LDをもつ子供のホームスクール


                                                               

LD(学習障害)を持つ我が子をホームスクールで育て始めて1年半。
ホームスクールを知れば知るほど、個別の教育ニーズを必要とするLDを持つ子供たちにとって、このホームスクールが大切な選択肢の一つであると痛感し、この度ホームページを立ち上げる事といたしました。学校で満足のいく教育を受けていると実感できる親と子には必要ない概念でしょう。
しかし、もしLDをもつ子供とその親が学校に上手く適応できずにとても苦しんでいるとしたら、どうぞこのページを読んでみてください。
親の価値観が変わった時、親も子も、今までの苦労と苦しみが嘘のように消え、明るく楽しい日々が戻ってくる事と確信しています。
なぜなら、我が家も嘗てそうだったのですから・・・


                
INDEX

まるLDとは?

まるホームスクールとは?

まる我が子のプロフィール

まるなぜホームスクールを選択したか?

まるホームスクールで現在やっている事

まるLD児にとって学校とホームスクールの違いとメリット

まる関連サイトのリンク集

まる関連書籍








まるLDとは?

このページをご覧になっている方はもうLDという障害についてご存知の事と思いますので、ここでは簡単に説明します。
脳のある部分にちょっとした機能障害があり、読む・書く・計算・推論するといった特定のことだけが上手くいかなかったり、あるいは全身の協応運動や微細運動がぎこちなく、その結果として、社会性が育ちにくかったりという事も出てきます。
見た目には障害を持っている事がわからないため、変な子・できの悪い子・鈍い子・協調性のない子・やる気のない子・だらしない子など、様々な周囲の偏見にさらされてしまいやすく、いじめの対象にもなり易いと言われています。
本人は一生懸命やっても何故皆の様にできないのか理解できず、その上その事を理解していない周囲から叱られてばかりでは、何事に対してもやる気を失い、自己不全に陥っても無理はありません。

まる




まるホームスクールとは?

子供の教育を学校任せにせず、家庭が責任を持って地域の中で子供を育てること。日本ではまだ制度化されていませんが、アメリカ・ヨーロッパ・台湾など世界中の国で認められている制度です。アメリカでは、現在200万人を超える子供が学校へ行かずにホームスクールで育っていて、その数は世界中で増加の傾向に有ります。
日本でも不登校対策として退職教員を自宅に派遣したり、少しずつ在宅教育という事に世の中が目を向け始めているように感じます。

ホームスクールをやっている家庭では、全ての時間が子供にとっての学びの時間と考えています。
幼稚園に行かせる前などを思い出してください。
生まれたばかりの赤ちゃんが、言葉を覚え、周り中の物に興味を示し、凄まじい勢いでいろいろな事を学び吸収して行く過程をどの親も皆経験しているはずです。
あの延長線上にホームスクールが在ると私は考えています。
算数や国語などの教科学習などだけでなく、親が子供にとって必要だと思うあらゆる事をゆっくりと時間をかけて教えられるという特長が有ります。
そこには、学校で教える事全てを教えなければならないという制約もなく、生きて行く上で我が子にとってはもっと大切だと思う事を親が考え選んで教えていけば良いという自由があります。
さらにその事によって親同士・親子・子供同士と必然的に家族全員の会話も増え、家族の絆も深まり、家庭そのものも家族全員にとってより温かく居心地のよいものになると思われます。


ばっく




まる我が子のプロフィール

さてここで、ここの先に出てくる我が家の選択を理解していただくためにも、我が息子の状態にざっと触れておく必要が出てきます。
小さい時から体の動きそのものがとてもぎこちなく、何かあるに違いないと親は感じておりました。正式にLDと診断を受けたのは幼稚園の年長時で、非言語性LDとの事でした。
それだけでは少しわかりにくいでしょうから、もう少し彼の特徴を以下に列挙します。

*視覚認知・空間認知が悪い・・・つまり、見たものが一般の人たちの様には感じられないらしく、日常的に目で見て確認するという習慣が自然には身に付かない。
*全身の協応運動・微細運動共に悪く、何をするのもぎこちなく不器用である。
*以上2点から派生して、支障をきたしていると思われる事。
 文字のバランスが著しく悪い。
 道具の管理や整理ができない。
 絵が描けない。
 紙や他のものが畳めない。
 身支度をきちんと整えられない。
 食事を食べこぼす。
 整列できない。
 見たものをまねして体で表現できない。
 支持手(左手)をあまり使わない
 歩く事や行動がゆっくりである
 また、小さい頃より同年齢の子供同士の体を使った遊びの中には入れず(おにごっこ・野球・サッカーなど)、おのずから興味の対象が同年齢の子供たちとはかけ離れ、友達ができにくい。

