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ボーイズリーグ中学3年、引退して一ヶ月、しかし、試合に出ないだけで、引退ではない。更なる強化練習の真っ最中!3月までの残された時間、父子二人三脚、奮闘

2005年12月31日 (土)  年の瀬

潤を午後3時に起こした。少々の無理はしても、発育期、睡眠は大事である。潤が寝ている間に、ごまめを炊き味噌雑煮の準備をした。長男とは相変わらず連絡が取れない。どうしたものか諦めている。チョロ松は大分メイとなれ、もうすっかり兄弟だ。チョロ松は最近やられるばかりではなく、仕掛ける事もある。以前のようにメイ対して恐怖心を抱いていないのが分る。2匹が並んで日向ぼっこしている。チョロは手足を前後に伸ばしマグロ状態で寝ているから笑える。全く警戒しなくなった。2階に上がり潤を起こした。悪夢にうなされている様に、機嫌が悪かった。しかし、リビングに下りてきたときは、ジャージを着て、いつもの潤だった。「やっべ、身体がぶち痛い。」と言いながらリビングに入ってきた。雑煮を作った。とりにくを沢山入れた。かまぼこは5枚入れた。5の数字に拘っているからである。2005年、背番号5、5番打者、60本÷12ヶ月は5本/月そのことは言わなくても分っていた。もちは2個だけにした。今はリカバリーも必要だ。たんぱく質を多くとって欲しい。夕べ、いや、朝寝る前に、クレアチンパウダーを飲ませた。そしてプロテインも飲ませていた。潤は「クレアチン飲んで寝たから、大分楽だよう。」気休めにそう言ってみた。食後、グランドでキャッチボールをした。1辺が60Mのグランドは既にサイズが小さくなっていた。対角線でキャッチボールを行なった。使う筋肉が違うのだろう。右投げだし、対して、筋肉痛を思わせる節は無かった。最後に守備練習をして、練習を終えた。既に夕方5時を回っていた。今からバッティングセンターに出かけなくてはならない。到着は6時頃、後6時間しかない。今日の営業は2006年1月1日午前5時までだが、それは、潤も私も共通の認識で今年中に60本打つことに意味があった。いつものように吉野家に行き、腹ごしらえをした。サービス券はお午後3時まで有効だったので、使えなかった。まぁ仕方が無い。結局、バッティングセンター打劇王に到着したのは午後6時半だった。潤を先に行かせた。私は例の如く30分車の中で待機した。潤の好きなX-JAPANを聞いた。X-JAPANは激しい曲が多いが同時に何かもの悲しい曲が多い。ここ数日、かなり振り込んでいるので、どこか故障しないか心配だった。手足の皮は如何でも良い。疲労骨折や、筋肉にダメージを受けまいか心配だった。車を降りて、潤が打つ4番ケージに行くのに勇気が行った。何処も見ずそこに真っ直ぐ歩いて行った。周りとは対照的に、赤いT−シャツの潤が1球終えるごとに、足元をふらつかせながら振っていた。たかがバッティングセンター、周りは、若者の笑い声があふれていた。どうしてそこまでやる必要があるか、他の者には分るまい。後数時間で開放されると思ってか、腹を据えたのか、私が居ると気付くと、いつものバッティングに戻っていた。私は潤に声を掛けた。「良いじゃん、綺麗に強い打球を芯で捕らえているよ。」既に140キロは何とも感じなくなっているようである。インハイが来ても避け様としない。見切っているように思えた。そんな無駄な力を注ぎたくなかったのかもしれない。斜め後ろの二組のアベックの女性が、連れの男性のバッティングを見ずに、「凄いよあの子っ!」といって、ケージの後ろの隣ベンチに座って、潤を見ていた。それぐらいの打球をバンバン打っていた。また、ある人は、ランキングボードの59本を見て、連れと話していた。後ろで待っていた高校生は、遠慮がちに1ゲームだけ行なうと行ってしまった。相手に出来ないといったところだった。午後10時を過ぎて人が減った。テレビでは年末の色んな行事が行なわれている事だろう。そんな世界とは、関係がなかった。23時ついにその時が来た。HRボードの左上に一直線に打球が当たり、正面に跳ね返った。昨日も反応しなかった場所だ。ボードは2秒程間を置いて、109Mを示した。同時にHRの音楽が流れた。またダメかと思った瞬間だった。普通ならセンサーが飛距離を掲示後数秒置いて音楽が流れるのだが、殆ど同時だった。潤がケージの中でガッツポーズで笑った。「やったー!」ケージから出てきて、直ぐにフロントに行った。やきもきしていた店員からも祝福されていた。今日の事は忘れまい。たかがバッティングセンター、しかし、如何向き合うかは、自分の考えで意味や密度は変わって来る。まだ間に合う。時間は11時18分だった。幟町のカトリック教会に車を走らせた。24日に神父様と約束していた。新年また来ますと。潤が打たなかったら朝5時まで続けていたと思う。新年最初のミサに間に合った。大勢の人の中聖堂の入り口でそのベルギー人神父と偶然出くわした。前の方に行きなさいと勧められ、左前方に行った。(続く)

