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『モノクロームへの応援歌』
私の名はNECO。 NEOさんち(家)の居候である。 この枕詞には私自身も最近『くどさ』を感じているのだが、照れがある上に文才がないので、今しばらくご勘弁を願いたい。 先ずは下手な言い訳から。 以前のお題『我流 中古論1』で古本屋のあれこれに触れ、その続編として『中古カメラ店』に関するものを書かせていただくと申し上げていたが、中古カメラの世界は私の理解を越える部分がいまだ多すぎて、既に四篇が尻切れ蜻蛉のままコンピューターの中に保存されている。 中古カメラの世界の『迷路度』は、例えば同じ実用品である腕時計のそれと酷似しているが、恐らく同等、もしくはそれ以上に深く、暗くそして入組んでいる。 厳然たる美術品でもなく、ましてや基本的にはコレクターズアイテムでは無い(かつてはそうで無かった、と申し上げるべきか)物であるにも関わらず、行けども行けども出口が見えないこの世界は、私のような若輩には荷が重い。 いつかまとまりが付いたところで、私なりの経験則を起稿するかもしれないが、出版物を出すほどにこの道に精通している著名な方々には、到底及びもつかない。 ただし、今ここで一つだけ断言しよう。 『自らの目的さえ明確にしてかかれば、これほど面白い世界も無かろう!』 今回はお題に『モノクローム表現』を選んだが、足りない頭の中でとっ散らかっている事柄を無理やりお題に結び付けていくので、息が切れるような長い螺旋階段を登りつめたところに、恐らく今回私が本当に言いたいことが現われのではないかと思う。 お時間のある方はお付き合いを。 私の住んでいる場所は都心に近いところである。 悲しいかなこの辺りは江戸が開府される遥か昔より、非常に平べったい地形をしており、およそ起伏と言うものが無い。 だから『多少なりとも観賞に耐える風景』にたどり着くまでに、それなりの運賃と時間をかけざるを得ない。 更に言うなら、いわゆる風景写真を撮る為にかなり努力をしても、1日で往復できる範囲において高圧電線の鉄塔をフレームから消すことは困難である。 結果として、私の仲間が見せてくれる『風景写真』の多くは、どこかで見たことのある構図になってしまうのである。 抗い様も無いことなのだが、やはり私を含めた多くの人々が心底求める『季節の移ろいの美しさ』や『人の暮らしの豊かさ』に欠けることは否めない。 しかし悪いことばかりではない。 この場所はどんな場合でも、思い立った時に移動を開始し、都心を徘徊できるスピードを持っている。 自宅から徒歩と電車で30〜40分以内のエリアに、中古カメラの『生きた博物館』が文字通り売るほどある。 そしてもう一つ。 『写真ギャラリー』が銀座、恵比寿、新宿界隈に集中している。 特に銀座のそれは、カメラやフィルムのメーカーがバックアップをしているものが多く、見学無料である。 これは非常に嬉しい。 私はニコンユーザーなので、どうしてもニコンサロン方面に足が向きがちだが、時間が許せばそこから程近いC社、K社、F社主催のギャラリーにもお邪魔することがある。 有り体に言えば、平日に出先からそこに寄って帰宅することも多いのである。 ただし、日曜日と祭日は休みのところが多いから、出向かれる方は事前のチェックをお忘れなく。 無料の写真展だからといって内容はどうかというと、これが凄い。 特にニコンサロンが私の肌に合っているからかも知れないが、大手カメラ雑誌では常連のプロの作品が多い。 そして殆どの場合、作者本人が案内役をして下さる。 記憶に新しいところでは先ず、カメラフリークでも有名な飯田鉄さん。 飯田さんの展示会では、私に時間の余裕が無かったせいもあるのだが、大変失礼ながら、展示室に入った時にはご本人に気付かなかった。 『作品』は飯田流で、明らかに使ったカメラが分かるほど同氏らしいものであったが、ご本人は物凄くフツーな感じの人だったのだ。 色々な意味で印象深かったのが桑原史成さん。 2003年10月号のアサヒカメラに掲載された北朝鮮のスナップ写真で私自身が衝撃を受けた後、偶然ではあるがその『生写真』を眼前にしたのだ。 雑誌社の方には申し訳ない表現になるかもしれないが、桑原さんのこの時の作品に関して言えば、雑誌では実物の迫力は絶対に伝わらない。 