などが挙げられます。
指先や足をもぞもぞ動かしているのはADHDが入っているためですが、協応運動の悪さのせいか、ハイパーアクティブな印象は全く受けません。
攻撃性や衝動性は全く見られませんでしたが、ここ1〜2年、例えば「1-0.43は?」などと口頭で聞くと、「0.67。違う0.57だ。」という具合に、考える前に即答してしまい、すぐに訂正するパターンがよく見られ、これは衝動性の現われかもしれないと密かに思っています。
喜怒哀楽の怒の部分が全く彼の中には存在せず、全体の印象としては穏やかな人柄といった感じを受けます。

最後に、IQ自体は取り立てて高くもなく低くもないのですが、WISCなどの結果では動作性IQと言語性IQの差が30もあり、かなりでこぼこの大きいLDだと言っていいと思います。

ばっく





まるなぜホームスクールを選択したか?

まず認知に偏りのある息子には、講義方式の一斉授業では内容が頭に入りにくいという事があります。
漢字を例に挙げると、黒板に先生が書いて見せ「さあ、ノートに練習しましょう」などと言われても、本人はどこからどう書いていいのか全くわかりません。
当時、漢字の練習は家庭で毎日「横・横・ノ・縦」なんて、耳から入れて教えていましたが、つまりこの漢字の例一つとって見ても、彼独自の学び方が学校ではできず、家庭で平行してダブルに勉強するという方法になり、オーバーワークになっていました。

学校には当然評価が付きまとうのですが、字が上手く書けない、絵や図が上手く描けない、運動機能が悪い・・というのは、その学校的価値観の中では致命的と思われました。
「字が汚くて読めない。」などとテストやレポート、作品などがハネラレ、本人の努力が認められなかったケースも多々あり、「このままでは、自己不全に陥り、無気力になってしまうのでは?」と親に恐怖心が芽生えました。
家庭では色々な紙切れに詩や散文を書き散らしたり、パソコンで自由に文を作ったりしていましたし、親もバランスの悪い字を全く気にせず伸び伸びと自己表現できるように・・と考えていましたので、教師や周りの子供の口によって、それが阻害されては困ると考えました。

学校には当然の事ながらカリキュラムが存在しますが、このカリキュラム自体が息子の興味と随分違う物でした。
「社会」などにおいても、息子はほって置けば歴史の本ばかり読んでいるのですが、当時の学校では浄水場の施設の名前を覚えたり・・・私だって、浄水場の事より歴史の本が読みたいくらいです。
息子は学校の「社会」という教科に殆ど興味を示しませんでしたが、興味の無い授業を受けるために一日の大半の時間を使い、興味のある歴史の本などを読む時間があまり取れないなんておかしいと思っていました。

子供たちは、特に小さい内は目で見たものだけで価値観を形成すると思いますが、学校の場に於いて見える彼の部分は不器用な、下手くそな部分が多く、教師が余程配慮しない限り、子供たちの中で彼に対する低い評価が定着し、それが彼の低い自己評価に繋がってしまうのでは?という懸念が在りました。

世の中にも学校にも大分LDという言葉は浸透してきましたが、その実態像や彼らの困難さをどれだけの人が分かっているかというと大いに疑問を感じます。LDと言っても、その状態像は実に様々ですので、たとえ教師が本を読んで勉強し、その障害の概略を知ったとしても、出会ったLD児一人一人に対する援助は全く違ったものにならざるを得ないのです。
一人の子供にそれだけの手間と暇をかけるゆとりのある先生が、今の学校の中にどれだけいるのでしょうか?
それでも、大変な熱意と愛情を持って、こういう子供たちに接していらっしゃる先生方を知っています。
しかし、如何せん、数が少な過ぎると言わざるを得ませんでした。

