106.青色発光ダイオード(LED)訴訟に思う
 

2004.2.1
  


 青色発光ダイオードの開発に寄与したとして、200億円の支払い命令を裁判で勝ち取った中村修二氏は、判決後の記者会見でこう言っている。

「技術者もメジャーリーガーのように実力次第で何億円も稼げることを日本の若い人たちに示したい」
「発明を私は独力で全部やった」
「小・中学生はすごい夢を持てる」
「(日本の研究者へは)裁判に負けたらアメリカに行けといいたかった」
「研究者はいい発明をしようという気持ちになるし、会社の利益も上がる。両方に良いことなんですよ」

 非常に強気の発言である。
 まず私が疑問に思うのは、ここまで強気の発言をするのなら、この人は青色発光ダイオードの発明をする前に、なぜ会社を辞めなかったのかということである。ベンチャー企業を設立して独立し、今までの研究開発をしていれば、ここまでこじれることはなかったのに、と思うのだ。

 「メジャーリーガーのように」とはいいながら、この人はメジャーリーガーのような厳しい一年契約の食うか食われるかの社会の中で開発を手がけてはいない。本人はちゃっかりと日亜化学工業の社員という枠の中に納まっているなかでの研究開発を進めている。
 そういうのを「独力」の開発というのだろうか。独力というのはベンチャー企業のような企業を自ら興し、自らの才覚だけで開発を手がけることなのではないだろうか。

 中村修二氏は「会社が研究開発の中止を求める中、独自に開発を進めた」(読売新聞社説)ことをもって、「発明を私は独力で全部やった」と主張しているようであるが、その場合の実験施設や材料はすべて自分の実費でまかなったのであろうか。会社の研究施設の利用はなかったのか。
 しかも会社の中で会社の求めていないことを勝手にやれば、普通は解雇される。それでも解雇されなかったのは、日本独自の企業的温情があったからではないのか。これはアメリカやヨーロッパのような契約社会では考えられないことである。

 さらに「会社が研究開発の中止を求める中、独自に開発を進めた」とすれば、そのことへの負担は周囲の職場の同僚にも及んでいたはずである。だとすれば、「独自の開発」を進めることができたのは、職場の同僚たちのある種の犠牲の上に成り立っていたのではないのか。犠牲でなければ迷惑の上に成り立っていたのではなかったのか。この発明が日の目を見たのは、そのような口には出せない職場の同僚たちの配慮によるものではなかったのか。

 そのようなある面で特殊な日本の企業風土の上にたって、この中村式「企業内個人の独自開発」は行われてきたのではないのかという、深い疑念を私には抱かせる。

 そのように考えれば、この発明は日本独特の企業風土の生み出した発明だとも言えるのであり、そのことを忘れたかのように「(日本の研究者へは)裁判に負けたらアメリカに行けといいたかった」という中村修二氏の発言には首をかしげるものがある。

 さらに「小・中学生はすごい夢を持てる」という言葉には、私は教師として深い疑問を抱かざるをえない。この発明は中村氏自ら「世界的に見ても100年に1度の特許だと思う」と言っているように、1000人の技術者がいたら発明者の1人を除いた残り999人には、手の届かないものなのである。
 そのような999人の生徒が「メジャーリーガーのような」1年契約の能力主義の中で研究開発を行えば、どうなるか。彼らは精神的にも肉体的にも耐えられなくなり、職場のチームワークどころではなくなるだろう。そのような中に小・中学生を投げ込んで、「小・中学生はすごい夢を持てる」はないだろうと思う。
 そうなれば「研究者はいい発明をしようという気持ちになるし、会社の利益も上がる。両方に良いことなんですよ」、などとんでもないことである。



 日本の特許法は確かに、「社員による職務上の発明を譲渡された場合、企業は、社員に相当の対価を支払うよう」定めている。私はアメリカ社会ではもっと徹底した技術者の権利補償が法律で明文化されている思っていた。
 ところが意に反して、アメリカの特許法には発明に対する規定がないのである。アメリカでは「研究者と会社との雇用契約で、発明に対する会社と研究者の義務と権利が細かく定められている。契約の内容は本人と会社以外には秘密だ」(毎日新聞社説)。
つまり特許権というのはアメリカでは個人契約の中で発生するものなのである。

