4.「御三家」が消えた  

2003.2.25
 

 歴史の偏向が指摘されているが、それとはちょっと違った観点から(あるいはつながるのかも知れないが)、ここ数年、高校日本史の教科書には次のような記述の変更が行われていることを指摘したい。

 それは、徳川時代の「御三家」が「三家」になり、「御三卿」は「三卿」に変わったことである。そればかりではない。「慶安の御触書」は「慶安の触書」に変更され、「五箇条の御誓文」は「五箇条の誓文」になってしまった。つまり従来、歴史の形成の中で固有名詞として使われてきた名称を、後世の歴史家が勝手に取り外し始めているのである。
歴史教科書の記述者は何の権限があって、我々が永年言い表してきた歴史的名称を勝手に変更しているのだろうか。そんなことが許されるのだろうか。

 「御三家」は「御三家」であって、「三家」ではない。我々は普通、紀州・水戸・尾張の徳川将軍家につながるこの三つの藩を「御三家」と言い表してきた。それが歴史的事実なのである。

 ためしに手元にある国語辞典を引いてみても、「御三家」では載っているが、「三家」は載っていない。国語辞典に記載されているということは、そこに国民的合意が形成されているということであって、それは一歴史家の個人的な見解によって勝手に変更してはならないものを含んでいるということである。そうなるとこれは単に歴史だけの問題ではない。日本人としての国語表現にまで関わる非常に深い問題をはらんでいる。

 歴史を研究する歴史家自身に、歴史の積み重ねを尊重するという意識が欠如しているのではないかと私は思う。歴史家自らが自分たちの歴史を尊重する態度を失って、なんで生徒の歴史への興味・関心を高めることができるのだろうか。

 「御三家」を「御三家」と表現するから、我々はイメージをふくらませることができる。たんに「三家」ではなく、そこに「御」をつけるからこそ、そこにそこに含まれる歴史の肌触りを感じ、当時の人々の考え方までわれわれは感ずることができるのである。それが目に見えない歴史の感触である。無味乾燥な「三家」ではそのことが伝わってこない。

「五箇条の御誓文」にしても同じことがいえるし、「慶安の御触書」にしても同様である。「御」を取り外してしまっては、言外の言としての、天皇と庶民との関係、将軍と庶民との関係が伝わってこない。

 歴史はたんに暗記科目ではないと一方で言いながら、他方ではこのような無味乾燥の表現をしていくことに何の矛盾も感じないのだろうか。たんに歴史が暗記科目ではないということは、「当時の人々はこう考えた」という、そこに生きた人々の生き様や感じ方まで伝える必要があるということである。そのことを伝えられるかどうかということが、歴史教育の最も大切で、最も重要なことなのである。

 当時の価値観をもふまえて歴史をありのままに表現することと、そこから現在に生きるわれわれがどういう結論を導き出すかということは全く別の問題である。しかし歴史的思考力というものは、その中に生きた人々の価値観や生きざまを感じ取ることによってしか生まれてこない。その可能性を歴史学者(教科書記述者)自らが奪っている。

 「三家」という表現では、われわれがそう呼び慣わし、それを言い伝えてきたという歴史的事実が表現されていない。歴史的に形成されてきた歴史的名称を後世の人間が勝手に言い換えることは、「歴史解釈の変更」どころか、「歴史の捏造」に当たるのではないか。

 考古学の世界では藤村某によって歴史の捏造が行われたことは記憶に新しい。
 歴史学の世界でも同じようなことが行われているのではなかろうか。

 そこに共通するのは過去に生きた無数の人々より、自分の方が正しいという不遜な考え方ではなかろうか。
 あるいは過去などどのようにでも作りかえることができるのだとする社会構築主義(構成主義)の考え方ではなかろうか。

 その代表例として上野千鶴子(敬称略)がいる。彼女は次のように述べている。

 『私は基本的には歴史は書き換えられると思っている。・・・・・・・・歴史に「事実」も「真実」もない、ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実」だけがある、という見方は、社会科学のなかではひとつの「共有の知」とされてきた。社会学にとってはもはや「常識」となっている社会構築主義(構成主義)とも呼ばれるこの見方は、歴史学についてもあてはまる。』
(「ナショナリズムとジェンダー」青土社 上野千鶴子著 P12)

 このような思想から、極端にバランスを欠いた「フェミニズム」思想が生まれ、生物学的根拠を欠いた恐るべき「ジュンダーフリー」思想が生まれだしていることは、すでに承知の事実である。



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