2005年12月31日 (土)  年の瀬(続き)

潤はひざまづきお祈りしていた。私も潤も洗礼は受けているが、殆ど何も勉強等していない。「父さんここは心が落ち着くねぇ。昔、ワシ、あの祭壇の上で白い服着ていたねぇ。」「母さんがおった頃、地下室の礼拝堂に良く行ったねぇ。どうしてそこじゃないの?」「あそこは、英語のミサなんだよ。ワシらは、日本人だから、ここで良いの。」車の中で、何をお祈りすれば良いか潤に話した。お祈りとは、願い事をするのじゃなくて、地域社会や、自分が平安に生きてこられた事に感謝して、テロや災害で両親をなくした人たちの事や飢餓で苦しむ人たちの事を考え、神様にお礼を言う事なんだよ。完全な人間は居ない。悪口だって言うし、投げやりになる事だってあるだろう。その事を反省しそれでも親子で平和に野球が出来きるのだから、自分が野球で苦しくても野球をできる事に感謝しなければいけないし、自分には人とはちょっとだけ違う秀でたものがあるのなら、それを授かったチャンスを無駄にしてはいけない。自分は恵まれている。そう思えば、頑張れるだろう。そして、最後に、明日も良い日になるように感謝するんだ。ミサが進み、数年、来ていなかったので、ミサの祈りの言葉が、今風に変っているのに気がついた。新年最初の食事が聖体配慮のパンだった。潤は美味いと喜んでいた。ミサが終わると年越しそばが聖堂前で配られる。ドラム缶に薪がくべられ、そこで新年を祝いながら蕎麦を食べる。色んな国の言葉が飛び交っていた、勿論分る言葉もある。潤の母親の母国語だった。潤は腹が減ったと言い早く協会を出たいようだった。また五日市の吉野家へ行った。私のなりは汚かった。その事が吉野家のウインドウに写って分った。二日風呂に入っていなかった。潤からイブに洋服をプレゼントされていた。今は午前2時、潤は、新年はそれを着て欲しかったと言った。まだ、一日は終わっていないよ。一回寝て起きたら正月だ。

