四間飛車の歴史

1ーはじめに
藤井猛の大著「四間飛車の20年」発刊記念として四間飛車の歴史を振り返ってみたいと思います。
参考文献としては「山田道美著作集1」を主軸に、「四間飛車好局集」「大山将棋勝局集」
「米長の将棋」「新鷺宮定跡」「スーパー四間飛車」「これが最前線だ」「日本将棋大系」などとなります。
その他のここ10年ほどの定跡書もその変遷ということでこの特集に役立っています。
しかし古い書籍はほとんど持っていません。
調査不足による勘違いなどがあると思いますので
決して鵜呑みにはせず、引用はしないでください。
あらかじめご了承下さい。

2ー江戸、将棋の黎明
時は江戸時代に遡る。
それ以前の資料はほとんど現存せず、最古の棋譜が江戸初期の1世名人宗桂ー算砂戦となる。
これは四間飛車カタログで触れたように四間飛車対右四間飛車である。
江戸期、将棋の主流は居飛車対振り飛車であった。
居飛車系の将棋も指されていないわけではないがかなりの割合を振り飛車が占める時代である。
どちらかが飛車を振る将棋がほとんどで、居飛車のような出だしでもそのうちに飛車を振ることが多い。
なぜ振り飛車なのかについて残された書物は私の知る限り無いが、
想像するに相手の飛車と角を真っ向から受ける位置に玉を持っていくのに抵抗があったのではないだろうか。
この時代、手探りで工夫が重ねられた時代である。
振り飛車の囲いは早囲いがまず基本だった。
天野宗歩の頃(幕末期)になってようやく美濃囲いが発見される。
余談だが天野宗歩の棋譜は未だに鑑賞する価値があると思う。
特に香落ち上手の指し回しは芸術とも呼ばれ、その鮮やかな指し回しは並の讃辞では足りない。
振り飛車党なら一度は鑑賞するといいだろう。
この時代は駒落ちも盛んに行われ、特に振り飛車である香落ち上手の軽やかな捌き方から振り飛車が得たものは大きいと思われる。
現在のような意味での定跡はこのころ無い。
先人の指した棋譜がそのまま或いは一部を改良して定跡としていたようだ。
定跡書も多少刊行されているが実戦でその通りに進むようなことはほとんどなかった。
振り飛車に対する居飛車の攻め方もどのように指して良いかわからず手探りで工夫がなされている。
江戸初期では居飛車は角道を止め、▲6七銀▲5七銀と2枚銀に構えるのが一般的だったようだ。
早仕掛けの原型は▲7九銀型での仕掛けとして幕末期に天野宗歩によって編み出されている。
その他の有力な仕掛けとしては右銀+浮き飛車+▲3七桂という布陣。
矢倉引き角なども指されている。
このころの棋譜としては「日本将棋大系」を薦めたい。
他には特に「天野宗歩手合集」がよい。
明治から戦前までは資料不足のため一足飛びに戦後の大山升田時代へ跳びたい。
一応書いておくと山田道美著作集から判断するに
大山升田の師匠である木見金治郎の向かい飛車が主流で四間飛車は指されていなかったようだ。

3ー大山升田時代
大山升田時代(1950-1970)を語る前にまず大野源一(1912-1979)から始めよう。
大山康晴(1923-1992)、升田幸三(1918〜1991)の兄弟子である大野は三間飛車の神様である。
振り飛車の捌きが見事でA級順位戦でもその振り飛車でよく勝っていた。
この頃は大野も手探りだったようで、△4三金型、△4三銀型、美濃囲いの端歩を受けないなど
手探りで色々な工夫を凝らしていた。
1950年代末、この大野の影響を多大に受け、まず升田が振り飛車(3間飛車、向かい飛車)の世界に入ってくる。
そして升田に触発されてか、大山が振り飛車、それも四間飛車を指し始める。
このころ四間飛車は5筋位取りをされて駄目だと思われていて全く指されていなかったが、
端香を上がる新手が発見され四間飛車も十分させると認識された。
この大山の5筋位取りの布陣はその攻略の難しさから不敗の陣と呼ばれることもある。
この不敗の陣を始めとする工夫で四間飛車が大いに指され始める。
これを契機として四間飛車のみならず空前の振り飛車ブームが巻き起こった。
この活況はまさに史上に残るもので、このころの振り飛車採用率は4割あり、そのほとんどが四間飛車だった。
次第に大山は完全に振り飛車党に変わっていく。
四間の大山、向かいの升田、三間の大野、中飛車の松田と呼ばれた時代である。
ちなみに松田茂行(1921-1988)はツノ銀中飛車の創始者である。
この振り飛車ブームは一人の男を呼び覚ます。
山田道美である。
この男によって近代四間飛車の歴史は開かれることになる。