桑原さんとはお話しが出来た。 「何故ご法度の写真が撮影できたのか」とか、その他の諸国漫遊談だとか、興が乗ると気さくに色々教えてくださった。 この方は大変なモラリストであることを付け加えておこう。 時節に即したテーマで言えば八重樫信之さん。 ハンセン氏病の患者さんや療養所を撮り続けた写真家である。 ただ撮ったのではない。 撮り続けたのだ。 その作品が訴えかけてくる『何か』の前で、私を含め訪れた人全員が、ただ息をのんでいたような気がする。 八重樫さんはもちろん職業としては『プロフェッショナルカメラマン』という事になるのだろうが、 その後に神奈川県の川崎で開催された『水俣展』の打合せを、その関係者となさっていた。 その点で『社会派写真家』なのかも知れない。 社会問題を『報道写真』とは全く違う手法で写真に語らせることが出来ることを、実は私は羨ましく思っている。 この3月に写真集『もう、うつむかない(著者・村上絢子氏/本文写真・八重樫信之氏 筑摩書房)』 の発刊に至った旨、お葉書をいただいた。 お名前を忘れてしまったのだが、やはりつい先頃ニコンサロンで出展されていた若いカメラマンの作品が心に残っている。 この方の作品もモノクロームであった。 アジアのある都市の日常を切り取った写真で、殆どがハッセルブラッドと標準レンズ(プラナー80mm/F2.8)で撮影されている。 実は数十点が展示されている中に1枚だけ、私ごときが見ても『いくらレンズが優秀でも、あり得ないほどの立体的』に表現されているものがあったのである。 何と言うことはない通行人のスナップなのだが、思わず『どうしてあれ程強烈な立体感が出たんですか?』と聞いてしまった。 理由を聞いて納得したが、細かい話しはここでは割愛させていただく。 また、私に同じ事をしろといっても今は無理ではある。 写真家の執念による言わば『手法のなせる技』とだけ申し上げておこう。 そしてこれも、私にとって素晴らしい作品であった。 数え上げればきりが無いのだが、無論全ての展示会に足を運べるわけも無いし、お邪魔した展示会の中には、まるで私の興味を引かないものも沢山ある。 これは当たり前のことだ。 しかし前述の実例には一つの共通点があるのである。 すべてモノクローム写真なのだ。 無論『ただ飯』ばかりを喰っているわけではない。ちゃんとチケットを買って有名な方の山岳写真や桜の写真も、時には拝見する。 ただその場合の多くは作品が『総天然色写真』なのだ。 その素晴らしさに溜息はでるが、大々的な写真展の多くがカラー作品で飾られているのは致し方ないことなのだろうか。 それでも私はモノクロームに惹かれる。 私だけでなく、そういう諸氏は意外と多いのではないだろうか。 私は、私の2度目の写真人生黎明期に観た土門拳さんのモノクロームの写真集に度肝を抜かれた経験がある。 それは著名人の肖像であったし、広島の地獄絵図であったし、筑豊炭鉱の日常であった。 氏がお抱え写真家からフリーランスに転身しようとされている時代の作品であろう。 見えない色で物を語るモノクローム写真にこそ必要な『迫力』があるのだ。 余談だが土門拳さんの作品で私が一番すきなのは『どしゃ降り』である。 また、鬼海弘雄さんが今回の土門拳賞を受賞されたのは、私の中では『至極当然』の出来事である。 先輩方は私の無知、無能を笑っていただきたい。 今まで私が挙げてきた拙い感動秘話には、私自身が気付かなければならないことが抜けているのだ。 『焼きの技』である。 人の心を打つモノクローム写真は、現像からプリントまでの工程にかける技術と情熱が違うのだ。 私が最初に写真を始めた頃、もう30年以上も前のことだが、フィルムといえばモノクロームフィルムであった。 誤解の無きよう申し上げておくが、カラーネガフィルムもあったし、当時は手が出せなかったがリバーサルフィルムだってあった。 しかし子供ながらに現像と焼付け、そしてパネル張りまでを時として自分でやっていた。 裕福な家の友人が道具と暗室を持っていたのだ。 そうした思い入れもあるのだろう。 今やすっかり人任せになってしまった最近の私のモノクローム写真は、ベタ焼きやE判程度のサイズにおいても、昔のそれと比べて『迫力』に欠けている気がする。 腕は上がってもいないが落ちてもいないと思う。 