2005年12月30日 (金)  あたらない

昨日は朝まで32ゲーム800球打ち込んだ。仕事を4時に終え帰宅した。潤の友人3人が遊びに来ていたが、潤はリビングで家庭教師の宿題を行なっていた。みんな私の顔を見ると、失礼しますと言って帰っていった。7時半に先生がやってくる。私は夕べ2時間しか寝ていなかったのでお茶を出すとリビングのソファーに横になった。先生が帰った後、吉野家で腹ごしらえした。バッティングセンターの営業時間は、年末年始は午前5時まで営業している。午前0時にまでHRが出なければ、後残り1日となる。プレッシャーがあるようだった。なんだかシーズン中の打てない時のプレッシャーに煮ているようである。行なわずして、大きな壁にぶち当たっているかのようだった。食後暫く車でⅩ−JAPANを聞きながら過ごした。私は眠くなり車で仮眠した。30分程してバッティングセンターの4番ケージの前のベンチに座った。潤がふらふらしながら打っていた。携帯の時計を見た。00:37と表示されていた。あれ?壊れているのかな?潤の置いてある携帯の時計も見てみた。同じ時刻を示していた。理解できなかった。暫くして、正気に戻った。自分が思っていたよりも、とっくに時間は過ぎていたのだった。午前0時をまわり59本のままだった。後23時間ちょっとだ。段々ゲームとゲームの感覚が長くなっていった。途中バットを置いて、四つんばいになって、背中を伸ばすストレッチを行なっていた。両肩も痛いらしい。腰を押さえながら、独り言を言っていた。右の的の左上にぶち当てたのだが、センサーが反応しない。バンっと音を発てて前に跳ね返ったのに・・・。仕方が無い。条件は皆同じだ。券がなくなると直ぐにポイントカードを持ってカウンターに行った。3000円券1枚14ゲームでは直ぐに終わってしまうので2枚ずつ買った。ポイントが直ぐにたまり、サービス券が3枚ついてくる。午前3時を過ぎ人が疎らになった。バッティングを行なっているのは潤一人だけとなった。他の客はアベックで2階でサッカーやテニス、卓球それとフロント前でダーツを楽しんでいた。バッティングセンターの店員の視線が気になった。ふらふらしながらやっているので、心配そうに遠巻きに見ていた。980gのバットをずーと振り続けていた。プロでも920gぐらいだ。既に1000本を越えている。時々ホームチェックのために半袖で外に出て行った。きっとこの悪夢のようなトンネルから抜け出したいと、外の空気を吸いにいったのだろう。蛍の光が流れてきた。相変わらずふらふら振っていたが、覚悟を決めたのか、いつものように力強く振り始めた。午前4時45分閉店放送はなっていても客は潤と私しかいない。余り意味をなしていなかった。蛍の光が流れている最中3ゲーム行なえた。私は、見ていられなくなり、店員に挨拶し、先に車へ戻った。暫くして潤がバットを抱えて、Headのトレーニングウエアを着て出てきた。今日は当たらなかった。54ゲーム行なった。後チャンスは数時間しかない。2005年大晦日、HRを59本で終わらすか60本に乗せるかは何れにせよ、きっと生涯忘れない記憶として潤の心に焼きつく事だと思う。この思いを潤のこれから揉まれるであろう将来の困難に立ち向かう勇気に変えて欲しい。1350球980gで振った。打球が遅いと反応しない的だ。身体は既にパンパンに張っている。高校野球対応のバッティンググラブは二日で穴が開いた。ボトムハンドの親指付け根部分が見えていた。吉野家で再び食事をした。もう朝だった。