4ー歴史を作った男、山田道美
山田道美(1933-1970)。
この男が居なければ四間飛車の歴史は今と全く異なったものになっただろう。
定跡の進歩は今より10年は遅れただろう。
それほどの大きな役割をこの男は果たした。
この男の業績は40年たった今でも燦然と輝いている。

山田は早くから評価が高く若い頃(23才頃)から雑誌の連載を任されている。
その初めての連載が「振り飛車の再認識」である。
この連載の当初は大野三間飛車が主な内容だった。
しかし連載の終わり頃に大山が四間飛車を指し始める。
そして2年後に山田は再び筆を執る。
「続・振り飛車の再認識」である。
この連載から四間飛車対策に的を絞り研究を誌上で発表していく。
連載は「四間飛車新対策の功罪」「四間飛車の研究」などへ続き、
多くの棋士が愛読したという。
当時は研究は自分一人でやり、成果は自分だけの秘密にするのが普通だった。
そのため、余り自分の研究を正直に発表するのは得策ではない、やめるようにと忠告した人もいたようだ。
しかし、この山田の型破りな連載により四間飛車対策は飛躍的に進歩を遂げる。
研究という風潮を棋界に持ち込んだのもこの山田である。
山田教室という研究会を初めて立ち上げている。

戦法の変遷を具体的に見てみよう。
山田の連載以前の四間飛車対策は、
まず江戸時代から伝わる▲2六飛▲3七桂▲4六銀から▲3五歩を狙う指し方と
5筋位取りで▲4五歩と仕掛ける指し方の2つが有力だった。
他には漠然と角筋を止め、持久戦にするぐらいだったようだ。
このうち一つ目は振り飛車に巧い順が発見され指されなくなる。
2つ目も前述の不敗の陣(香上がりの新手)により勝てなくなる。
3つ目は、当然のように上手くいかない。
このような状況の中でそれぞれの棋士が新しい指し方を編み出し、それを元に山田は研究を始めた。
最初に現れたのは現在で言う右銀戦法と棒銀戦法。
当時は戦法名も定まっていなかったようで▲4六銀対策、▲3七銀対策と山田は呼んでいる。
現代の急戦の萌芽はここである。
山田は右銀戦法のことを本筋の戦法だと述べている。
一方の棒銀の事を「専門的な感覚から見ても本筋の手ではない」と言っているのが興味深い。
続けて「棒銀には四間飛車といわれて、棒銀の受けに四間飛車の対策があるのだから、…中略…一見矛盾しているようだ。」とまで言っている。
大山は「銀がそっぽに行く感じで指しにくい手だ」、
また加藤一二三八段(当時)(1940-)は「一つの戦法だが、後手が形を気にしない人なら効果がない。」と言っているのがまた興味深い。
加藤はこの発言から5年も経たないうちに棒銀党になっているようだ。
1960年代に入ると単純な急戦だけでは有利にはならないということになって位取り持久戦が現れる。
5筋位取りの▲6五歩交換持久戦、玉頭位取り、そして6筋位取りである。
現在山田定跡と呼ばれている▲5七銀左から▲3五歩△同歩▲4六銀の仕掛けもこのころ指されはじめている。
▲5七銀左であることに山田は特に注目していることを改めて書いておきたい。
当時は▲5七銀右が常識だったのだ。

この対四間飛車定跡の黎明を山田は道を整備し続けた。
現在山田定跡と呼ばれるものだけを山田が研究したわけではないことに特に注意して欲しい。
山田は1970年に36才の若さで急逝する。

