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『良いレンズ』
私の名はNECO。
『NEOさんち(家)』の居候である。

今回は私自身の『カメラレンズ考』のようなものを書いてみたが、いつにも増して自己中心的な内容になってしまった。
限られた元手で欲求を満足させようとすると、結局は『勘』というか『本能』というか、はたまた『惚れ込み具合』でお道具を入手するわけだから、自ずと利己的な表現になってしまう。
また私は基本的にニコンユーザーである為、その経験に非常なる偏りがある。
授業料にも限界があり、その道のプロのようなわけにはいかないが、ご一読いただきたい。



『このレンズはピントが良いねえ』と、私の周りのベテラン写真家たちは言う。
この表現は、ある年齢層において『異口同音』であるところが面白い。
そういう言い方が流行った時期があるのだろうか。
はたして『ピントが良い』というのはピントの何が良いのだろう。

元来、優れたレンズの定義というものは、透明度が高く、収差が少ないというものだっただろう。
この点において、近代のレンズの性能向上は素晴らしい。
少し専門的だが、『硝材(ショウザイ)』と呼ばれるレンズの素材の多様化と、高価な硝材の市場投入、そして研削研磨技術の進歩は、多くの皆さんの想像を越える貢献を、カメラ界にもたらしてくれているのだ。
その昔言われていた『ズームはだめだ』とか、『レンズと言えばドイツ』などと言う事は、もはや無いのかもしれない。
幸か不幸か私はまだ『クラシックレンズ病』にはおかされていない為、クセ玉にはまると言う事は無いのだが、ある種の収差をそのレンズの『味』とか『クセ』として楽しむことは極めて正しい事で、決して王道から外れているとは思わない。
それに光学的な収差をゼロにする事はこの時代においても不可能であり、古今東西どのレンズも大なり小なり必ずクセを持っているともいえるのだ。
よく言われる『コントラストの高低や、周辺光量の不足』といったことが良い例で、現代の写真用レンズの中においてその良し悪しなど語るべくも無く、自分が良いと思ったレンズが即ち『良いレンズ』なのかもしれない。
またいわゆる中版サイズ以上のカメラの場合は、フィルムの平坦度もピントには関係してくるのだろう。
一方、成長著しいデジタルカメラについて言えば、撮像側の平坦土を心配する必要は無いのだから、レンズに対する要求や思想も自ずと変わってくるわけである。
事ほど左様に『良いレンズの定義』というものは、時代の変遷と共に高次元化してしまっていて、私などにとっては本当に何がいいのか、実のところよく解かっていないのである。

自分にとっての良いレンズの基準を持つとすれば、少し乱暴だが『使用頻度の高いレンズ』になるのではないか。
同じような焦点距離のものを幾つか持つようになると、なんとなくではあるが、それらの違いが見えてくる。

私の拙い経験と、決して多いといえない道具暦の中から、気に入ったものを幾つか挙げてみたい。

シグマ製のF2.8クラス広角系標準ズームは、私の所有する(または所有していた)レンズの中では、ずば抜けてコントラストが高い。
言い方を替えればメリハリがはっきりしている反面、灰色から黒にかけての『色のなだらかさ』に欠ける。
だからPLフィルターの効果を思い切り利かせたいときなどに使うと、リバーサルフィルムなどではカリッカリに仕上がる。
このレンズで撮ったポートレートやネコ、鳥などは図鑑の挿絵のようになってしまうが、街並みを立体的に撮影するには絶対的な安心感がある。
広角から中望遠までカバーしている割に、歪曲収差がほとんど気にならない設計になっているからだ。
これは私にとって『良いレンズ』である。

同じシグマ社製でも、105mmのマクロは実にほどほどの線を保っている。
コントラストも色の抜けも、そしてピントの立ち方もすべてが中庸で、ある意味の万能レンズである。
このレンズの利点は、とにかく小型軽量なこと。
カーゴパンツ(作業ズボンの様な物)の腿のポケットに入れても苦にならない、スナップにも使える『良いレンズ』である。
ついでと言っては何だが、マクロレンズではキャノンのEF100mm/F2.8 USMも素晴らしい。
フォーカスの方法を工夫する事で『繰り出し』がなく、レンズの全長が変化しないのだ。
ただしこれは私でなく、仲間が持っている。
私は、このレンズの為だけにキャノンのAFカメラを一台買おうと、真剣に悩んだ事がある。
その意味で私にとって『良いレンズ』である。