諦め切れないカットは、サンプルを持って近所の写真屋さんに『ここを覆って、この部分の調子を出してください』といった具合に再注文し引き伸ばす。 もちろん快く引き受けてくれ、モノクロプリント専門の外注さんに出してくれる。 そこまでやればさすがに『見栄え』がしてくる。 しかし最近その店の人からも『プロラボに行く事』を薦められる。 需要が減っているため閉める店が多く、あっても『優秀なプリンター(プリント士)』が減っているのだそうだ。 アマチュア写真の評価会で、ある有名なプロカメラマンに話しを聞く機会に恵まれたことがある。 因みにこの方は、報道写真分野から風景写真に転向して久しく、現在は大成功されている著名人である。 わたしはこのコンテストにモノクロームで出展し落選した。 腕がついていっていないことは承知の上で。 そこで私はプロに聞いたのだ。 『プリント方法に指定の無い写真展の場合、モノクロは不利ですか?』と。 答えは 『セミプロ級の連中がリバーサルのダイレクトプリントで挑んでくるようなコンテストの場合、それを評価する主催者の意図にそぐわなければ、モノクロはやはり不利である』 であった。 それを伺って不思議とホッとしたことを思えている。 夢中で挑んだ甲斐が有ったというものだ。 しかしプロはこうも付け加えた。 『ただそれは作り手の問題や、人の目がカラーに慣れてしまっている事ばかりが原因ではない。 残念ではあるが先ず印画紙の質が落ちている。そして優秀な焼き手が激減している。 だから考えかたを替えて、モノクロ表現こそデジタルを応用してみたらどうか』 と。 プロは同じ事を、その数ヵ月後にある大手写真雑誌のインタビュー記事の中で述べておられるので、謎解きの好きな方はバックナンバーをお調べになるのも一興であると思う。 まさに『目から鱗』である。 生来アナログ人間である私は、ボタンやダイヤル類あるいは操作手順が一定の範囲を超えると、その道具に対するアレルギー反応を起こしてしまう。 だから今まさに使っているこのキーボードもインターネットやメールも、実は未だにその仕組みが良く分かっていない。 ウィルスがどうの・・と言われても、感染しないように知人にセットしてもらい、後は祈るのみなのだ。 携帯電話も持ってはいるが、通話と目覚し時計以外の機能を使ったことが無い。 しかし世はデジタルに背を向けるわけにはいくまい。 作家の五木寛之さんはその著書の中で、『生きるものにとってはやはり、乾式より湿式の方がいいのではないか』と名言を著されているが、やはりワードプロセッサーぐらいはお使いになっているのではなかろうか。 だからデジタルを否定するつもりも無いし、分からないことは知っている人に聞いて覚えていこうと思っている。 デジタルカメラもまた然りである。 写したもの(記録した信号)を処理することから覚えなければならない訳だから、私のような者はどうしても腰が重くなってしまう。 それに、進歩著しいとは言え、プリントした時のカラーの色合いは未だ好きになれない。 だがこのペースで各メーカーが開発を進めていけば、湿式である銀塩と乾式であるデジタルの境界線は早晩無くなるのだろう。 つまらないことを言えば銀塩写真のプロセスにもしっかりデジタルは入り込んでいるわけだし、極めて身近なところでは、家庭で見るテレビの映像の多くが既にデジタルになっているのだから、否定などできない状態に既になっているのである。 両者のボーダーがゼロに近付いていく中で、それぞれが上手に住分けるのか、どちらかが衰退するのかは分からないし、考えないようにしている。 だがモノクロームで勝負をしている写真家の魂と情熱、そしてそれを理解するが如く性能を発揮しるレンズとカメラボディー、その結果生まれる見事な明と暗を、私は愛で続けたい。 だから私も手を拱いていないで、苦手なデジダルの勉強の始めた。 私の『お道具』にデジタルカメラが加わるのが何時になるのかは、私にも分からないが。 今、一つの救いは、NEOさんのアドバイスで使ってみた『T400CN』というフィルムである。 街のミニラボにで出来るカラーネガフィルムの現像処理で、モノクロームに近いプリントが出来る。 少しセピア色が掛かるが、充分に楽しめる。 事ほど左様にモノクロームってやつには『ドキドキさせられっ放し』なのである。 がんばれ! モノクローム。 2004年 今日は五月雨 |