105.人権教育と就職試験の複数応募制
 

2004.1.31
  


人権教育では就職試験で本人の責任でないものは問わないことになっている。本人に関係のない個人の属性は一切問わないことになっている。つまり本人の能力だけが問われるべきだという考え方によって、就職面での人権教育は成り立っている。本人の能力だけによって争われることであり、本人第一の能力主義の考え方である。

ところが最近奇妙な現象が起こりつつある。

本年度から高校生にも就職試験を複数応募で受けられるようになった。今まで一人一社に限定されていたものが、同時に複数社受けられるようになったのである。そのことは能力主義という観点に立てば(私の意見とは別に)、喜ばしいことであるはずである。

しかし上記のような人権教育に賛同的な教師に限って、この就職試験の複数応募制には反対なのである。
理由を尋ねてみると、能力のある生徒は一人で複数の合格通知を勝ち取り、逆に能力のない生徒はますます不合格になる可能性が高まるというのである。

私は人権教育の是非をいいたいのでも、複数応募の是非をいいたいのでもない。
その前に彼ら人権教育を推進していく教師たちの考え方が矛盾していることを指摘したいのである。しかも彼らは自分たちが矛盾していることにまだ気づいていない。

本人の責任のおよばないことは違反質問とし、それらの質問を防ごうとするのであれば、当然個人の能力だけが問題にされるようになり、個人が個人の能力によって自らの進路を開拓していくことは奨励されるべきことになるはずである。就職試験の複数応募制というのはそういう意味では彼らの主張する個人の能力第一主義と歩調を合わせるものになるはずである。

しかし彼らは複数応募制に渋い顔をする。

つまり彼らは個人の能力主義を推進する一方で、その能力主義にブレーキをかけようとしている。しかもこんな矛盾することをさも当然の如くに主張する傾向がある。能力主義を推進する立場に自分たちが立っていることを、推進している本人が無自覚なのである。

「自分たちはそんなつもりで人権教育を行ってきたのではない」と彼らはいうかも知れない。

しかし論理というのは非情なもので、彼らが自覚するとしないとにかかわらず、論理のレールさえ敷かれれば、独りでに終着駅にまで行ってしまうものなのである。

そのことを今気づいたのだとすれば、不明という以外にはない。




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