5ー大山升田時代の衰微
大山は四間飛車を柱として棋界に君臨し続ける。
その牙城を崩すのが中原誠(1947-)である。
A級2期目にして全勝で挑戦を決め、大山を破り24才の若さで名人に就く。
後に振り飛車を指すようになる中原もこのころは居飛車ばかりだった。
中原が主に対振り飛車の作戦としていたのは棒銀と5筋位取りだったようだ。
特に5筋位取りは巧みだった。
またこのころ森安秀光(1949-1993)が棋界に登場する。
そのねばり強い棋風からだるま流と呼ばれた森安は
その四間飛車でA級まで登っている。
後の1984年には名人谷川に挑戦している。
この森安と大山を中心に四間飛車戦法はまだ翳らない。
このころ戦法としては玉頭位取り戦法が盛んに用いられ、
その対抗策として位から遠のく意味で振り飛車穴熊が指されるようになる。
また美濃囲いの堅さが注目され、同じくらいの堅さを求め左美濃がようやく現れ始める。
まだ▲8八玉型が主流で▲8七玉型は珍しく、好みの問題などといわれていたようだ。
余談だが1971年の名人戦に於いて名人大山に対し挑戦者升田は初めて升田式石田流を披露し大山を角番まで追いつめている。

6ー冬の時代へ
1970年代後半、振り飛車の歴史に最大の事件が起こる。
居飛車穴熊の出現である。
既に居飛車穴熊自体は矢倉引き角からの手待ちで入る形や
升田が指した居飛車穴熊などがあるがまねをする棋士もなく奇襲の部類に分類されていたようだ。
それがこの時代に形を変えて復活する。
始めは宮田利男(1952-)がテレビ棋戦で指し始める。
宮田も前時代の人と同じく奇襲的なもので時間の短いテレビ棋戦でのみ通用すると思っていたようだ。
その宮田は直後に順位戦での逆転負けをきっかけにやめてしまった。
それから2年もしないうちにこの戦法の優秀さに気がついた棋士が4段に上ってくる。
田中寅彦(1957-)である。
田中は奇襲ではなく本格的な勝てる戦法として注目し、そして非常に高い勝率を上げた。
他の棋士からは駒が偏るからと始めは敬遠されたが、
田中寅彦がその独特の序盤感覚で勝ち続け、何度も勝率1位を取るようになると
他の棋士も優秀さを認めざるを得なくなり、徐々に採用されるようになる。
持久戦重視の傾向と一致したのだろう。
組むまでに神経のいる位取りよりも
居飛車穴熊は組みやすくより堅いということが認識され、
益々その権勢を伸ばし、位取りは徐々に下火になっていった。
他の戦型は左美濃が増え始めていて、急戦は既に一部の急戦党しか指さなくなっている。
これを境に居飛車党は居飛車穴熊と左美濃の2大戦法をぶつけてくるようになった。

振り飛車は居飛車穴熊の前に負け続けた。
対抗策も勿論練られたが居飛車穴熊の堅さ遠さの前にことごとくうち負かされた。
あまりに勝てないので振り飛車党の棋士たちは居飛車に転向していったのである。
ただ大山、森安の二人は頑固に指し続けたが、良い対抗策はついに見つけられなかった。
振り飛車ブームは終焉を迎え、長い長い冬の時代を迎える。

7ー鷺宮定跡
1980年代前半、振り飛車が衰退を始める頃、新しい定跡が産声を上げる。
山田定跡はそれだけで完成した美しい定跡だが
うち破れない形(△5四歩△6四歩両方を突いた形)があった。
それを破るために理論派の急戦党青野照市(1953-)は従来振り飛車良しといわれていた▲3八飛と寄る変化に
新しい工夫を加え居飛車良しの順を見つけだした。
これが鷺宮定跡である。
名前の由来はこの戦法をタイトル戦で用い、そして勝った米長邦雄(1943-)と青野が共に鷺宮(地名)に住んでいたことから付けられている。
鷺宮定跡の完成により居飛車急戦定跡の歴史は新しい時代に入る。
それは振り飛車が△3二銀型でどんな待ち方をしていようと仕掛けることが出来るようになったからである。
四間飛車の歴史に残る画期的な発見で意義深い。
このころ既に居飛車穴熊が棋界を席巻していて急戦そのものの数が減っていたのが惜しかった。
持久戦が無ければ一躍脚光を浴びていただろう戦型と思う。
鷺宮定跡は居飛車穴熊の勢いと振り飛車党の激減により次第に顧みられなくなる。