2005年12月29日 (木)  59号

表面上は今日で仕事収めで2時から納会となった。昨年から酒がでなくなった。飲酒運転の可能性があるからだ。ジュースで乾杯し寿司を食った。あぁ今頃、潤は、カップ麺でも食っているのだろうなぁ。ホットドッグのパンとバジル入りソーセイジを買って置いたけど、食べないだろうなぁ。納会を終えて4時に帰宅した。潤が腹を空かせてまっていた。自衛隊進学の友人が遊びに来ていた。自衛隊の学校は勉強を教えてもらって、給料を貰えるらしい。体力も要るらしい。勉強も出来ないとダメらしい。色んな生き方がある。潤の話だと、海外派兵は絶対に行きたくないらしい。潤が笑って言っていた。何れは防衛大学を目指しているのだろう。庭の植木を刈った、今年は剪定していなかったので延び放題の汚らしい家になっていた。友達がいなかったらキャッチボールでもしていただろう。メイを庭に放した。時々道路に出るが遠くには行かない。友達が既に帰り、日が落ちて暗くなっても、メイは側にいて作業中の私に尻尾を振っていた。もう帰りたくなるなるのだろう。時々鼻をならした。ゴミ袋5杯分の葉や枝を刈った。これで少しは綺麗になった。潤が腹を空かせて2階から降りてきた。食事は作っていない。相変わらず外食の日々だ。今日もそうなるだろう。バッティングセンターに練習に行った。人があふれていた。これでは練習にならない。3ゲームだけ行い。先に飯を食いに行った。焼肉だ。そこも人であふれていた。腹ごしらえの後、再びバッティングセンターに練習に行った。大分人が減った。既に22時をまわっていた。現在、このバッティングセンターでの年間HR数は58本だ。後2本で60本の大台に乗る。昨年度までの最高が27本なので、既にそれを大きく上回っている。今年中に60本以上打つと願をかけた。これは潤にとっての受験と同じなのである。たかがバッティングセンターのHRの的だ。普通の人なら遊びの対象だ。しかし、、潤は遊んで飯を食おうとしている。だから遊びではない。自分との真剣勝負なのだ。センサーが鈍く、端に当たっても反応しなかった。午前2時を過ぎて漸く59本目が出た。後一本が遠い。午前3時半まで行なった。私は明日も出勤だ。そのため寝なければならない。吉野家で豚しょうが焼きを食べた。私は豚丼だ。既に4時半を回っていた。

2005年12月28日 (水)  インフルエンザ2回目

2回目の予防接種を受けさすために会社を早退した。問診があるので親が行かなければならない。面倒くさいが、早く退社できるのでちょいと嬉しい。午後4時20分家に着いた。潤を車に乗せて、しのはら小児クリニックへ向かった。5時ぎりぎりに到着したので潤と私らだけだった。先週は混んでいた。もう著い遅ければ閉まるところだった。無事予防接種を終えたが、36度8分とちょっと高めの体温なのが気になる。帰りに本屋により、ベースボールマガジン社のベースボールクリニックに目を通した。広告が出ている。私が撮った外○場さんの写真や、コンテンツがちゃんと載っているかを再度確認した。あぁ、大丈夫だ。それにしても売れていないなぁ。もうちょっと目立つところに置いて欲しい。立ち読みを終え、スポーツ用品店に寄った。ここは潤が小学校の時から利用しているところだ。学校指定のスポーツ洋品店で体操服やズックはここで買っていたので店員とも親しい。型落ちの硬式バットが並んでいた。半値にまけると言う。買ってしまった。バッティンググラブとグリップ二本と縄跳びだ。全部で2万円、全部ローリングスだ。縄跳びはアシックスだから、まぁ、一緒かぁ。昨日潤にHEADのスポーツウエアを3千円で購入していた。潤のトレーニングウエアが小さくなっていた。店頭にローリングスのトレーニングウエアが飾ってあった。約8千円、これを勝ってやりたかったが、スーパーの特売のHEADのスポーツウエアで勘弁してもらった。今日の練習は予防接種の後なので、バッティング練習は軽めに行なった。またも外食。

2005年12月26日 (月)  【掲示版について】

各位
この度、掲示板を会員制に戻しました。
サーバー事故の際、会員情報が全て無くなりました。
現在、掲示板を見れない会員の方は、大変お手数なのですが、もう一度
kodama.comでid,passを入手して下さい。その後、私にメールで
idをお知らせ下さい。尚、kodama.comでidを取得して頂かないと、
私の方の会員登録作業で、エラーデータとして弾かれてしまい、登録できません。
宜しくお願いします。事故の経緯はkodama.comの「お知らせ」に記載されています。
今後とも宜しくお願いします。
以上です。                  広島nslittle