学校という同年齢を集めた集団の中では、一人の教師が40人近い生徒を教えなくてはいけませんから、そこには当然「このくらいなら、この年齢の子供の大半ができるはずだ。」という基準が存在します。
それは教科だけではなく、集団での行動から社会性、精神年齢の発達に至るまで、全ての面で基準がある様に感じました。
その「できて当たり前」という基準は、成長に極端な凸凹のあるLDを持つ息子にとってはなかなか苦しいことだったと思います。

学校を辞めようと決めた時、息子の言った言葉に、「1時間が45分の授業って、僕には短過ぎるんだよね。」というのが有ります。
準備や始末に時間がかかるからといったような事もあるでしょうが、時間の流れや集中力にも独自のものを持つ息子にとって、熱中していてもう少し続けたいと思うような事も、バツンとそこで終わりにされてしまうのは物足りなさが残ったのかもしれません。

サリ・ソルデン著の「片付けられない女たち」という、ADHDを知らずに大人になり自己不全に陥り自己評価の低さが定着してしまった人の書いた本を読みました。
自己不全感、つまり「自分はダメな人間だ」と一度心に刻み込んでしまったら、そこから抜け出すのは凄まじいまでの努力と意思と時間が必要であったと書いてある文章に衝撃を受けました。
学校という一定の価値観の中で、思うように自分の可能性が見出せない環境にこのままずっと置き続けたら、息子はきっと活き活きと学ぶ事を辞めてしまうに違いない。
自己不全感に捕らわれてしまってからでは遅すぎる。
今ならまだ間に合う、といった気持ちで学校に行かせるのを辞めました。

教師が忙しすぎて、子供の気持ちまで考えるゆとりがないケースが多い。
更に、忙しさだけでなく、子供の気持ちが理解できないような教師、あるいは子供の胸のうちを覗き込もうとする姿勢すらない教師もいるように思えました。
子供といえども一人の尊厳を持った人間ということを忘れ、各家庭における大切な宝のような存在を預かっているという自覚の無い教師が結構多いという感を持ち、自分自身が尊敬できないような人間にはとても大切な子供を預けられないという思いが次第に強くなっていったのです。

入学させた当時から学習の面はうちで見ようと思っていましたが、社会性を身につけさせるためには集団の中へ入れる必要があると考えていました。
しかし何年か学校へ通わせるうちに、なんの配慮も無い集団にただ入れておくだけでは社会性など身に付かないということがわかってきました。
今の学校は授業中しか教師が教室におらず、休み時間など低学年のうちから大人の目が届かない状態です。
社会性を息子がゆっくりと学ぶためには、彼に合った集団を見つけ、その中で丁寧に教えて行く方がずっと彼のためになると判断しました。

おしなべて、そこそこなんでもできるような人間に育てようという気持ちが、親である自分に全く無くなってしまいました。
凸凹が有って、ちょっとそこらに居ないユニークな人間、それこそ彼が本来持って生まれたキャラクターなのです。
平凡な人間に・・なんて矯正する必要は無いと心底思っています。
だって私自身、何の変哲も無い自分自身より、ユニークな彼の方がずっと魅力的だと感じているのですから。

これらの思いで日常的にジレンマを抱いていたところへ、ホームスクールという育て方があると知り、これこそ息子のために有る様なものと飛び上がらんばかりに喜んだというわけです。
私自身学校教育の中で育ってきたので、まさか自ら学校へ行かない、行かせないという道が有るとは思いも付きませんでした。
私にとっては、まさに逆転の発想、目から鱗の落ちる思いでした。
息子の苦労や私の苦しみは、決して彼が人と違った学び方をするということに有るのではなく、学校に行かねばならない、学校の中で学ばせなくてはならないと思い込んでいたところから発生していた事に初めて気付いたのでした。


ばっく

めーる





まるホームスクールで現在やっている事


学校を去り、自由を得た息子は、本当に伸び伸びといろいろな事を学びながら毎日を送っています。そんな中から例をいくつか挙げる事にします。
学校を辞めてから、彼は一度も教科書を開いた事がありません。
興味が無いらしいのです。
けれど、勉強していないわけではありません。
むしろ良くやっているなぁ・・と親が感心するくらいです。

数学は、学校に行っていた時からの習慣も有りますが、なんとなく今も毎日やっています。
でも、1問を1時間も考え続けていたり、時にはパソコンのCD-ROMを使っていたり、算数のサイトを検索して問題を解いていたり・・・いろんな算数に出会っています。
将来算数で食べていくとは親も思っていないので、こんな感じででも算数を続けていれば御の字かな?なんて気楽に考えています。