ニッコールの単焦点レンズはその筋に人たちに語り尽されているから、ここで私が申し上げるまでも無いと思う。
しかし数多あるニッコールの中で、今回どうしても書きたかったレンズがある。
以前の章でも一度軽く触れさせていただいた『AFVR80−400mm/F4.5−5.6D』だ。

その昔キャノンのFD50mm/F1.4を使っていた頃の写真には、私の『向こう見ずさ』が、きちんと現れている。
何が向こう見ずかというと、暗い室内で弱いスポットライトを浴びている被写体に対し、このレンズの絞りを開放にし、ISO100のフィルムで手持ち撮影したことが、今にして思えば冒険であったと言う事なのだ。
結果として未だにそれを超えられない『傑作』として、我が心に君臨している。
それはおそらくそのレンズが、私の気持ちを非常にストレートに、あるいは多少増幅をして被写体に伝えてくれたのではないかと思っている。
その写真はポートレートとして今も当時の輝きを失っておらず、その被写体は今の私の妻である。

さて課題のAFVRズームについてであるが、先ずこの『手ぶれ補正』という仕掛けは、前述の冒険を冒険でなくしてしまった。
はるかに遠い舞台に立つ役者を相手に、三脚無し、一脚無し、ストロボ無し、のないないづくしで、出来る事と言ったらフィルムの増感設定ぐらいのもの。
このシテュエイションで撮影した写真は、プリントして差し上げた皆様に驚きを持って喜んでいただいている。
即ちこのカラクリを知らない方々にとって見れば、『有り得ない写真』なのだ。
人を驚かせ、そして感動させる光学技術。
とても正しい技術の応用ではないか。
そしてこのレンズについてもうひとつ付け加えれば、レンズとしての基本的な性能をおろそかにしていないところが『良いレンズ』なのだ。
よく『ニッコールは真面目だ』と評される。
真面目と不真面目の境界線がどこにあるのか良く判らないが、マニュアルフォーカスの新レンズとして話題になったニッコール45mm/F2.8Pなどは、確かに物凄く写りが律儀で、それを『真面目』と言うのかも知れない。
AFVR80−400は、律儀さと言う点でこの45mmほどの優等生ではない。
発色、風合い、空気感、どれをとっても今までのレンズの枠にはまらない。
時に落ち着きを見せ素直な描写をするかと思えば、こちらが意図して光を選んだような時には、それを忠実に再現してくれる。その場の湿度が写ったような気にさせられる事もある。
かといって取り付く島も無いような『暴れん坊』でもない。
このレンズ入手時に相談に乗っていただいたNEOさんには、『まさに驚異的だ』とインプレッションをお伝えした事があるが、今でもその気持ちに変わりは無い。
そしてこのレンズの根本的な性能については、これを使い込むにつれて『得体の知れない底力』を見せ付けられるような気がしている。
AFVRニッコール80−400mmは私にとって『極めて良いレンズ』である。


さて冒頭の『ピントが良い』の解釈についてだが、今までに出てきたコントラストや立体感、ひいては空気感といったものがバランスよく混在している場合に使われるのではないか、と言う気がしてきている。
例えば既出のニッコール45mmPはその特徴として、絞り開放付近でのフォーカシングポイント(ピント)が『面』つまり大きな透明の壁のように存在する。
そしてそのポイントの前後には急激に始まる『ボケ』があらわれ、その結果被写体に立体感が生まれる。
ところが、ニッコールのAF50mm/F1.4D(無論絞り値もほぼ同じようにした場合)での写りを見ると、ポイント即ちピントの芯が『点のような状態』で現れる。『とても小さな面』と言い換えても差し支えない。
『ボケ』はその『点』の周囲から既に始まり、結果として被写体の例えば『目』だけを強調するのだ。


最近カールツアイスの味見をはじめた。(手を染めてしまったと言うべきか)
先ずはプラナー50mm/F1.4(日本製)からだ。
ご他聞に漏れず『Tスター』ではあるが、設計そのものはヤシカ/コンタックスブランド発足当時と全く変わっていないらしい。
今となっては、設計が比較的古い部類に入るのではなかろうか。
因みに大手メーカーでは、同じ型番でも少しずつ改良を加えていく事があり、ロングセラー品の初期ロットと最新ロットの間に、わずかながら違いがあることも少なくないらしい。
さてさて、諸先輩方がおっしゃるプラナーの『ピントの良さ』と、その『描写力』とはいかがなものか・・・。

夢とは果てないものだ。

  2004年 早春

NECO拝