3.「ツボ」と「コツ」  

2003.2.23
 

 マッサージをするときの、ツボというものがある。
 何の効き目もないところをいくら揉んでも、それは気休めにしかならない。本当にマッサージを効果あるものにするためには、ツボに触らなければならない。そんな大事なところがマッサージのツボなのであるが、なぜそれをツボというのだろうか。

 ツボという響きには、どこか暗いイメージがある。もっと響きのよい言葉をつけても、良さそうなものなのにと思うのだ。ツボにはその奥に闇を連想する。マッサージの急所とでもいうべきもの、本当に分かった者にしか触ることのできないもの、そんな大切なところを闇のイメージで表現する日本人の感覚というものの不思議さを感じる。
 これもやはり大事なものは、奥の方に隠れているという、日本人独特の感覚の表れなのであろうか。

 コツという言い方もある。コツは骨なのだろう。これもやはり普段、触ることのできないところに隠れている。

 ツボといいコツといい、一つの名人芸の世界であるが、そんなめったに人には触れない非常に大事なものを「本質」とか「真実」とかといった大げさな言い方をしないで、さらりと軽く「ちょっとしたコツがあるんだ」とか「ツボを触っただけさ」などと表現するところが、非常に大事なことのように思われる。
 大事なことをサラリとそれと気づかれないように表現すること、気付く人は気付くが、気付かない人は気付かない、それでいいんだ、そんな思想が込められているような気がする。

 世界最短の文学といわれる五・七・五の俳句の世界、表現は大げさにならずに、短かければ短いほどよい。気付いてもらえなければ仕方がない。わからない人には何を言ってもわからないんだ。それは自分で見つけるしかないんだ。
 日本人にとって自己責任論とは本来こういうものであったのではなかろうか。

 ミソという言葉もある。「そこが大事だ」とはいわずに、「そこがミソなんだ」と言ったりするそのミソである。ミソとは何だろうか。隠し味という表現がある。味は隠していた方がよけい美味しい。
 「真似したければ勝手に真似しな、私は教えないよ」、そんな農家の台所の風景が浮かんでくる。それでみんなが必死で真似しだした。ミソはもともと各家庭でつくっていたものである。でも本当に全く教えなければ、真似もできない。

 「ある程度までは教える。しかしそれ以上は自分でやるしかないんだ」
 一から十まで自己責任を子供に押しつけようとする今の自己責任論と違って、何と親切で、何とオシャレで、その一方で何と厳しい自己責任論ではないか。



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