 他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に浸透する力はむしろその一半を彼のうちに生きている懐疑に負うている。P27

 真の懐疑は論理を追求する。P28

 しかるに独断家は全く論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。独断家は甚だしばしば敗北主義者、知性の敗北主義者である。彼は外見に現れるほど決して強くはない、彼は他人に対しても自己に対しても強がらねばならぬ必要を感じるほど弱いのである。P28

 人は絶望から独断家になる。P28

 懐疑において節度があるということよりも決定的な教養のしるしを私は知らない。P29

 懐疑は根源への関係付けであり、独断は目的への関係付けである。P29

 

●習慣について

 習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを為し得る。P36

 

●虚栄について

 実体のないものが如何にして実在的であり得るかということが人生において、小説においてと同様、根本問題である。P40

 あらゆる人間的創造は虚無の実在生を証明するためのものである。P41

フィクションであるものを自然的と思われるものにするのは習慣の力である。P43

 

●名誉心について

 名誉心は自己の品位についての自覚である。P45

ストイシズムの価値も限界も、それが本質的に個人主義であるところにある。P46

 抽象的なものに対する情熱をもっているかどうかが名誉心にとって基準である。P47

 名誉心というのはあらゆる意味における戦士の心である。騎士道とか武士道とかにおいて名誉心が根本的な徳と考えられたのもこれに関連している。P48

 すべての名誉心は何らかの仕方で永遠を考えている。P48

 

●怒について

 ヒューマニズムというのは怒りを知らないことであろうか。そうだとしたら、今日ヒューマニズムにどれほどの意味があるであろうか。P52

 怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。P52

 もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎しみであって怒りではない。憎しみも怒りから直接に発した場合には意味を持つことができる、つまり怒りは憎しみの倫理性を基礎付け得るようなものである。P52

 特に人間的といわれ得る怒は名誉心からの怒である。名誉心は個人意識と不可分である。怒において人間は無意識的にせよ自己が個人であること、独立の人格であることを示そうとするのである。そこに怒りの倫理的意味が隠されている。P56

 人は軽蔑されたと感じたときに最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。彼の名誉心は彼の怒りが短気であることを防ぐであろう。ほんとに自信のある者は静かで、しかも威厳を具えている。それは完成した性格のことである。P56

 

●孤独について

 この虚無の空間の永遠の沈黙は私を戦慄させる。(パスカル)P64

 

●嫉妬について

 どのように情念でも、天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさをもっている。P68

 嫉妬は、嫉妬されるものの位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。P69

 

●成功について

他人からは彼の成功と見られることに対して、自分では自分に関わりのないことであるかのように無関心でいる人間がある。かような人間は二重に他人から嫉妬されるおそれがあろう。P74

 シュトレーバーというのは、生きることがそもそも冒険であるという形而上学的真理をいかなる場合にも理解することのない人間である。想像力の欠乏がこの努力家型を特徴付けている。P75

 一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。P75

 

●利己主義について

利己主義者が非情に思われるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、彼に想像力がないためである。P89

 人間は理性によってというよりも想像力によって動物から区別される。P89

期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。他人の期待に反して行為すると言うことは考えられるよりも遙かに困難である。P90

 キヴ・アンド・テイクの原則を期待の原則としてではなく打算の原則として考えるものが利己主義者である。P91

 人間が利己的であるか否かは、その受取勘定をどれだけ未来に延ばし得るかという問題である。この時間的な問題はしかし単なる打算の問題ではなくて、期待の、想像力の問題である。P91

 この世で得られないものを死後において期待する人は、宗教的といわれる。これがカントの神の存在の証明の要約である。P91

すべての人間が利己的であることを前提にした社会契約説は、想像力のない合理主義の産物である。P92

 

●秩序について

 秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。ひとは温かさによって生命の存在を感知する。P99

 最小の費用で最大の効用を挙げるという経済の法則が同時に心の秩序の法則でもあるということは、この経済の法則が実は美学の法則でもあるからである。P100

 最小の費用で最大の効用を挙げるという経済の法則は実は経済的法則であるよりも技術的法則であり、かようなものとしてそれは美学の中にも入り込むのである。P101

 ニーチェが一切の価値の転換を唱えて以後、まだどのような承認された価値体系も存在しない。それ以後、新秩序の設定はつねに何らか独裁的な形をとらざるを得なかった。P103

近代デモクラシーは内面的にはいわゆる価値の多神論から無神論に、則ち虚無主義に落ちてゆく危険があった。P103

人格とは秩序である。自由というものも秩序である。P104

 

●偽善について

 「善く隠れる者は善く生きる」という言葉には、生活における深い知恵が含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない。却って自然のままに生きることである。自然のままに生きるということが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的であるということをしっかりと見抜いて生きることである。P119





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