6.鎌倉新仏教と教育改革  

2003.4.19
 

 鎌倉新仏教の日本史的意義は、それまで仏教が貴族という特権階級だけのものであったのに対し、庶民救済を目指した庶民仏教へと、布教の対象を下の階層にまでさらに広げたことである。

 それは、『自分だけが救われても他の人間が救われるのでなければ本当の救済にはならない』という深い宗教的懐疑から発生したものであった。
 
唯円の書いた『歎異抄』のなかに次のような話がある。
唯円は親鸞のもとにはるばる東国から訪ねてきたのだが、親鸞は弟子は取らないという。どうしても弟子にして欲しいという唯円に対して、親鸞は弟子入りのための条件を突きつける。それは「百人殺してこい」というものだった。困った唯円は考えたあげく「そこまでして自分だけ救われようとは思わない」といって帰ろうとした。親鸞は「ちょっと待て、それでいいのだ」といって弟子入りを許可した。

 『自分だけ救われても何にもならない』

 そのような考えは、日本に伝わった大乗仏教そのものに胚胎した思想であったのだが、それを鎌倉新仏教の開祖たちは、日本で見事に開花させたのである。
 『自分が救われるのであれば、他の人間も同じように救われるのでなければならない』
 その様な考えが日本の社会全体に貢献した文化的価値は計り知れないほど大きい。日本が近代国家になる以前の、識字率の高さもそのような文化的水準の高さがあって初めて可能であった。

 鎌倉新仏教の開祖たちによって、誰にでも行える簡単な『行』、すなわち『易行』というものが提唱されたのであるが、そのことを現在に当てはめるてみると、一見それは現在の『ゆとり教育』に近いものがあるように感じられるかもしれない。

 しかし現在の『ゆとり教育』は、それを真に受けてしまえば『置き去り教育』にされてしまう性格のものである。その証拠に、『ゆとり教育』の一方では、当然のごとく『エリート教育』が提唱され、親の経済力の差がそのまま次の世代に持ち越されようとしている。

 自分だけエリートになればそれでいいのか。

 その結果、日本にもたらされるのは、教育による階層社会化である。

 歴史的に見れば日本の社会は、上層階級の文化を庶民階級にうまく伝達されたところに最大の特徴がある。仏教の教えを、貴族も庶民も分け隔てなく教えようとしてきた。庶民たちもそのような高い文化にあこがれ、自らそれを取り入れようとしてきた。それは鎌倉新仏教の開祖のような特別優れた宗教家だけのものではなく、それを伝えるためのさまざまな宗教者や芸人たち(聖・琵琶法師・太平記読み・連歌師)が、地方・諸国を巡り歩いていたのである。

 古くは奈良時代、奈良の大仏を造った行基は、仏教の教えを庶民に布教しようとして僧尼令違反に問われている。古来から中央の高い文化を地方または庶民に伝えようとする人々が必ずいたのである。そのことによって、日本社会全体の文化水準は高いレベルにまで引き上げられていった。

 しかし、現在行われている私立学校中心のエリート教育は都会型の教育改革である。地方の公教育はそこから大きく取り残される危険をはらんでいる。

 社会的に恵まれた者だけが『エリート教育』を受け、そうでないものは『ゆとり教育』の中で埋没していく。それを良しとする教育改革は、鎌倉新仏教の開祖たちの方向性とはまったく正反対といってよい。
 鎌倉新仏教の開祖たちはすべてがエリートコースを捨て、自ら比叡山(延暦寺)を下りていった人々である。当時の延暦寺は今の東大に相当する学問の一大拠点であった。

 本来インドヨーロッパ語族に属し、アーリア系の一民族である古代インド人たちが生み出した仏教思想が、東洋に伝播するにつれ、たえず変化し、さらにそれが日本という独立した国の中で著しくシャカの教えと違ったものになっていたことはよく指摘されることであるが、鎌倉新仏教の開祖たちによって、もともと個人の悟りをテーマにしたインド仏教の教えは大きく変化し、本格的に庶民の救済を目的とするまでに高められた。

 しかし、サッチャー政権やレーガン政権に始まる新自由主義の考え方は、弱肉強食の世の中で自己の成功を目指すものであり、ヨーロッパ流の個人主義の考え方をより一層徹底したものである。その流れのなかで一連の政治改革が行われ、教育改革もその例外ではない。

 日本文化はそのような外来思想に対して絶えず一定の抵抗力を保持し、常に日本流のアレンジを試みてきたのであるが、今行われている教育改革はその外来思想に対して著しく抵抗力を失っているように見える。

 鎌倉新仏教の開祖たちのような優れたアレンジの精神を、現在の思想家や政治家たちがどれほどを受け継いでいるのかということを考えると背筋が寒くなるほどである。



Click Here!教育の崩壊