現在、ボーイズリーグに所属する中学2年生の息子と親父の徒然を綴っています。2年生の夏、やるしかない。夢に向かって爆走! キーワードは無心

  • 2004年9月28日
    今日、会社ではレクレーションのボウリングがあるが、夜練があるからと、断った。本来、仕事以外の付き合いも大切だと思うが、わしは、家庭のことを優先した。それでも、仕事が少々長引いて、家に着いたのは8時頃だった。家に着くと、潤が腹を空かせて二階から降りてきた。夕べの冷たいご飯が残っていたので、レトルトの牛丼を温めて、冷や飯にかけ、電子レンジで半熟玉子を作って、どんぶりの真ん中に落として出来上がり。潤がご機嫌で食べている間、冷凍のナポリタンとほうれん草のバター痛めをレンジで温め、ウインナーを3本茹でて、それらを皿に綺麗に盛り付けた。りんごをむいて、インスタントのわかめスープに炒りゴマを加え、牛乳とウーロン茶を出した。わしの分は無かったので、カップ焼そばを食った。ワシは会社のバイキングでいつも腹いっぱい食っているから、これで良い。今日も雨が降っていたが、9時頃上がった。潤と庭で練習を始めた。トスマシーンで5セット(150球)行った。また、雨が降ってきて、練習を中止した。久しぶりにカメラで撮影した。練習の後、英語のノートを買いに、ファミリーマートまで、ドライブした。車に乗るのが楽しいらしい。家に帰ると、勉強を始めた。BS1でmlbが始まるのに、見なかったようだった。潤は、やっぱ、イチローより、ボンズ派だ。それでも、球をどこまで見ているかとか、軸受け(頭、腰)がぶれない点は、参考に値するのだが、まぁ、わかっているようなので、言わなかった。
2004年09月28日 23時22分55秒

  • 2004年9月27日
    今日は、家庭教師が来た。月曜日はオフ日で練習はしない。先生から、潤君疲れていますねぇ、大丈夫ですか?と言われてしまった。この土日、久しぶりに練習に参加したので、疲れたらしかった。潤の授業中、スタミナをつけて欲しいと思い、夕飯を作った。久しぶりに、家での夕食だ。これからも夕飯はなるべく家で作ろうと思うが、いつまで続くか、自信が無い。
2004年09月28日 23時03分25秒

  • 2004年9月26日
    午前中のフリーバッティングでセンターに大きな当りを放った。しかし、今日は、はなっから、紅白戦には混ぜてもらえなかった。その代わり、バッティングケージで特練をしてもらった。潤は、コーチに熱心に見てもらって大満足だったようだ。紅白戦の終盤、レフトに入るように言われ、喜んで守備に着いた。打席は1打席サードゴロだった。まぁしょうがない。昨日の痛烈なセカンドライナーとはちょっと・・・。どっちにしても全力では走れないから、どうしようもない。来週は、遠征だ。早く治って欲しい。
2004年09月28日 22時57分45秒

  • 2004年9月25日
    まだ、本調子ではなかった。今日は故障者リストには入らなかった。しかし、やっぱり練習に着いて行けず、途中別メニューを行っていた。守備練習は出来ない。午後からの紅白戦はBチーム、センターで出場したが、2イニングで交代となった。センターはある意味、機動力が要、しかし、それが出来ない。というか、見ていられなかった、またぶり返すのではないかと。コーチが気がついて引っ込めてくれたので一安心だった。悔しいのはわかるが、それなら、無理せずに早く治すことだ。
2004年09月28日 22時41分43秒

  • 2004年9月24日
    仕事中に中古車センターから電話があった。待ちに待った納車の知らせだった。仕事を6時に終わらせて家路を急いだ。途中、タクシー会社に寄って、7時に迎えに来るように頼んだ。ワシが着替えているうちにタクシーが来た。タクシーの運ちゃんは潤を見ると、イチローみたいだねぇと言った。昼間自分で床屋に行ってイチローカットにしていた。車の中で、野球の話が弾んだ。2300円で中古車センターについた。中古車でも、嬉しいなぁ。エスティマより3年新しくなるし、潤が決めた車だから。手続きを終えて鍵を貰って、車の前で記念撮影した。今度は、大切にするぞぉ〜、と潤と言い合わせた。たった1500ccなのに、出足はとてもスムーズだった。やっぱ2400ccあっても2トン超のエスティマよりは、1トンちょっとのファミリアは出だしが良い。特に低速はきびきび走って気持ちが良い。バッティングセンターに練習に行った。故障がちだったため、ここ一週間は行っていなかった。まぁそれでも、ティーはいつも行っているので、特に問題はなかった。最近は、殆ど何も言わない。帰りは祭り寿司で夕飯にした。
2004年09月28日 22時36分42秒