2005年12月22日 (木)  カレンダー

朝の大雪で普段バイクで20分の道のりなのに2時間50分も掛かってしまった。路面凍結で危ないと思って車で出勤した。案の定渋滞で潤を三和中学まで送ったは良いが、三和橋を過ぎて新幹線ガードを潜る300m進むのに50分も掛かってしまった。会社に着いたのは10時半だった。いつもより早く出たのに〜。夕べ、高校の願書を書いた。今日はそれを持って潤は登校した。受験高校は一つだけである。折れるとまずいので、A4の封筒に入れ、かばんには入れずに手で持って行った。あぁ、これで、潤とも3月後半にはお別れだ。出勤したのが遅かったので、仕事が捗らず、退社は部内で一番最後になった。久しぶりに家で夕飯を食べた。豚しゃぶを作ってやった。家で食べた方が、添加物等の心配がなくてよいなぁ。9時半に家を出た。練習に行くついでに書店に寄った。ベースボールマガジン社発行のベースボールクリニックを見たかった。私が協力しているNPO法人の広告が出ているからだ。この中の写真や、オブジェクトは一部私が作ったり提供していたので是非見たかったのだ。NPO法人のホームページアドレスの記載が無かったので、ちょっと残念だったけれど、構成としては良くできていた。bbm社のKさん、ありがとう。潤はベースボールクリニックは目を通しただけで買わずに、中高生のための何とかと、MLB1月号を買った。A−ロッドとボンズが乗っていたからである。カラーのカレンダーが気に入ったようだった。残り1冊だった。バッティングセンターでは、すこぶる調子が良かった。タイミングの取り方がよかった。リトルリーグにいたころのようにボンズのまねをして打った。ここ最近バットを立てる事、外角休でも右脇を絞り右ひじが上がらないようにしてヘッドがなるべく頭から離れないようなスイングを心がけていた。付け加えると、左脇は空けて、思いっきり、フライングエルボーである。このれんしゅうをしてきたので、ボンズスタイルで久しぶりに打ったが。右肩が上がらず、面白いように打球が飛んだ。リトルのころフリーバッティングで何十本も策超えをしたように打球の勢いが違った。それと以前はスライスが多かったが、これは、まったくといって良いほど無くなった。ヘッドを立てて、右肩、ひじが上がらず、軸で回転する事ができるようになったからだと思う。今日もHRに当てた。単独首位になった。家に帰って、潤は画鋲を探していた。何に使うか聞かなかったが、わかっている。A−ロッドのカレンダーを張るに違いない。

2005年12月21日 (水)  飲み会&雪

潤のインフルエンザの予防接種のため、会社を3時50分に早退した。潤は三和橋のたもとでちょこんと待っていた。20分ぐらい待っていたらしく、寒くてガタガタ震えていた。病院は、予防接種を受ける人でごった返していた。先生が言うには受験生ならもっと早く来ないといけなかったそうだった。来週は2回目の摂取がある。喘息のインタールを2本処方してもらい、風邪気味だったので抗生物質を出してもらった。今週もかなり無理をしている。病院を出て、うどんを食いに行った。もうちょっと、蛋白質を採って欲しいのだが、うどん定食を注文した。風邪気味なので、あっさりしたのが良いのだという。まぁ、しょうがない。その代わり、明日の朝は、焼肉だぞっと言うと、食わんと切り替えされた。腹が満たされたので潤は車の助手席で直ぐに寝息を発てた。夕べは寝不足だ。今日は、水曜日だが、家庭教師の日だ。今しか眠れない。家に着く頃には、先生がやってくる。私は、エンジンを着けたまま、日用品を買いに行った。潤を7時に家に送り届けると、私は飲み会の為に、ダイヤモンドシティーのキリンビヤガーデンに出かけた。2時間飲み放題コースで会社の行事だった。時間が気になった。早く帰りたい。外は、予報が的中して、瞬く間に路面が白くなった。窓の外は雪だった。やっと9時40分お開きになった。紙屋町交差点を2号線に向けて走った。バイパスに乗ったが失敗だった。殆ど動かない。高須で降りて、わき道を走った。田方から美鈴が丘に抜ける坂道は車が5,6台、八方を向いて立ち往生をしていた。ノーマルタイヤではこの坂道は登れない。いい迷惑だった。お土産のたこ焼きが冷めてしまう。結局深夜の帰宅になった。早ければ、潤と本屋にでも行ったのに、残念だった。

