今は去りし強者たち


 徳島でのJ昇格を目指して、チームは着々と強化をすすめました。しかし諸般の事情により、当面のJ昇格を断念することになり、主力選手たちは、一人二人とチームを去って行きました。彼らの活躍に対する、私の個人的な思い出を振り返ってみましょう。


MF 古川 毅

 ハデな活躍はしていないんで、あんまり印象は残っていないんですよね。小学校から大学までキャプテンを務めていたらしいんで、人をまとめる能力はあるんでしょうね。情熱でまとめると言うより、温厚さでまとめるとでも言うのでしょうか。さて、彼の経歴は、五戸高から仙台大学を経由して、95年春に大塚入社。一体どんなルートで入団にこぎ着けたのでしょうか。入団そうそうから、レギュラーに定着し、開幕11連勝や8試合連続無失点に貢献しました。とはいっても、センターバックをやったりボランチをやったりでしたが、1年目で28試合出場は立派でしょう。
 2年目の96年からは、監督の石井さんが総監督に、横浜マリノスのサテライト監督だったエジーニョが監督になりました。この監督交代に伴い、システムが大幅に変わりました。開幕戦でびっくりしたのは、本吉と古川がドイス=ボランチを組んでいたことでした。おおかた状況判断の良さを代われていたんでしょうね。わたしとしては、塩谷が抜けたあとの左サイドバックをやるかなと思っていたのですが。その年のJFLには、結局30試合にフル出場しました。つまり、出場停止になることなく、堅実にプレーをしていたということでしょう。
 さて96年の6月30日、対鳥栖フューチャーズ戦(鳥栖スタジアム)の観戦に行って参りました。そのころはまだ団幕を作っていなかったので、画用紙に「気合いだヴォルティス」と書いて張り出していた覚えが・・・前日の夜から雨が降ったりやんだりの嫌な天気の中でのナイターでした。試合はオウンゴールにより鳥栖が先制して後半へ。悪条件のためか、なかなかボールがつながらずやきもきします。でもってチョット距離があるけどFKをもらいました。ゴール前でもつれて誰かが押し込みゴール!反対側でよくわからなかったので、コールできませんでしたが、そのとき決めたが、彼でした。得点に絡む機会が少ないので、コールしてあげたかったな。試合の方は結局終了間際にバルデスにやられて負けてしまいましたけどね。
 ついで天皇杯3回戦、対横浜マリノス戦(テクノポート福井)でもやってくれました。鳥栖戦と同様先制されて後半へ。今度もフリーキックから誰かが頭で会わせてゴール。このときも反対側ゴールでしたので、誰かがわからずにコールできませんでした。この試合は関口のVゴールの印象が強いのですが、そこに至ることができたのは、彼を含めた守備陣の健闘があったからこそでしょう。それにしても数少ない得点シーンを2回も目撃しながらコールできずとは・・・
 やがてオフと共に去就が注目されます。結局、石井総監督、花垣(田渕)とともにコンサドーレ札幌へ移籍。守備の要と期待されていましたが、なかなかレギュラーに定着できませんでした。わたしとしては渡辺卓や梶野に負けるなんて考えられなかったんですがね。結局札幌も02年度末で退団しました。そのまま引退かなと思っておりましたが、山形の柱谷監督が拾ってくれました。やはり見ている人は見ているんですね。来年こそは、山形でJ昇格に貢献して欲しいと思います。