歴史に関しては凄いとしか言いようがありません。次々に本を読み、NHKの歴史番組を見たり、インターネットで検索したりして、どんどんその知識は広く深くなり、そしてそれは有機的な繋がりを見せ始めています。
「日本人-はるかな旅」なんていう番組もビデオに録画し喜んで見ていました。一緒に見た親は「縄文人なんて裸で獣を追いかけてた」くらいにしか思っていなかったのでその高度な生活にびっくりしていたのですが、息子は実にいろいろな事を知っていて、ところどころ私のために注釈まで加えてくれたのでした。
好きこそものの何とかで、飽きるまで、嫌と言うほど歴史の本を読めばいい!!と思っています。

国語は今は自習で漢字の書き取りなどもやっていますが、大半は自由な読書に依っています。
語源の本だの、ことわざの本、難読漢字の本、言葉の達人の本、漢字の達人の本、俳句の本、現代語訳の古典・・・・数え上げれば限が無いくらい愛読書が有ります。こちらは放っておいても大丈夫かな?なんて思っています。
歴史の本や伝記、音楽の本、外国の文化を紹介するような本、料理の本、クイズの本、裏ワザの本、ものの成り立ちだの性質といった本から宮沢賢治や椋鳩十、夏目漱石・・・といった彼お気に入りの本を寝そべって夢中で読んでるのだって、きっと国語力には大きなプラスになっていくに違いないと思っています。

英語は彼がやりたいと言い出し(彼には、将来いろんな国に行ってみたいという夢が有ります)、毎日欠かさず、基礎英語や始めよう英会話などのCDをかけ、リピートしています。書くことは全くせず、ひたすら耳から・・です。
耳が良く、根気のある息子なので、この方法だと結構覚えていきますので、たまに基礎英語のテキストを元に質問してあげると、スルスルスルーと英語で答えたりします。
当分はこのスタイルでやって、文法的な事はもっと後からきちんとやろうと思っています。
書くほうは、視覚認知の悪さから、スペースが取れず、全ての単語が繋がっているように書くため、あまりやらない方がいいかな?と思っています。
パソコンで入力すれば、ちゃんと単語間にスペースを入れているので、後々は英語の書きの代わりにタイピンクを・・・と思っています。

タイピングといえば・・・息子は書字にハンデが有る為、随分小さい頃からワープロやパソコンを使わせてきましてが、いつまでも手元を見ながらひらがなで入力していてはダメだと思い、11月頃に「特打ちなんとか」というタイピング練習ソフトを買い与えました。
これはゲーム方式なので随分楽しそうに毎日欠かさずやっており、つい先日、久しぶりにやっているところを見たら、あまりの速さに親もびっくりしてしまいました。
聞くと最近はパソコンで自由に何か打つときも、ブラインドタッチのローマ字で入力しているとの事。
大人になった時、字を書く位のスピードで入力出来るようになっていたらいいなぁ・・・なんていう親の目論見だったのですが、嬉しい誤算です。

学校に行っていた頃は、とにかく毎日時間に追われ、こんな事を教えたい、こんな事を練習させたい・・・なんて事が沢山有りながら出来ない事の方が多かった気がします。
例えば一人でバスに乗っていろいろなところに出かけさせるとか、家の仕事の手伝いとか・・・とにかく彼は何かひとつするのにとても時間がかかるので、夕方遅く学校から帰り、習い事に行き、食事や入浴を済ませ勉強するともう寝る時間。というような生活の中で、親に待ってあげるゆとりも時間もありませんでした。
ホームスクールでは時間がたっぷり有りますから、毎日食器洗いやふとんたたみなどの家事の手伝いもやらせられるようになりましたし、バスに乗ったり散歩したり、買い物などにも一人で随分遠くまで行かせる事ができるようにもなりました。
彼に責任を持たせて物事をさせるという試みを、私自身ゆとりを持っていろいろできるというのは、「算数の問題が一問解けるということより、ずっとずっと大切な事だ。」と常日頃思い続けて居たのでとっても嬉しい事なのです。
自分で計画し、自分で行動し、自分で責任を持つ・・・という練習を、これからももっともっとさせたいなぁと考えています。こういう経験を沢山させることは、彼に生きる力を備えさせる事に繋がって行くと信じています。

