18.「ゆとり教育から子供をどう守るか」 と 「甘えの成熟」

(和田秀樹 著)

2002.6.8

   著者の和田秀樹(以下敬称略)の「ゆとり教育批判」については、多くの的を得ている部分がある。これについては表題にあげた『ゆとり教育から、子供をどう守るか』という本を、読んでいただければ分かると思う。

 しかしひとつ気になるのはこの本の最後の章で、教育の「市場原理」「競争原理」を主張していることである。本来「市場原理」の導入は「自己責任論」者の得意とするところである。

 しかし、この和田秀樹の場合に注意すべきことは、「市場原理」の導入を生徒に向かって言っているのではなく、学校あるいは教師に向かって言っていることである。そのことは生徒に対しても「自己責任」を要求する一部の学者とは違ったスタンスを和田秀樹が取っているということである。

 学校間への「市場原理」の導入が将来何をもたらすかということに対して、私はまだ明確な判断を持てないでいる。しかしこの本の中で「競争原理」が生徒に対して向けられているものでないことは、ここではっきりと一部の学者との違いを確認しておいたほうがよい。

 生徒に対する「自己責任論」の考え方は宮台真司(以下敬称略)をはじめとする学者たちの得意とするところであり、それは「性の自己決定権」という形で象徴的に表れている。
 文部科学省の教育改革も残念ながら、それに沿うような形で進められている。授業選択制の導入や、単位制高校の導入、あるいは週五日制など授業時数が減少していくにもかかわらず「自ら学ぶ」総合学習という科目を新たに新設することに、その危うさは象徴的に現れている。

 この「自己責任」という考え方について、「甘えの成熟」のなかで和田秀樹は次のように言っている。

「自立しろ、人に頼るな。能力の有無は自己責任だという考え方は、もはやグローバルスタンダードなのだから仕方がないし、日本もそうあるべきだというのが、多くの国民の理解なのだろう。
 しかし、果たしてそうだろうか。
 少なくとも私が専門とする精神分析の世界では自立を人間の精神的発達の目標に置くことはすでに時代遅れになってきている」

 また和田はこの「甘えの成熟」の書き出しで日本の現状を次のように批判している。

 「(今の日本では)個人は企業に依存することはもはや許されないとされつつ、終身雇用は無能サラリーマンの甘い夢か、単なる甘えのようにみなされる。労働組合が助けてくれる、会社が最後まで面倒を見てくれるというのは、甘えそのものなのである。
 さらにいうと雇われるよりも、自立して起業家の道を歩むことが望まれるようになった。会社に頼らず、企業家精神を持つ自立した社会人が、これからの時代の社会人モデルであり、寄らば大樹の陰のような考え方をもつ大企業志向、安定志向を持つ人間は、これからの時代、多少能力があっても、望まれない人間、甘えた人間とみなされる。
 もちろん経営者についても人頼りは許されない。合議制の経営より、GEO、CEO型の最高経営責任者による迅速な経営判断が求められつつ、これまたみんなで相談してという形の責任の分散が許されなくなりつつある。
 さらにいうと、株式の持ち合いのような形の、企業同士の助け合いも、相互もたれあいの名のもとに断罪される。あるいは倒産しそうになっても、銀行が面倒を見てくれるというのは企業の甘えと見なされ、債務超過の会社は、一時でも資金がショートした途端に容赦なく倒産の憂き目を見る」

 和田はこのような日本の現状に疑問を持っているのであって、決して肯定して書いているのではない。
 彼はこのような、他人を頼らない独立自尊型の人間類型が、もはやアメリカでは行き詰まりつつあることを主張しているのである。

 そこで注目されるのが、「甘え」という言葉であるが、この言葉は、「甘え」理論として有名な心理学者の土居健郎の用いる「甘え」である。

 和田秀樹はこの「甘えの成熟」という本の目的として、次のように述べている。

「日本人や日本社会が本来持っていた成熟した甘えをいかに取り戻し、その甘えのための最大の武器になる共感能力をどう身につけていくか、そして日本の個人と日本社会が甘えによってこの難局をどう乗り切るべきかを考えてみたい」