8ー四間飛車の復興
居飛車穴熊が棋界を席巻してより10年。
振り飛車の冬の時代を憂う者がいた。
小林健二(1957-)である。
本来小林は居飛車党で居飛車穴熊でよく勝っていたが、
振り飛車党の衰退によって先人の業績である急戦定跡が途絶えるのを哀しく思っていた。
A級降格を期に四間飛車党に鞍替えし、居飛車穴熊を破り続け、ついにA級に復帰した。
この小林の活躍によってそれまで定跡など軽視されていた振り飛車も深い研究の裏打ちが必要と言うことが認識された。
小林は左美濃と居飛車穴熊の2大戦法に次々と新しい対策を考えだし、旧来の振り飛車党に福音となった。
同じ頃若手に世紀末四間飛車をひっさげた櫛田陽一(1964-)が現れている。
スーパー四間飛車と呼ばれた小林の指し回しは緻密な研究に裏打ちされた振り飛車という新しい振り飛車党を世に出す。
それは居飛車感覚の振り飛車と言われた。
このころ小林らの活躍により持久戦策に加えて急戦が見直され少しづつ指されるようになる。
特筆すべきはそれまで不利と思われた四間飛車の△4三銀△5二金型への早仕掛けに新対策△同角が現れたことだろう。
駒が凝った形になるためそれまでまったく顧みられなかったが一旦急戦を受け止める意味で有力と認識された。
居飛車党もこんな形は簡単につぶせるだろうと思っていたが結局決定版は出ず有力な形と認識されることになる。
それに伴い左銀定跡がクローズアップされることになったようだ。
今まで触れていなかったが初期の急戦定跡のほとんどが△3二銀を破る定跡なのはそのためである。
対居飛車穴熊には色々な対策が手探りで試みられている。
△5四銀型を軸に△4四銀型、浮き飛車、端角、右四間に振り直す形、地下鉄飛車、向かい飛車など。
居飛車穴熊の勝率は多少下がったものの依然居飛穴勝ちやすいと思われていたようだ。
対左美濃の定跡はかなり整理されてきて早めに玉頭に手を付けるとよいことがかなり認知されている。

9ー急戦定跡の体系化
山田定跡、鷺宮定跡、左銀、早仕掛け、そして棒銀、右銀といった現代でも通用する定跡がそろそろ出そろうのがこの90年ごろである。
振り飛車側が▲7八銀(△3二銀)と▲6七銀(△4三銀)という二つの形に対しての仕掛け方がある程度整備されたことで次の体系化へと進む。
これは特に▲5七銀左(△5三銀左)急戦で特に顕著に現れているが、
手順の一手一手にはっきりとした意味を持たせて振り飛車の手待ち方に左右されない定跡を踏み固めたのである。
この体系化がきちんとした形で書籍にされたのは92年の「羽生の頭脳」の刊行が始めではないかと思う。
この本の1,2巻で右銀、左銀、早仕掛け、鷺宮定跡、棒銀が先手、後手に分けて解説されている。
その中でも特筆すべきは後手居飛車での急戦の解説で△4二金と待ち、
対する四間飛車側の指し手を見て仕掛け方を変えるという手法がまとめられたことである。
この考え方自体はそれまでにも漠然とした観念で存在したようだが、
具体的な手順で仕掛けの前を定義したのはこれが初めてである。
これは歴史に残すべき快挙である。
羽生の頭脳の内容は大分古くなったがエッセンスは全く変わっていないので今でも(1,2巻は)勉強する価値のある本であると思う。
なおこの手待ち手法は97年の青野照市著「新鷺宮定跡」でも受け継がれている。
本当の真理かどうかはまだわからないが指針としての評価は高い。
手待ちという考え方が振り飛車の定跡に導入されたのは初めてだろう。
これにより四間飛車定跡は新たな一歩を踏み出したのである。