2005年12月20日 (火)  喧嘩

今年は雪が多いけど、スタッドレスを履いているので、外出が楽しい。バッティングセンターにいつもの様に練習に行った。久しぶりにHRボードにぶち当て、賞品の無料券を貰って潤はカウンターから帰ってきた。それからは緊張が解れたのか、後ろで見ている私を振り返りながら練習していた。つまり、一球一球私の反応を伺いながらやっているのである。その事に私は頭に来た。潤の気持ちも分らなくはないが、それは練習じゃない。投手との真剣勝負だ。1ゲーム終ってから振り返るなり、ケージからでて、感想を聞くなりすれば良い。私は、見るのをやめて車の中でねっころがっていた。すると雪が降っているに、半袖のTシャツで車のところに文句を言いに来た。言い合いになりワシは頭に来て、車を走らせ帰宅した。家に着くと直ぐに灯りを消して、布団の中に潜り込んだ。潤はTシャツとフィラのジャージのズボン。上着はオレンジ色のニットのパーカー1枚だ。心配だった。12時半を過ぎても、戻ってこない。家には午前2時前に帰って来た。高校まで3ヶ月だ。無事に乗り切って、全てOKの状態で送り出してやりたい。

2005年12月19日 (月)  休み

殆ど連日、野球練習帰りが午前様だったため、多分疲れが出たのだと思う。それに、昨日はスキーに連れて行った。金曜の晩から、潤は鼻をグシュグシュさせていた。土曜日は、私が出勤している間中、潤は寝ていた。ワシは電話で、明日スキーに連れて行ってやるから、具合は直しておけといったからだった。それで、昨日は鼻が詰まったまま、スキーに行ったが、今日は、やっぱりダウンしてしまった。もう、成績は貰っているので、まぁ良いかぁ。高校受験に響かなければ良いがぁ。ちょっと欠席が多すぎる。野球でかなり休んだから、ちょっと不安だ。欠席日数が片手と少々いってしまった。それでも、私が8時頃帰ると、しっかり寝たから練習に行こう、腹減ったと階段を元気良く降りてきた。昼はカップヌードルと玉子ご飯を食ったという。インスタント食品が多いのが気になる。今晩も外食だ。ガストに行った。潤はトンカツを食った。そしてデザートのフルーツを食った。ワシは、ピザ一枚。コーヒーを飲みたかったが、最近は節約するようにしている。バッティングセンターの缶コーヒーを後で飲めば良いと思った。インハイ、アウトローの練習をさせた。今の課題はヘッドを立てること。A−RODの連続写真がお手本になっている。病み上がりなのに10ゲーム行なった。結局今日も御前様だ。家に帰ってプロテインを飲んで寝た。

2005年12月18日 (日)  スキー

庭に30センチ程雪が積もった。まだ暗いうちに家を出た。この冬最初のスキーに行った。191八幡高原スキー場だ。大雪で山陽道が通行止めのため、休日なのに随分空いていた。リフトの待ちは殆ど無い。リフトに40回ぐらい乗っただろうか。へとへとに草臥れた。以前は、潤を気遣って、自分の好きなように滑れなかったが、学生時分以来だろうか、こんなにガンガン滑ったのは。潤はもう一人で滑れるので、潤を待つ事は殆ど無い。一緒に滑って、一緒にリフトに乗るのを繰り返した。受験生だけど、まぁ良いかぁ。何より、今昨日から雪が積もっていた為、今日の野球練習は中止のため、トレーニングの意味で、スキーに連れて来たのだった。この雪では、外を走る事も出来ない。夕方は吹雪になり、4時には、照明が灯された。今日はプレオープンでナイターは無いのだが、暗くなったため、灯されたのだった。吹雪で殆ど滑る人は居なくなった。夜間照明が、緑や黄色オレンジ色の光を放ち幻想的だった。粉雪で滑走状態は非常に良かった。潤が父さん今日はありがとうと言ってくれた。車の中で、「父さん泣かない?」と聞いてきた。言わずと分る。「泣かないよ。」宮崎行きの事だ。今潤は、思い出を胸の中に焼き付けて居るんだろうなと思った。聖湖から深入山の辺りは道路の両脇がラッセル車が積み上げた雪の壁が1.5mから2mぐらいの高さに迄なっていた。相変わらず雪は降っていた。道路はまるでボブスレーのコースのようだった。雪の壁がヘッドライトに照らされて美しい。ここはいったい何処だろう。小さい頃、行った万座や草津、志賀高原の事を思い出した。それが今の潤ぐらいだった。