そして同書の終わりのほうでは、次のように述べている。

「人類の歴史という抽象のレベルに引き上げて観察すると、弱肉強食で一人勝ちをめざして、他者を蹴落とすより、共存、すなわち助け合う相互依存の本能が、より強く基本的プログラムとして人間に組み込まれている」

 私はこの「甘えの成熟」という本で主張されていることには大いに共感できるのであるが、気になるのは、その同じ著者が教育論になると、別の本、例えば「ゆとり教育から子供をどう守るか」という本の中では、「市場原理」の導入や「競争原理」の導入を主張していることである。

 この矛盾について、「甘えの成熟」のあとがきで、和田は次のように述べている。

「私が今、依存の成熟や共感の大切さを説くのは、昔の私を知っている人間から見ると偽善そのものだろう。しかし私はその後、例えば留学中の精神分析や、多くの人との出会いを通じて、性格が変わったとしかいいようがない。つまり、私の人生は甘えられない状態、自立を絶対視する状態から一生涯をかけて脱却してきた歴史であり、依存を未熟なものから成熟なものにしてきた歴史である。そして、それは現在も進行形である」

 「ただ一方で、私は市場原理や競争原理に関しては、どちらかというとラディカルなシンパである。大学教授になると勉強しなくなるのは、定年まで身分が保証されているからだとか、官僚システムは、競争原理、市場原理が働かないから腐るとか。日本の医学が、そして医療が発達しないのは市場原理や情報の公開が働いていないからと批判し続けている。これは矛盾ではないかと、(指摘する人もいる)」

 和田本人も、この矛盾を十分自覚しているらしい。しかし、「自己責任論」と、「市場原理」や「競争原理」の導入は、本来同じコインの表と裏の関係にある。一方は必ず他方と結びついている。
 これに対して「甘え」理論というのは、「自己責任論」や「競争原理」だけでは解けない人間の心のあり方を説くものである。しかし、その「甘えの成熟」の大切さを説く一方で、学校に対しては「市場原理」の導入を主張するというスタンスには、論理上の整合性にやはり矛盾を感じざるを得ない。

 一つの救いは、著者の和田自身がその矛盾を矛盾として自覚していることであり、そのことを本のあとがきで本人自身述べていることである。このような本の書き方に私は親しみを覚えるし、人間としての信頼感を持つことはできる。

 世の中には、矛盾を矛盾として自覚していない学者や、故意にそれを隠そうとする学者がいるものだが、和田秀樹の場合にはそのような姿勢は感じられない。

 宮台真司と和田秀樹の違いはそこらへんにあるのだと思う。

 ただ学校が少子化によって競争の時代に入ってきたということと、学校が本来競争すべきものであるとする考え方とは別のものである。学校は私企業に比べ公共性の高いものである。良い学校のノウハウは学校訪問などによって他の学校に常に取り入れられ、教える側も時間の余裕さえあれば、それを拒むということはない。ある学校で生徒の指導がうまくいった実例は常に公共の場で発表され、門外不出の秘密事項とされることはない。

 和田の主張するように、企業同士の助け合いがもっと尊重されるべきだとすれば、学校同士の助け合いはそれ以上に尊重されるべきである。私立の学校にしても利潤追求が学校本来の目的ではない。利潤が出なければ私立学校が成り立たないことと、私立学校が利潤追求を最優先の目的とすることは別の問題である。
 本来、経済活動のルールであるべき「市場原理」「競争原理」の学校への導入が、学校本来の目的を蝕んでいくことにならないという保証はどこにもない。
 経済活動と教育活動の違いがどこにあるかということをしっかりと議論していかなくては、何か恐ろしいことが起こるのではないかという気がして不安でならない。

ただ和田秀樹が、生徒に対してまで「市場原理」の導入や「自己責任論」を主張しているのでないことは、宮台真司との決定的な違いとして強調しておきたいことである。



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