10ー時代の寵児、藤井猛
小林健二によって息を吹き返した四間飛車であったが、
それでも居飛車党にとって居飛車穴熊と左美濃は勝ちやすい有力な対策と見られ、
充分居飛車が指しよいと思われていた。
そこに登場したのが藤井猛(1970-)を中心とする新時代の振り飛車党達である。
左美濃、居飛車穴熊に対し次々と新機軸を打ち出していく。
その中でも最初に名を成したのは藤井猛である。
彼がまず標的にしたのは左美濃だった。
90年代に入る頃には左美濃は▲8七玉型、いわゆる天守閣美濃が主流になっていた。
まだ一つに対策に過ぎなかった△7一玉型に藤井は注目し、研究と実戦を重ねた。
そしてその完成度は次第に上がり、左美濃を鮮やかに破るようになっていった。
ついには藤井の指す形が対左美濃の決定版と言われるようになる。
これが藤井システムである。
天守閣美濃が玉頭に弱いということはすでに認知されていて大山のような棋士は実践していたが、それは終盤での指し方の話だった。
それを序盤から玉頭を狙った駒組みをするというある種過激な発想で藤井は左美濃の新定跡を創ったのである。
この藤井システムはその完成度の高さから左美濃対策の決定版と呼ばれ、ついには左美濃をプロの世界から一掃してしまった。

この対左美濃新定跡は非常に完成度が高く、また破壊力も抜群でありこの形になれば必勝という局面がごろごろ出てくる。
四間飛車党なら必ず押さえるべき教養の一つと言える。
毎日コミュニケーションから「藤井システム」という書名で文庫により復刊されているものがわかりやすくお薦め。

余談だがこの形の研究には杉本昌隆(1968-)のような他の若手振り飛車党も大いに関与している。
しかしこの戦法に最も精通し勝ったのは藤井だった。
そのため藤井システムと名前が付いているのである。

11ー新しい四間飛車、立石流
90年代初頭。新しい四間飛車がプロ棋界に現れる。
立石流四間飛車である。
この戦法はアマチュアの立石活已さんが開発した戦法で、
立石さん自身この戦法を駆使してアマ棋界で活躍しているそうだ。
▲7六歩▲7五歩▲6八飛というかなり奇異な出だしだが、
升田式石田流の良いところを取り込んでいて居飛車の急襲には全て互角以上で対応できる。
そして居飛車が攻めてこないなら自陣の整備に努め、中盤には本格戦法に変わり身するのが立石流四間飛車の骨子だろう。
居飛車の飛車先交換を気にせず、角交換も厭わない、新しい四間飛車と言える。
バランス重視の駒組みのため居飛車は穴熊に組みにくく、当時決定版が無かった居飛車穴熊対策として一躍脚光を浴びたのである。
小林健二9段はこの戦法を駆使して94年に早指し選手権戦で見事優勝した。

またこのころから居飛車穴熊対策の一つとして四間飛車穴熊が注目され、
鈴木大介や小林健二らによって急速に定跡化が進んでいる。
派手な戦いになりがちな穴熊戦だが駒組みで細かい駆け引きが必要という考えが徐々に広がり始めた。

12ー序盤戦術の刷新、居玉藤井システム
左美濃を攻略した藤井が次に狙いを定めるのは居飛車穴熊である。
当時振り飛車の世界を席巻していた居飛車穴熊に対してはこれという有効な対策はまだ見つけられていなかった。
藤井は一目散に玉を固める居飛車に対し、速攻は出来ないかと考えたのである。
95年12月22日B級2組順位戦藤井ー井上戦において世に出ることになる。
この一局は47手という短手数で藤井の圧勝となり藤井システムの優秀さが明らかになった。
藤井システムは玉の移動を後回しにして攻めの形を急ぐ指し方で居飛車が急戦にしても対応できるのが強みである。
また駒捌きも独特で角筋を陰に日向に利かして右桂や右香を主軸に居飛車の玉が不安定なうちに攻める。
この藤井流の理論は棋界を震撼させた。
藤井システムはその後、いくつかの工夫により先手番の作戦から後手番でも使えるようになり、
玉の位置も3九から4八、5九へと手を省略されるようになり、
居玉での戦い方も進歩することになる。
藤井システムはもともと対左美濃の作戦を指す言葉だったが、これより居玉での居飛車穴熊を警戒した駒組み全体を指すようになる。
なにより新しいのは序盤の何気ない駒運びの一手一手にまで藤井は息を吹き込み意味を持たせたことである。
この藤井システムは四間飛車の歴史を大きく塗り替えた一大革命と後世まで語り継がれるだろう。