DF 平岡 靖成

 今でも覚えているのは、95年7月23日にナイターで行われた、対西濃運輸戦(長良川球技メドゥ)です。この日は、デーゲームでコスモ石油−東京ガス戦(四日市)を観戦してからスタジアム入りしたので、到着したときにはすでに試合が始まっていました。試合の展開の方は、蒸し暑い気候にあわせて、えらくもっちゃりとした展開でした。なかなかきれいにゲームメークができず、時間が過ぎ去っていき、気がつくと延長戦。延長戦に入っても、だらだらとした展開。その中で目に付くのが、パッタリと動かなくなった平岡君の足。「気合いだ平岡!」「シンドイのはどっちも一緒!」と煽りましたが、どーもこーもスタミナを使い果たしたようでしたね。それでも、最後の力を振り絞って、ピッチを駆け回っている姿が、今でも目に浮かびます。試合の方は、PK戦の末7−6で勝ちましたけどね。このスコアも凄すぎ。あ、それから、この試合で西濃の選手がちょっとミスをしたときに、「うん、戦術としては悪くないよ、次ガンバロウね」とほめてあげたのですが、逆に、「ウルセエ、コノヤロ」と怒られてしまった覚えもあります。
 閑話休題、95年のシーズンは、レギュラーと控えを行ったりきたりでしたが、95年の年末に行われた天皇杯で、当時ヴェルディ川崎にいたアルシンドを、きっちりマークしきりました。試合は敗戦でしたが、これで大きな自信を得たものと思います。事実、翌年の96年のシーズンは、見事にセンターバックの定位置を確保。川地・平岡・笠原・土居で鉄壁のディフェンスをしきました。
 んが、キッチリ育ったなと思ったのもつかの間、例によって例のごとく、Jリーグから声がかかりました。で、移籍先は例によって例のごとく、京都パープルサンガ。「センターバックが余っているのに移籍してどーすんの。出番無いで」と思っていましたが、中盤からはレギュラーを確保しましたね。「そのままレギュラーを死守して、元・大塚を存分にアピールしてくれ!」と思ったのもつかの間、京都名物の監督交代+選手大量補強により出番が無くなり、ついには追われるように大分トリニティへと移籍しました。
 大分に移籍してからは、守備の要として水を得た魚のような活躍だったようです。ところが、名古屋グランパスが、例の3人組を切ったことにより、守備が手薄になり、平岡君に声がかかりました。最近は出たり出なかったりのようですが、何とかしてレギュラー定着をアピールし、意地を見せていただきたいものです。

MF レェ

 「ホナルト(ドドドン)フランシスコ(ドドドン)ル(ドン)カ(ドン)ト(ドドドン)レェ!」いやー、今聞いても、新鮮なコールですね。本名(ホナルト=フランシスコ=ルカト)とあだ名(レェ)を織り交ぜた、素晴らしいコールです。このコールを94年10月13日に、ユニバー記念競技場で聞かなかったら、果たしてサポーターになったかどうか。
 それはさておき、レェさん。いい選手でした。94年に、チーム強化をすすめていた、大塚製薬FC(当時)が「若手日本人選手に、プロ根性をたたき込める中堅選手が必要」ということで、石井監督(当時)自らが選んできました。ドリブル良し、パス良し、シュート良し、もちろん、石井監督の期待通り、若手選手の教育係も果たしてくれました。95年のシーズンには、16得点で、チーム得点王にもなりました。
 プレーだけじゃなくて、人間的にもいい人でしたよ。94年の開幕前には、選手を集めて鮎喰川(徳島市球技場の麓を流れる川)の河原で必勝バーベキュー大会を開いたりなど、チームリーダーの役目を果たしてくれたし、我々サポーターに対しても愛想良くしてくれました。(もちろんわれわれも、守るべき一線は、踏み越えなかったけどね。)そうそう、四日市でのコスモ石油四日市戦のあと、シャワーを浴びている姿が磨りガラス越しに外に丸見えで、見ていると、選手同士でふざけあっているようで、とっても微笑ましかったです。思わず写真を撮ってしまいましたね。選手アンケートでは「スケベナンバーワン」と呼ばれていたけど、その片鱗を魅せてくれましたね。
 レェさん大活躍!でよく覚えているのは、96年のシーズンの開幕戦でしょう。前年度最下位の、西濃運輸との試合でしたが、ノーガードの打ち合いとなってしまいました。前半だけで、3−3。そのうち2点がレェさんでした。後半は特に動きもなく淡々と進んでいましたが、89分相手ゴール前で直接FKのチャンス、蹴るのはレェさん。固唾をのんで待ちかまえていると、ボールは芸術的なループを描いてゴールの中へ。このあとの大活躍が期待されましたが、第8節の甲府戦で負傷退場し、そのシーズンを棒に振ってしまいました。長いリハビリからの復活は、天皇杯4回戦でのヴェルディ川崎戦でした。さすがに調子が万全でなく、見ているこちらも悲壮感を感じてしまいました。
 この年限りで退団・ブラジルへ帰国し、現在はとあるサッカークラブの社長をしているそうです。いつかは、「ヴォルティス徳島FC」の関係者として、再び日本の地を踏んでもらいたいです。
 皆さん。私は「レェ@偽物」を名乗っていますが、本物はこんな人だったんです。なかなか言葉で説明するのがむずかしくって、はがゆいです。