異年齢の集団に属する機会を意図的に増やしました。
彼は興味の対象が同年齢の子供たちとは随分違っていますし(野球・サッカー・ゲーム・テレビなどはあまり話題に参加できないのです)、精神年齢は幼いし、音楽でも歴史でも自分の話し合いたい話題は年齢の上の人にしか理解してもらえないし・・・
異年齢の集まりだと、 小さい子達と遊んだり、大きい子達に親切にしてもらったり、なんだかとっても居心地が良さそうです。
ホームスクーラーの集まりなどにも積極的に参加したがり、学校に行っていた頃より人間関係がずっと膨らんできた様に思います。

ばっく

めーる




まるLD児にとって学校とホームスクールの違いとメリット

その子供独自の認知傾向に沿った学びのスタイルで学習する事ができます。究極のIEPが組めるわけです。
親ほどその子の特徴を知っている人間は他に居ません。その親が傍でじっくりその子の様子を見ながら、臨機応変に、どういう学び方がその子に一番合っているかを探っていけば、きっとその子に合った学習方法が見つかるはずです。
そうすれば子供はどんどん意欲的に学ぶようになり、学習だけ考えてもメリットは大きいはずと思えます。

学習の時間や時刻も自由にできるので、子供の調子のいい時、その子供のリズムに合わせて時間を設定できるというメリットが有ります。
LDの子供には集中できる時と出来ない時の落差の激しい子が多いと思います。
その子の集中できそうな時に、一番親がやらせたいと思っている事を持って来ればいいのです。

他の子供と成長のペースを合わせる必要がなくなるので、その子だけの成長を見つめ、その成長を心の底から喜べるので、子供も親もとても気持ちが楽になります。
これは本来当たり前のことなのですが、学校にいると、知らず知らずの内にやはり心のどこかで他の子と比較し、プレッシャーに感じていたんでしょうね。

子供の興味と親の考えとでやる内容はどうとでも決められるので、本当に楽しく色々学んでいけます。そこには学校のような強制による勉強はないので、その子の好きなもの、その子にぴったりのレベルのものを、その子に合ったペースで好きなだけやれるのです。

子供に一番ピッタリの環境を考えられます。
気が散り易い子も(転導性のある子)、静かな一人だけの空間を与えれば結構集中できるものです。
学校で集中出来なかったのは、その環境がその子供にとって刺激が多すぎたため集中できなかっただけなのです。
それなのにチョロチョロ、キョロキョロするのを年中注意されているのは、彼らにとって酷な話だと思いませんか?
ちなみに、息子は基礎英語のCDを聞いたり、時には読書しながら、回転椅子でクルクル回っている事があります。
見ているとこちらの方が気持ち悪くなりそうなのですが、彼はその方が頭に入るのかもしれません。
学校では、こんな事許されないでしょう?

社会性を身に付けさせる事については・・・余程理解のある、そして力のある教師が配慮しない限り、学校集団の中ではLDを持つ子供は、浮き上がってきてしまいます。
同年齢の子供達が当たり前に出来る事に苦労する事が多い彼らは、周りと同じということで安心感を得る傾向のある集団の中では、どうしても異質な者として排除されやすい存在だと思えるからです。
しかし、異年齢の集団では、夫々、出来る事出来ない事が有って当たり前ですから、そこには「みんな違って当たり前。みんな違っていいんだ。」という意識が自ずから存在し、LDを持つ子供にとっては居心地がいいようです。
彼らが安心感を持っていろいろな子供達と接する事のできる機会を沢山与え、その中で、親や周囲の大人が丁寧に人間関係を教えていけば、彼らの社会性はきっと育まれていくと信じます。