13ー黄金期の再来
藤井の活躍によって将棋界は大山以来の振り飛車ブームが巻き起こる。
第2期振り飛車ブームである。
藤井は藤井システムを原動力に96年に新人王に輝くと
98年には挑戦者決定戦で羽生を破り、7番勝負では谷川を破り棋界最高位の竜王に就位した。
これよりトッププロでも四間飛車が指されるようになり羽生、谷川を中心としてタイトル戦において四間飛車が指されるようになる。
97年度は羽生の3局のみだったタイトル戦での四間飛車採用数が、
98年度99年度には7局になり、
続く2000年度には24局、2001年度には15局という激増している。
振り飛車党は藤井だけではない。
藤井の後を追って鈴木大介が99年に竜王に挑戦した。
久保利明は2000年から2001年にかけて棋王戦、王座戦で挑戦者になっている。
また杉本は2002年に朝日オープンで準優勝している。
大舞台で指されるようになると振り飛車が他の棋士にも浸透し徐々に採用率が上がった。
振り飛車を指すと強くなれないとまで言われた時代から四間飛車は誰でもさせる教養の時代へと完全に移り変わったのである。

14ー藤井システム対策と鈴木システム
藤井システムの快進撃を居飛車は指をくわえて見ていた訳ではない。
はじめは藤井システムは無理攻めだと見ていたが漫然と囲っていては駄目だと気づき、様々な工夫を凝らすようになる。
その最たるものは三浦弘行が指し始めたミレニアム(かまぼこ、かまくら、トーチカ、西田スペシャル)である。
居飛車穴熊に代わる藤井システムに強い新しい囲いの出現である。
角筋を避けたことで藤井システムの強攻を未然にかわしたのが大きい。
また流行の影には駒組みの途中で藤井システム側に△2二飛と回らせる事が出来る、駒組みの制約を与える味の良い手順が発見されたこともある。
他にも2002年型と呼ばれる▲8六角と早めに出て藤井システムを牽制する順や
早めの△6四歩を狙って▲5五角と出る戦型など様々な工夫が凝らされた。
その結果藤井システムでの速攻が常に出来なくなり以前の銀冠対居飛車穴熊の構図が再びクローズアップされてきたのである。
この戦型は藤井システムを指さない鈴木大介が継続して発展させてきていた。
鈴木大介は研究を深め、駒組みを工夫して居飛車穴熊の動きに合わせ柔軟な駒組みが出来るようにしたのである。
この鈴木の指し方は鈴木システムと呼ばれるようになる。
これにより居飛車穴熊は組むまでは藤井システムの速攻を警戒し、
組めたとしても今度は鈴木システムの相手をしないといけないという居飛車にとって容易ではない戦型に成った。
こうした情勢の変化で再び急戦も指されるようになる。
と言っても居飛車穴熊が消えた訳ではなく依然居飛車の最有力戦法として君臨しているのは事実である。

15ー四間飛車の現在
一時棋界を席巻した四間飛車だが現在はやや下火に成っている。
それは振り飛車党のタイトル挑戦がないことと指されすぎたことに因る反動が来たのではないか。
流れは三間飛車とゴキゲン中飛車へ移っていく。
三間飛車は佐藤康光が王将戦で採用し、純粋三間飛車党中田功をその自戦記の中で採り上げた事で優秀さが広まった。
ゴキゲン中飛車は鈴木大介や田村康介が勝って優秀さを広めている。
この二つの振り飛車が勢力を広げている。
つまり四間飛車を契機として総合的な振り飛車ブームへ移ったと言える。
これは大山の四間飛車連採による振り飛車ブームと同じ流れで興味深い。
升田式石田流を軸とする石田流も静かに復興の気配があるようだ。
この振り飛車ブームに対して必然の流れである相振り飛車も僅かに流行を見せている。
現在は振り飛車の流行は継続していて多様化に進んでいると思う。
この先居飛車穴熊のような戦法が現れることはもう無いだろう。
振り飛車は棋界の主流戦法として確かな地位を築いたと言える。
その振り飛車の中で抜群の採用率を見せる四間飛車はこれからも振り飛車を、ひいては棋界を牽引していくだろう。


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