2005年12月15日 (金)  三者懇談他

ここ一週間寒波が凄い。2時半に会社を早退した潤の2学期最後の三者懇談だった。体育の欄に一つだけBがあった。思考・判断の部分だった。これは、何のことだろう。知識理解や技術的なことは全部Aなのだが・・・。選択の体育も全部Aだった。先生が言うには、体育の授業の段取り、手伝い、片付けの部分という。つまり、周囲への配慮や、自分が主体的に取り組む為には如何しなければならないのか、また自分が行った後の始末と言ったところだ。高校に行ったら自分で考え主体的に取り組まなければならない。日常生活に於いてもだ。本当に、伸ばして行かなければならない部分だと思う。夜、社会人クラブ野球の打合せがあった。10月まで某球団の二軍監督だったK氏と会った。パソコン片手に、スタッフ数名でミーティングを行った。年末年始は忙しくなりそうだ。会議が終ってから、潤を連れてバッティングセンターに練習に行った。久しぶりにぶっ続けで13ゲーム行った。外は変わらず雪がチラチラ舞っていた。一般の人が潤のバッティングを最近良く見て真似をする。二十歳代のお兄ちゃん達に真似されて、ニコニコしていた。

2005年12月12日 (月)  雪は怖い

夜NPO関係の打ち合わせを行った。焼肉を食い、その後、釜揚げうどんを食いに行った。潤は暇そうにしていた。 大人の話し合いの間、テレビを見て過ごしていた。今週から進学指導の三者懇談が始まっていて授業は4時間 で給食なしだ。その事を忘れていて、わしは潤に昼飯代を渡していなかったので、まともな物を食っていなかったらしく、 焼肉は喜んでくれた。話し合いを終え、練習に行ったのは23時を過ぎていた。雪がチラチラ舞っていて バッティングセンターには誰も居らず、貸切状態だった。練習を終えて帰路についた時、気温は−1度だった。 この時期例年に無く寒い。高田から山田団地に抜ける坂道を登った。路面は凍結しているらしくテカテカニ 光っていた。さっきまで降っていた雪が路面で凍結していた。先週、履き替えたスタッドレスだから、 大丈夫だと思って、減速せずに坂道を登っていた。右カーブに差し掛かった時、緩やかにハンドルを右に 切ったが曲がらない、もうダメだガードレールにぶつかと思った瞬間、アスファルトとから縁石のコンクリートに変わったところで前輪がグリップした。 その瞬間切り過ぎたハンドルの所為で、今度は反対ラインに飛び出した。正面から車が来ていたら、死んでいたに違いない。 恐ろしかった。スタッドレスも凍結した道路には、殆ど役に立たないのがわかった。希望が丘の坂を下り、彩が丘の坂を 自宅に向かい坂を登った。裏路地は雪が積もっていた。今度は、さっきとは全然違って、確実にグリップ した。スタッドレスは雪道には強いが、凍結は、やはり要注意だという事が良くわかった。帰宅は午前1時を過ぎていた。 潤が寝たのは2時頃だった。明日も4時間、潤は昼寝が出来るから、まぁいいか〜。