バランスの取れた、まあるい人間に育てようと目指すと,凸凹の大きい彼らは、一番苦手な凹の部分を半径としたような小さな小さな丸になってしまいそうな気がします。
学校は「個性、個性」と言うけれど、私が思うに、やはり一通りの教養を備えたまあるい人間の育成を目指しているような気がするのです。
その、バランスのとれた人間にしようということは、取りも直さず、彼らの個性を矯正し壊していく事に他ならないのではないでしょうか?
LDを持つ子供が不登校を起こし易いのは当然のことと私には思えるのです。
ホームスクールに於いては、その子供の個性を丸ごと受け入れる事ができますので、好きな事、得意な事はどんどん伸びていきますし、もの凄い努力を要する事でも「将来その子にとってどれだけ必要な事なのか」を考え、たいした事無いと親が判断すれば、「エイッ!!」と切り捨てる事ができるのです。
学校に於いては「これが将来何の役に立つのか?」と思えるような事でも、ゴリゴリとLDを持つ子供を苦しめている事がとても多いと思えるのです。

鳥の集団の中の一匹の魚。
リン・ワイス著の「片付かない!見つからない!間に合わない!」という本の中に、「ADDが直接、行動上の問題や情緒の問題の原因になるとは思わない。ADDの人間が非ADDの文化の中で生活する事から二次的に派生するものだと思う。ADDの人間は、非ADDの物差しで測られ続け、皆と違っていると言われ続けるし、絶えず非ADD的に振舞う事を要求され、責め続けられる。それが二次的な問題を引き起こす原因である。」という記述があります。
この事は私には真実を言い得ている様に思われます。
LDを持つ子供は、まさしく魚の存在を認めない鳥の学校入れられ、「飛べ」といわれている一匹の魚に等しいと思えます。
「変な鳥」・「ダメな鳥」と見なされる鳥の集団の中に置いて二次的問題を引き起こさせるのを手をこまねいて見ているよりも、世の中、鳥も魚も存在していると認識している環境の中で、魚として自信をもった大人に育てようというのがLDを持つ子どもに対するホームスクールの意味ではないかと思っています。

最後に、これは一番大きな事だと思えるのですが、ホームスクールを始めてから、LDという言葉や障害という意識は我が家にとって必要では無くなったということです。
つまり、例えば目の悪い人が眼鏡をかけるように、独特の認知やスタイルを持つ息子にピッタリのライフスタイルを与えるだけで、何の不自由もなく、伸び伸びと育っているように思えるのです。
この親の意識の変化こそ、息子にとってそして家族にとってもホームスクールのもたらす最大のそして最高の贈り物なのでは・・・と思っています。


ばっく

めーる




まる関連サイトのリンク集

ホームスクール関連

日本ホームスクール支援協会(HoSA)
ホームスクールの社会的認知めざし、ホームスクーラーに情報提供などの支援を行っているNPOのページ

Homeschool Family
ホームスクールを7年も続けているファミリーのページ

TRM学習支援センター
ホームスクーラー・LDなどハンディを持つ子供・不登校児童などの個別の学習を考え、支援するシステムを持つセンターのページ

サトー君ちのHomeschool
小学生の男の子をホームスクールで育てている家庭のページ。子供の詩やエッセーなども満載

「僕」の散歩道
東海地方でホームスクールをするファミリーのページ

まるHoSAねっと 東海
ホームスクール・不登校・ハンディを持つ子供の居場所探しをしている家族に、情報提供するサイト


LD関連
まる日本LD学会

まる全国LD親の会

LD親の会「けやき

まる西宮YMCA

まるLD STATION

まるLDフォーラム

まる見晴台がくえん


ばっく

めーる





まる関連書籍
ホームスクール関連
学校は義務じゃない
エデュケーション・アザワイズ 著   明石書店

思い切ってホームスクールで育てています
久保淑子 著   リヨン社

Q&A たのしい ホームスクール

リンダ・ドブソン 著   現代人文社

子供が学校に行きたくなくなった時読む本
メアリ・レパート&マイケル・レパート 著   丸の内出版

あなたの子どもにぴったりの「学習法」を見つける本
マリアエマ・ウィリス&ビクトリア・キンドル・ホドソン 著   PHP研究所


LD関連・IEP関連
アメリカの個別教育計画と情報活用の展開
成田 滋 著  文教資料協会

学習障害児の教育
上野一彦・牟田悦子 著   日本文化科学社

子どもの不器用さ  -その影響と発達的援助
辻井正次・宮原資英 著   ブレーン出版

片付けられない女たち
サリ・ソルデン 著   WAVE出版

へんてこりんな贈り物
エドワード・M・ハロウェル&ジョン・J・レイティー著   インターメディカル

片付かない!見つからない!間に合わない!
リン・ワイス 著   WAVE出版



ばっく

めーる