このページは、NECOさんのご協力によって作成されたページです。 NECOである。 わが町も無事、入梅した。 うっとうしくも情緒あふれる季節であり、私の大好きな『夏』への入り口である。 私の夏の思い出には『怪談』という風物詩があり、三遊亭圓彌さんなどの高座はよく観に行ったものである。 『雪女』だって、寄席(よせ)では夏の出し物なのだ。 『怪談』はまた立派な文学でもあり、私の知人にも妖怪研究家なる人がいるほどディープに人々を惹きつける。 同時にこれは、この国の夏特有の『湿度が醸し出す妖気』と『古来固有の精神性』の融合であり、日常の中に怪談的思考が存在する事は、戒めの気持ちや心の拠り所を持つという意味で、むしろ幸せな事なのかも知れない。 お化けの類に出くわした経験こそ持たぬ私だが、『お化けが存在するか否か』という論点に関しては、『居る』と信じたい。 好いたらしい人が見知らぬ色男と仲良さそうにしているのを目撃する、などという辛い事は『偶然の結果』ではない。 『魑魅魍魎(ちみもうりょう)の暗躍』によるものなのだ。 怪談よりもう少し現実的というか人為的なものに、『奇譚(きたん)』というのがある。 この『奇譚』という言葉は近代の造語に端を発すると考えられ、これを載せていない辞書も多いが、状況説明には実に都合の良い表現で、気に入っているフレーズのひとつだ。 いずれにしてもこの国の夏には、色々と不思議な事が起こるのである。 2004年、私の夏は思い掛けぬ出来事で始まった。 コンタックスがライカに化けたのだ。 私が使っていたMFコンタックス一眼レフの基本システムについては、前回のエッセイで書かせていただいたが、ストロボも含めてかなり多くのシテュエイションに対応できる程度のシステムに成長しつつあった。 カールツアイスはやはり良い。 ツアイスのプラナーの色香に惑った私は、夜な夜なポジを見ては、その個性的な美しさに溜め息をついていたのである。 同時に、ニコンを使う頻度が減ってゆく、という弊害も生まれ始めていた。 ヒトの身体というものは普通一つしかない訳だから、似たような道具を複数所有していれば『持ち腐れ』になるのは当然といえばそれまでだが、コレクターではない私は、そのことでいつもカメラやレンズに対する『うしろめたさ』に苛まれてしまう。 数多あるレンズのうちの幾つかには魔物が棲んでいて、そのレンズを手にした者の魂の中に、夜霧のごとく密かに入り込んで『なにかの種』を蒔いていくらしい。 そしてその者はいつしか、茫洋とした迷路(沼とも言うらしい)をさまよい始めるのだそうだ。 『魔の力』の存在を信じ始めていた私はしかし、ふと我に返る時がある。 そして自分を取り囲むカメラとレンズの群を眺めながら『このままでは虻蜂取らずになってしまう』と思い、コンタックスの模様替え、すなわちGシリーズ化計画を建て始めていたのである。 無為無策な計画ではない。 45mmや35mmのプラナーを短いフランジバックで使ってみたかったし、うわさに聞くビオゴンで美しい建物や彫刻などを写してみたかったのだ。 この国の季節が夏に向かっていくとき、空気の匂いも変わっていくことを感じぬ人は居ないだろう。 普通は温度も湿度も上がっていくわけで、大気成分の割合も変わるはずである。 これらの『頃合』というか『絶妙な混ざり加減』というか、つまり空気が『何らかの状態』になったとき、こちらの気持ちが久しく会わない知人に伝播する、というのは有り得る事なのではないか。 敢えて言えば『虫の知らせ』みたいなものだろうか。 既にライカを愛でている友人から、『あまり使っていないライカがあるので譲ろうと思うのだが、どうだろう』という連絡があったのだ。 頭の隅の方で『いずれは・・・』と思っていたライカの幻影が突然、形になり始めたのである。 これは手に入れるしかない。 本当に考えていた時間は、おそらく数十秒程度だろう。 この数十秒の間に私の頭脳は、軍資金の算段を(驚異的速さで)シミュレートし、手放すべきものを選択し、なぜか赤瀬川原平さんの顔を思い浮かべていたのである。 ニコンは残しておきたかった。 私のニコンは私の『泣き笑い』のうちに吟味してきた思い入れのあるシステムであり、また今後の(いつの事やら)デジタル導入をも考慮した末の考えである。 レンズに関していえば、ニッコール45mmP(パンケーキ)と、AFVR80−400Dを手放す気になれなかったのである。 魔物は棲むまいが、この2本と私とは非常に馬が合うのだ。 結果としてMFコンタックス一眼レフのシステムを手放す事にし、コンタックスGシリーズ導入構想は『延期』となった。 人脈とインターネットを駆使し、さらに電話をかけまくった末、二日間ほどで都内のめぼしい店の『買い取り価格』を調べ上げた。 因みに付け値の最高と最低には、倍以上の差が付いた。 こうなればなり振りを気にしている場合ではない。 最も高い値を付けてくれた店に買い取ってもらったのは、言うまでも無かろう。 火事場の馬鹿力とはこの事である。 友人からオファーのあったライカはM6TTLというボディーと、エルマー50mmという沈胴式標準レンズのセットである。 状態は極めて良好で、実用品としてはもったいないくらいである。 お値段は、絶妙な破格とだけ申し上げておこう。 どんなに親しい店に行っても、さすがにその値で売ってはくれまい。 日本にM3というライカが、やはりエルマーという名のレンズと共に上陸したときの価格は、当時のサラリーマンの年収にも匹敵するほど高価であったそうだ。 そこそこの物なら何でも安く揃ってしまう現代と違って利器はどれも高価だったはずだから、それこそ高嶺の花である。 ライカに惚れてしまった小市民のストイックさは想像を絶するものであったろう。 『ライカ一台、家一件』と言わしめたほど、ライカに手を出すと後が怖かったようだが、程度の違いこそあれ、このこと自体は今でも余り変わっていないようだ。 やんごとなきお方のお住まいに程近い『日本カメラ博物館』には、レア物も含めて数十台の歴代ライカが展示されているが、個人の寄贈品であるという。 道楽だとすれば正に『アッパレ』である。 私の亡き祖父はライカ(時代から考えてバルナックタイプ)を使っていたらしいが、ドイツの会社と関わりが深かった人なので、恐らく当時何らかのルートで手に入れたのだろう。 また旧友のお父上(故人)もライカと写真を愛した人だった。 この二人の共通点は2つある。 ある時代を生きた証として、写真入り自叙伝あるいは写真集を自費出版して親しい人に配ったことと、ライカで家族を泣かせたことである。 そんな思いというか恐れみたいなものを抱いていた私が、ある日突然ライカユーザーになっていたのだ。 これを『奇譚』と呼ばずしてなんとしよう。 ただしこの後『怪談』も待っているらしい。 皆さん、夏はお好きですか? 2004年 梅雨 |