109.競争社会と自己決定
 

2004.2.8
  



『神の教えに従えば世の中は安定する。
なぜなら世の中は神が造ったものだからだ。われわれはその教えに従うだけだ。』

そう考えるところからヨーロッパキリスト教社会の禁欲は成立する。

そしてそのような信仰を持つかどうかは、本来自己決定によって決められるものであった。
しかし信仰を持っても、すべての人間が神の戒律を守れるわけではない。
守れない人間は救われることができない。
それはそれで仕方のないことで、誰もそのことを同情しない。それが自己責任である。

『では、自分は救われるのか』
というと、人間誰しも心の中にはやましいものを持っていて、
本当に自分が神に救われる人間だという確信を持つことは難しい。

では何によって自分が救われるという確信を持つことができるのかというと、
何か具体的な証拠が必要になる。
それが勤勉に働いた結果としての富の蓄積である。

そういうふうにして富の蓄積は自己の救済を証明するものとして社会的に是認されることとなった。
人と競争しそれに打ち勝ち、富の蓄積に成功することは神の救済の証として、賞賛されることになる。
そしてそれは神の望むことだから、そのようなルールによってすべての人間が働けば、この世の中はますます安定する。
富の蓄積を通じて、個人の救済と社会の安定の両方が、ともに達成されるという便利な思想がここに誕生する。

一方では、禁欲が奨励され、神の伝えた道徳観(戒律)を守ることが要求され、人に打ち勝つ強い意志が尊重され、競争が容認される。
これが市場原理主義である。

新保守主義(新自由主義)が自己利益容認の弱肉強食主義を取りながら、同時に強い道徳観を伴っていて、それでいて矛盾を感じないのはこうした理由からである。



しかしこれを日本に当てはめるとどうなのか。

日本は古代社会はともかく、鎌倉新仏教成立以後の中世社会以降のここ1000年来は、ヨーロッパ的な個人の自己決定などというものはなかった。
鎌倉新仏教の教祖たちが共通して目指したものは『自己の救済』ではなく、『庶民の救済』である。

そこには、
『一人だけ救われても何にもならない、すべての者が救われなければならない』
という大乗仏教以来の思想的伝統がある。
そこから『利他の精神』が生まれ、
他者によって自らも生かされていることに気づくという、
他力本願の考え方も生まれてくる。
そこに日本的な道徳基盤があったのである。

そのような道徳基盤の中から、他者のことを優先し自らのことを後回しにするという克己的禁欲が発生する。
近江商人の商人道とはそういうものであった。
彼らは財を蓄積し江戸で大棚としての名声を博しても、決して華美に振る舞わず、一汁一菜、木綿の羽織という生活スタイルを崩さなかった。

そして
『富は社会に還元してこそ富である。皆さんのおかげでここまでなれたのだから、皆さんのために商売を広げてお役に立ちたい』
という姿勢を崩さなかった。

ヨーロッパキリスト教社会では、神の保護を受けているから富の蓄積によって神への奉仕をしていくという思想が脈々と流れている。(主のものは主へ)
日本の場合には、他者の保護を受けているから自分の稼いだ富もいずれ社会という他者に返していくという思想が流れている。
そこには確かに保護に対する奉仕の関係(借りたものは返すという関係)として共通するものがある。



しかし大きく違うものは、前者が神と人の関係であるのに対し、後者は人と人の関係であるということである。

自己決定というのは本来神と人の関係の中で発生する宗教的な関係である。
そしてその神はキリスト教のような一神教であることが条件である。

それに対し人と人の関係の中に人生の本質を読みとろうとする日本のような社会の中では、ヨーロッパ的な自己決定の考え方は成立しえない。
もしあるとするなら、その自己決定はわがままと称されるものになる。このわがままをもって社会ルールとし、社会の安定を図ろうとするのは、無謀というものである。

ヨーロッパの権利というのは、このような神と人との一対一の関係に置いて保障され、その条件の中で人間に生得的に与えられた自然権として発生した。

しかし日本では神によって社会の安定が保障されるという思想も、国の安定が保障されるという思想もない。

だから社会を安定させているのは一人一人の人間であって、国を安定させているのも一人一人の人間であるという考え方が当たり前のこととして受け入れられてきた。
逆に自分一人だけの利益をはかる者は、他の不利益を生むものとして社会的に戒められてきた。

日本人にとって権利とは、他者の生活の安定にとっても有益であるという条件の下に成立するものであって、
それは自分も他者からのいろいろな面での支えや保護を受けているという前提があって、
その相互作用の中で成立していたものであった。
社会的な責任を果たし、社会的な義務を果たしているから、
社会的な権利も主張できるという構造があったのである。

他者からの恩恵をこうむり、他者からの保護を受けているから、
その保護を受けた分は社会的責任として他者に返さなければならないという合意があり、
それを成し得た上で、他者からの信頼を勝ち得た者に社会的な権利が与えられたのである。

普通、自己責任を果たした者には自己決定権を行使するだけの力が備わっているが、
逆は真ならずで、自己決定をした者に自己責任能力が備わっているとは限らない。
その不足している部分を誰が補うかというと、神が補うのではなく、
社会全体や行政全体が補わなければならないとしているのが、
今の日本で行われようとしている自己決定論の不思議なところである。

自己決定には必ず自己責任が伴わなければならないにもかかわらずである。

そんな都合の良い社会はいつの時代もなかったのであって、
それでいて社会が維持されると考えるのは、非常に危機管理の甘い社会である。
社会の治安は必ず今以上に悪くなる。

日本では神によって社会の安定が保障されるという思想も、国の安定が保障されるという思想もないが、
人々の努力が忘れられ、なおかつ各個人に自己決定権を認めることによって、ますます良い社会が築けるという思想自体が、
思想的論理構造を無視した思想なのである。

人を人として育て上げていくという思想を放棄した上で、生得的に人の自己決定権だけが発生することなどいつの時代にもなかったのである。
日本は人は人から育てられる以外には方法はなく、
それ以外に頼るべきいかなる一神教的戒律も道徳観もない。道徳は神から与えられるものではなく、人から受け継ぐものである。
それがなければ社会的禁欲さえも育たない。
人のものを盗って「だって欲しかったんだもん」という子供さえ、制止できないことになる。

人からも育てられず、神の教えもない日本で、強い道徳心が育つわけはない。

『自己決定権』・『個性尊重』、
『競争原理の導入』、
『習熟度別クラス編成』・『エリート教育』など、
現在の教育改革が失敗の一途をたどり、
子供たちの人間関係を自ら政府が切り崩している今日、
そのような論理との整合性を全く持たない道徳教育がいくら導入されても、
社会的な保護も義務も責任も知らされない今の子供たちの心に届くはずはなく、
みんなが白けた中で道徳的退廃が待っているだけなのである。

思いっきり非常識な子供が多発し、力のある子はクラスを牛耳るか、力のない子はクラスから外されるかのどちらかなのである。
どちらにしても教師のクラス運営は困難を極めるのである。

文科省が、
道徳というものの出所を文化的に解明し社会全体の相互作用の中で捉えようとはせず、
単に道徳が政治的強制によって維持されうるなどという、
今の子供たちの生活実態を無視した、ヨーロッパの猿まねだけのバカげたことを考えているから、
このような愚作に陥るのである。





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