FW 吉田 悟

 「もうちょっと、どうにかならんかなぁ」というのが、彼に対する印象です。初対面から、チームを離れるまで。
 95年のシーズンに、横浜マリノスからの移籍で徳島へとやってきました。この年はJリーグを目指して積極的な補強をした年で、彼も即戦力のFWとして期待されました。結果は25試合に出場し、2得点。90分間フル出場が少なかったし、ポジションが一.五列目なので、仕方ないかも知れません。しかし、スピード、テクニックとも優れた選手だけに、少し期待はずれでした。
 彼の持ち味は、その素晴らしいテクニックです。良いときには、本当にきれいに、スパッと決めてくれます。悪いときには、あっさりと奪われます。その奪われ方が、あまりにあっけないので、落胆を呼ぶのかも知れません。
 落胆と言えば、彼は非常に「勝負弱い」です。GKとの一対一を、よー決めません。97年のシーズン、徳島は川崎フロンターレとの試合、ホーム・アウェーどちらも0−1で破れましたが、どちらの試合でも、彼はGKとの一対一をはずしています。特に、アウェーでの試合は、インサイドであわせるだけで良かったのに...わたし、今でも悔やんでも悔やみ切れません。だから、「どうにかならんのかなぁ」となるわけです。
 話は元に戻って、テクニックですね。96年のシーズン、徳島の関口隆男選手が日本人得点王に輝きました。ジュニーニョが、関口をうまくつかったということもありますが、吉田のアシストも忘れちゃいけないでしょう。一.五列目の位置で、精力的にサポートしていましたよ。97年には、吉田がジュニーニョの代わりにゲームメイクをして、関口を再び日本人得点王の地位につけました。関口・磯山といった快速FWをうまくつかっていたんじゃないかなと思います。もっとも、調子が悪いときには、ボールを持ちすぎて自滅していましたが。
 98年のシーズンからは、そのテクニックを買われてヴァンフォーレ甲府へ移籍し、背番号は10番をつけるようになりました。「背番号負けしなきゃ良いがな...」と思っていましたが、やっぱり負けちゃいましたね。99年のシーズンは、またもとの吉田悟に戻って、大暴れして下さい。期待していますよ。

FW 磯山 和司

 初めて彼のプレーを見たのは、1997年8月17日(日)大分市営陸上競技場での、JFL第16節、大分−徳島戦でした。別府温泉で砂風呂などを堪能したあと、競技場に乗り込むと、すでにスターティングメンバーのボードが出されていました。そこに「11 磯山」と書いてありました。「誰?それ」というのが、第一印象でした。
 選手が入ってくると、確かに11番の選手がいました。「どこから探してきたのかな?使えるのかな?」と思っている内に試合が始まりました。プレーが始まると、「いいじゃないか」という感想に変わってきました。徳島一の身長を活かしたポストプレー、大きな体なのに、とても柔らかいボールタッチ、スペースへ飛び出すときのスピードの速さ、どれもが、「ええやん、ええやん」の連発につながりました。その試合では、得点シーンはなかったものの、今後の活躍に期待を抱かせました。
 翌日家に帰ってから、サッカー誌を読むと、「ブランメル仙台の磯山、ヴォルティス徳島へ期限付き移籍」とあるじゃあないですか。あわてて、JFLブックを取り出すと確かにブランメル仙台32番磯山和司とあります。選手の余っているブランメルと、FW不足に泣いているヴォルティスの利害が一致したレンタルだったのでしょう。
 その後、私が見に行った試合で、彼は大活躍してくれました。第21節の、鳥栖−徳島戦では、降りしきる雨の中精力的に動き回り、後半12分に、ロングボールに持ち前のスピードで食らいつき、足を思い切りのばして放ったロビング気味のシュートが決勝点となり、四名のサポーター及び片岡功二父兄組は大喜びしたものでした。また、23節のデンソー−徳島戦でも、私の目の前で決めてくれました。
 忘れてはいけないのは、1998年7月18日(土)夢の島競技場でのJFL第11節、東京ガス−徳島戦でしょう。それまで10連勝を続けてきた、東京に対し、一進一退の徳島が挑んだ試合です。両チームとも決め手を欠いたまま、延長戦に入り、徳島は健さんが二枚目のイエローをもらって退場、劣勢を強いられていました。しかし、延長後半13分、アウミールが中盤からドリブルで攻め上がり、DFを振り切って、中央へ折り返したところへ、磯山がスライディングでボールをゴールへ蹴り込みました。徳島サポーターが狂喜乱舞して阿波踊りを踊っていましたが、その一角以外は沈黙に包まれてしまいました。
 また、「ヴォルティス徳島」として最後のゲームとなった、第78回天皇杯3回戦、徳島−横浜F戦でも、闘志あふれるプレーを魅せてくれました。後半13分に右サイドで強引にボールを奪い、ドリブルで持っていって、中央のアウミールへパス。アウミールから、ゴール前走り込んだ磯山へボールが出たときは、「もらったー!」と叫んでしまいました。
 私としては、是非とも残って欲しい選手でしたが、チーム事情が許さず、大宮アルディージャへの移籍となりました。あのチームもFWで苦労しているから、きっとチャンスはあります。J2での得点王を目指して下さい。新天地でがんばれ!「決めろ!磯山大作戦!」

 結局大宮も戦力外ですか・・・引き取ってくれるところあるのかなぁ?


