11.「宮台真司」批判2

   利己的動機づけだけでよいか

2002

   宮台真司(以下敬称略)は次のように言っている。

 「すべての社会運動は利己的です。たんに楽しいからやっている。たしかに他人のためになるかもしれないが、他人のためになるのが楽しいという利己的な動機でやっている。…。しかし、それでいいのです。利他を求めるのも利己を求めるのも横並びで、一概にどちらが上とは言えない」。(「戦争論・妄想論」16ページ)

 しかし、人間が利己のためばかりではなく他人の利益のためにも情熱を注ぐことができるということから、自分のための利益追求と公共のための利益追求とが調和できるのである。

 このような他人のために情熱を注ぐという人間の内的欲求は、たんに自分のためだけに情熱を注ぐという欲求よりもはるかに高次元のものである。

 私は剣道部の生徒に対して次のようなことを良く言う。

 『剣道をやっている以上、
 自分が強くなることは、大切なことだ。
 しかし自分が強くなった分をどこに返すかということは、もっと大切なことだ。

 しかし誤解しないで欲しいのは、それを「恩義を感じて、絶対に剣道部に返せ」ということだと受け取ると、非常に卑しくなる。そんなことを言っているのではない。
 人は自分が強くなることだけを考えていると、限界にぶち当たったとき自分が壊れてしまう。その限界とは、人は自分のことだけ考えていると、慢心によって、少し強くなっただけで鼻高々になってしまうことだ。
 そうではなくて、自分が強くなった分は必ずどこかで返さなければならないと思って努力することが、自分がさらに伸びていくことにつながるのである。そのことによって、さらに高いところに登れるのである。
 自分が強くなることだけ考えていれば、かえって人は焦ってしまう。
 自分が努力するのは、最高の自分を作り上げて、いずれそれをどこかで返すためだ。そう考えれば、腰を据えて本気で取り組むこともできる。そういうことのために頑張れば、高校での3年間は自分だけの3年間よりも、何十倍も価値のある3年になる。そういう価値あるもののためだから、頑張れるのである。
 人の生き方は、人それぞれである。どこで何を返すか。
 剣道のためだけに剣道してきたのではない。剣道で自分が強くなった分をどこに返すかは、君たちの生き方しだいでどこまでも広がる可能性を持っている。』



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