2005年12月10日 (土)  忘年会

朝早く潤は友達とつりに出かけた。草津港で釣りをしていた。ワシは1年分まとめて新聞代を払いに行った後潤の釣果の様子を見に行った。新聞代は来年3月分まで支払った。留守がちなので、こちらから払いに行かないと集金の人が困待っているようである。というか、毎度の事なのであるが、年払いはちょっと厳しいなぁ。スポーツ報知は約4万円だ。潤は22センチのアイナメを筆頭にとキスを少々つっていた。偶々、月刊釣り情報の記者がいて、インタビューと写真を撮られていた。ひょっとしたら、来月号に載るかも知れないという。釣りなど普段やった事無いのに、釣りキチ少年とでも思われたのかなぁ。連絡先を聞かれ、記念のタオルを貰った。今日はジャガーズの忘年会が広島そごうの10階カルネインで行なわれるので、急いで家に帰り、まだ息があったアイナメ3匹を鱗を取って裁いた。痛かっただろうなぁ。お魚さん。生きているのに、鱗をはがされた。えらを外して、内臓を出してもぴくぴくしていた。魚に火を通し、急いで、忘年会に出発した。仲間達と暫く語り合いたかったが、用事があり、また、練習もあるので中開の時に帰路についた。帰りにバッティングセンターで練習した。家に着いたら、12時を過ぎていた。今日は、ひょんなことから、韓国のオリンピック選手ハンドボールのメダリストと握手をする機会があった。韓国バドミントンナショナルチームのコーチともあった。スポーツのレベルの高い人たちと合うことは、種目や国籍は違えど、良い刺激になる。バッティングセンターでは、潤が始めてリトルの戸を叩いたとき、その時キャッチボールをしてくれた元監督に偶然出くわした。色んなところで色んな刺激がある。

2005年12月9日 (金)  忙しい

今日は一日店舗応援で立ちっぱなしだった。疲れた。声はガラガラだ。潤は最近何をトチ狂ったか朝早く学校に出かけている。いつもの仲良し中間とは別行動をとっている。中が悪くなったとかそういうのではなく。潤なりに何か考えがあるようである。私は家に帰ると潤がバットを持って素振りをしていたようである。車に乗って直ぐに練習に出かけた。といっても、腹ごしらえが先で、うどんを食いにいった。「飛脚」といううどん屋さんで、手打ちうどんがこしがあって美味い。潤は肉玉うどんで、ワシは牡蠣フライ定食にした。肩が凝っていて頭痛がしたが、潤が首筋を揉んでくれたので随分楽になった。食後暫くしてバッティングセンタにー行った。飛脚から50mのところにバッティングセンターはある。久しぶりに、HRの的にぶち当てた。特に狙っている訳ではないのだが、とりあえず当たると嬉しいらしい。賞品のジュースを貰って喜んでいた。潤は今、ヘッドを立て、面でで捉えるバッティングを課題としてやっている。その師匠はA−ロッドだ。潤の部屋にはA−ロッドの連続写真が張ってあって両肩の線とトップハンドのボディーブローの拳の線に着目しているその線が並行ではなく、幾分拳が立った状態で、ミートしている。つまりバットが外を回らず、立った状態で素早くポイントまで運んでいる事に着目したのだ。それを行なおうとしているのである。以前MLBのインタビューでトップハンドをなるべく身体から離さないで我慢すると言うコメントがその連続写真で分る。これを行なうためのイメージが点で打つのではなく、線で打つのではなく面で捉えて乗せて巻き取れと言うふうに言っている。右脇が開きそうになる場合は、球を捉える間では我慢するように努力しているらしい。大分右肩が上がらなくなった。以前は身体がよじれていたが今は良い感じだ。ところで、来年早々、潤の受験が終わった頃、中国にちょろっと行って来るかもしれない用事ができた。野球少年の発掘である。今は、その準備段階だ。NPOや社会人野球でも忙しくなりそうである。