 このような契約が大学を卒業したばかりの日本の新卒の技術者にできるだろうか。
 私は日本の特許法が、「社員による職務上の発明を譲渡された場合、企業は、社員に相当の対価を支払うよう」定めていることは、契約社会ではない日本社会の中で、企業側からの技術者側に対する保護規定だと思う。だからアメリカのような契約社会ではそのような規定がないのだと思う。アメリカは契約社会だから個人個人の責任で企業と自分の実力に見合った契約を結ぶことができる。しかし日本にはそのような風土がない。だから技術者の特許権を保障するために、国家が法律の形で技術者を保護しているのだと思う。

 しかしその保護の観念を忘れて技術者が自らの権利を自己主張すればどうなるか。それが今回の「米国にも例がないような超高額補償の判決」なのである。

 そこで政府は今多発しつつある「職務発明」の訴訟に対応するため特許法改正に乗り出している。その改正の方向は、「企業と社員が特許の対価について合理的に話し合い、あらかじめ契約を結ぶよう定めた項目を盛り込む」(読売新聞社説)というものである。この改正は、中村修二氏の好きなアメリカ流への改正であり、さらに中村氏の好きなメジャーリーグ流契約社会への改正であるはずである。

 中村修二氏の発言を読んで、「この人は問題の本質が分かっていないのではないか」と私が思うのは、彼は「(日本の研究者へは)裁判に負けたらアメリカに行けといいたかった」と言っているにもかかわらず、政府の特許法改正の動きに対しては「大きな間違いだ」と反対していることである。

 彼は、日亜化学工業社員として保護を受けた上で自らの権利を主張することを当然と思い、日本人として国の保護を受けたまま権利の主張を行うことを当然と思っている。そしてそのことに一片の疑問も持っていないのである。しかしそのことへの疑問の欠如は、彼の好きなアメリカ的発想でもなければ、彼の理想とするメジャーリーグ的発想でもないのである。そのことが忘れられている。

 彼のようにアメリカ社会を礼賛する立場を取れば、日本政府の特許法改正案は自分の意見に添うものとして賛成しなければならないはずである。自らの研究者としての権利の主張が特許法改正の推進役になっているにもかかわらず、本人にその自覚がないのであるから、どうしようもない。こういう人物が一番困るのである。私は中村氏に対する200億円支払いの対価として、政府による特許法の改正が行われることは理屈としては筋が通っていると思う。(べつに賛成しているわけではない)

 その結果、中村氏に続こうとする多くの技術者は、欧米流の契約社会の中で自らの能力を試されるという能力主義のもと、肉体的にも精神的にも孤独な戦いを強いられ、政府は政府で欧米流の契約社会にモデルとして、技術者の保護を打ち切ろうという政策をはっきりと打ち出すようになる。
つまりこの訴訟により多くの技術者は孤立に追い込まれ、得をするのは声高に自分の権利を主張している中村氏ただ1人なのである。



 東京地裁の三村量一裁判長は、日亜化学工業という企業側が日本の経営システムが欧米と違って終身雇用制を取っていると主張していることに対して冷淡であった。それは現在、多くの企業がリストラという経営手法を使って企業存続をはかっているという事実からすれば、あまりにもかけ離れた主張に見えたからであろう。実際、日亜化学工業は増員こそすれ、リストラは行っていないのであるから、その主張には十分正当性があると思うが、日本全体の企業社会を見てみれば、リストラが横行する今日、日本は終身雇用制だといっても確かに説得力がない。裁判長はこの判決が判例として使われることも十分念頭に置いているはずである。そういう意味では企業側も自業自得である。リストラをしておいて、都合が悪くなれば終身雇用制を持ち出すというのは、日本全体の流れとしてはやはり矛盾している。
しかし私はそういう現状を追認したいがためにそのような指摘をしているわけではない。

 問題は、そのようなリストラ社会では、早かれ遅かれ、中村修二氏のような個人主義的能力主義者は出てこざるをえないということであり、それに対しては中村氏の主張を認めざるをえなくなるということなのだ。つまり日本の企業社会は、リストラを推進し従来の終身雇用制の中で維持されてきた自社従業員に対する責任を放棄することにより、その対価として、そのような人物の出現を防ぐ土壌を、いつの間にか失ってしまったということなのである。問題の本質はそこにある。リストラという大義名分の落とし穴はそういうところにある。

 その結果、中村氏だけが得をして、技術者も企業も自己主張をせざるをえないという、日本の企業文化を破壊する泥沼の社会が、この後に続くはずである。

 そしてそれは、日本社会の崩壊をもたらす小泉改革の目指すところと、不思議に一致しているのである。つまり小泉純一郎という大衆政治家の思うつぼなのである。




Click Here!教育の崩壊