GK 櫛引 実 

 恵まれた体格と、抜群の反射神経でヴォルティスのゴールを死守してきました。東芝(現コンサドーレ札幌)から移籍してきた当初は、第2GK的存在でありました。しかし、ロビンソンGKコーチの指導によりメキメキと力を付け、押しも押されぬ守護神となりました。
 彼の活躍した印象の残っているゲームは、1995年の天皇杯1回戦、対ヴェルディ川崎戦ですね。今でこそ凋落傾向にあるヴェルディですが、当時は超強力チーム。片や当方は、95年JFLでは5位のチーム。実力差は歴然としていました。が、持ち前のしっかりしたディフェンスがこの試合では発揮され、0−0が続きました。
 ゴール前の直接フリーキック。一瞬逆をつかれても、すぐに反転してパンチングで逃れたり、「ヒーッ!」と思った直後には、「ホッ」とするのを繰り返したものでした。しかし最後は、後半44分に、武田に決められ、0−1で敗北。不覚にも私は涙を流してしまいました。
 次の日、私は営業車の中でコンビニ弁当を食べながら、日刊スポーツを読んでいました。すると小さな記事が一つ。「京都、櫛引を獲得」。うーん、なってこったい。それで昨日、ユニフォームや手袋を投げ入れていたのかー。でも京都も、森下が年だからレギュラーをとれるかもな。がんばれ!と気持ちを切り替えたものでした。
 京都に移ってからは、第2GKと第3GKの間を行ったり来たりしていますね。森下がけがをしたときなどが数少ないチャンスでしたけど。しかし、何で京都も松永や中河をとってくるの!これじゃあ櫛引の立場がねーよ。
 てな事を言っておりましたが、なんとまあ、戦力外通告ですか...どこかから、声がかかるのを待ちましょう。
 と、思っていたら、アビスパ福岡への移籍が決定しました。「うん。あそこは塚本が故障しているから、れぎゅらーのチャンスやで」と一安心していたところへ、「ベルマーレ平塚の偽イラン人GK小島、アビスパへ移籍」のニュースが...いいかげんにせーよ、菊川のオッサン!


DF 塩谷 伸介

 近畿大学から入団した当初は、レフティーのFWというふれこみでした。しかし、石井監督(当時)はそのスピードとパワーに目を付け、左サイドバックにコンバートしました。その期待に応え、徐々に力を発揮し、94年のシーズンは17試合出場と準レギュラーになり、95年には29試合出場と完全にレギュラーの座をつかみました。
 守って良し、攻めて良し、本当に魅力的な選手でした。徳島の選手の中で、初めてファンになったのが彼です。95年の天皇杯では、左サイドを駆け上がり、中央ワグネルへのセンタリングなど、数少ないチャンスを作り出したものです。
 96年3月某日。京都−徳島の練習試合があるというので、友人と二人で滋賀県八日市まで出かけました。開始前は晴れていたのに、途中から吹雪になるなどさんざんな天気でした。試合は30分3セットで、レェさんのゴールなどで3−0で勝ちました。「おいおい、京都、開幕近いのに、こんな調子でいいんかい」と思いましたが、そのシーズンの京都のJリーグでの結果はみなさんご存じの通りです。
 試合後引き上げてくる選手を待ちかまえて、「お疲れさま」「今年も頼むで」などと声をかけていましたが、塩谷だけ、グラウンドで京都のオスカー監督(当時)と話し込んでいて、なかなか引き上げてきませんでした。友人と「何話してんだろうねー」と言っていましたが、Jリーグの開幕日に会話の内容がわかりました。
 Jリーグ開幕戦、川崎−京都戦を見ようとテレビをつけると、スターティングメンバー紹介で、京都パープルサンガ背番号6 塩谷伸介とあるではないですか。アナウンサーに言わせれば、「3日前に移籍したので、写真がありません」とのこと。唖然としました。
 その後はレギュラーと準レギュラーを行ったり来たりしていますね。彼の実力なら、もっともっとやれるはずなのに。がんばれ!塩谷伸介!
 と、思っていたら、ガンバ大阪へ移籍ですか。まああのチームも左サイドバックに困っているから、チャンスですね。心機一転、レギュラーをとれ!

 えー、結局レギュラーは難しかったみたいですね。その後フットサルに転向したようですが、元気なのでしょうか?  


DF 花垣 龍二


DF 本吉 剛


MF ジュニーニョ


MF 土居 義典


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