  • 2004年9月23日
    朝から、雨模様。練習あるかなぁ?電話もメールも無い。うぅぅ、バイクの二人乗りでカッパ着て、野球道具もって出かけるのは、辛いなぁ。納車は明日だし・・・。出かけようとすると、更に雨脚が強まった。100ccのアクシスは良く走る。潤はバイクが面白いらしい。朝飯がまだだったので、ポプラ(コンビニ)によって、朝飯を食った。夕べの寿司で、未だ腹いっぱいだ。外食がここ最近多い。家の米びつが空だ。車が無いので、米や野菜、食材が買い難いこともあって、手を抜いていた。もう米びつが空になって5日になる。まぁそれでも、生きているので、まぁ良いかぁ。団子を食って出発した。ワシらは、遅れて、グランドに到着した。グランド整備の最中だった。1時間程グランド整備をした後、ワシは、会社に向かわなければならなかった。急な仕事が入って、どうしても本日中に終わらせなければならなかった。潤を残し、バイクで20キロ離れた、廿日市に向かった。潤は、相変わらず赤帽を被っている。赤帽は故障者の印だ。ランニングが出来ず、ウォーキングと体操を行っていた。早くみんなに合流して欲しい。仕事を昼で済ませ、グランドに向かったが、雨が強くなった。こりゃ、中止かなぁ。カッパを着ていても、膝の部分と袖が、雨で染みてきた。グランドにつくと皆、帰る準備をしていた。潤が友達の保護者の車に乗り込むところだった。ワシは、バイクで帰ろうと言ったが、雨で危ないし、寒いから送って行きますとその保護者は言ってくれた。ありがたかった。毎度、方向が違うのにも関わらず、申し訳ないと思った。わしが、バイクで家に着く頃には、潤は既に到着していた。今日練習如何だった?聞くと、また、手本にさせられた、と言った。広島市民球場大会以来、お株が上がっているようである。バットの出所が良いといわれているようである。以前、バリーボンズの真似するなっと言われたこともある。しかし、今は、そんなことは言われない。軸足が完治していないので、引っ張りは出来ない、流すか、センター返ししか出来ない。10月の試合に間に合って欲しい。
2004年09月24日 12時58分56秒

  • 2004年9月19日
    今日は雨が降っていない。おーい、練習に行くぞ!元気良く潤を起こした。携帯を見ると青くブリンクしている。なんじゃろ?あぃやー、本日は練習なしだと?あぁあ、やっぱそうかぁ。恐らく、昨日悪天候で、体育祭が順延になっているところが多いため、練習が中止になったのだ。うちの中学は、体育祭終わったのに・・・。まぁしょうがない、クソして、もう一度寝るかぁ。と思って便器にしゃがんだ。その時、覚えのない電話番号から、電話がなった。おっ?やっぱ練習あるの?そんなくらいに考えて受話器を取った。電話の向こうで、血相を変えて、電話をしているのが、直ぐに分った。なにやら、後ろで、凄い騒音と、人のマイクで交信する声が聞こえた。声の主は、「大変なんです。今、Y君(長男のこと)のトラックが事故を起こして、まだ病院が決まってないんです。病院が分ったらまた電話します。」電話の主は明らかに興奮していて、声が震えていた。私は、何があったのか、理解に苦しんだ。いったいどうなっているんだ。台風の次は事故か。安否は分らない。聞く勇気がなかった。相手の名前も頭に入らなかった。どうしたら良いのだろう。相手もわからない。とりあえず、ナンバーを携帯にコピーして、次の知らせを待った。どうしたら良いかわからない。車も無い。暫くすると、また電話がなった。雑音で良く聞き取れない。相手の電波状態が悪いらしい。こちらの携帯から、でんわを掛け直した。三原の興生総合病院と聞き取れた。山陽道で、横転事故を起こしたという。なんていうことだ。Y君が車外に放り出されたんです。そう言って声は震えていた。ワシは、レンタカーを借りなければととっさに思い、電話を掛け捲ったが、3連休と台風の代車で、レンタカーがどこにも無かった。10数社あたって漸く、予約することが出来た。出発しようとした時、長男の会社の社長らしき人から電話があった。Y君は助手席に乗っていて、4トントラックが雨の高速で風に煽られてスピンして横転した。その時、窓から外に放り出されたらしい。暫くぐったりしてたけど、意識はあるらしい。と凄く申し訳なさそうな声だった。助かってくれと祈る気持ちだった。潤と入院に必要そうな物をバックに詰めて、十日市のレンタカーに向かった。説明や値段などどうでも良かった。早く車に乗って三原に行きたかった。行く途中、搬送先の病院から携帯に連絡が入った。親族の方ですか、お父さんですか?Y君意識はあります。頚椎捻挫の疑いがあるので、今からCT取ります。勇気を出して聞いてみた。両手両足ありますか?先生と思われる方は、不安な私の気持ちを説こうとしてくれた。大丈夫ですよ。詳しいことはまだ分りませんが、ついていますよ。詳しくはまた病院で、ということで、後は事務的なことを話して電話を切った。会社の人間から電話があった。今、山陽道は本郷、三原間で通行止めで凄く渋滞しているから、一般道を走ってくるようにとのことだった。それは、紛れもない長男の事故の事だった。行ける所まで行こうと思い、広島から西条まで高速を使い、後は一般道を通って病院に行った。初めての場所なのに、不思議と、迷わずに一発で行くことが出来た。今日は休日のため、救急病棟のみ開いていた。潤は、足がまだ悪いのに、わしは、自然に早足になる。潤の父さん待ってよの言葉は、無視した。傷んだ長男を見るのが怖かった。どうしているかとても心配だった。受付を見つけ駆け込んだ。その時、後から付いて来た潤が、あっ、兄ちゃんだ!と叫んだ。CTを取り終えて、顔面と腕に包帯を巻いて、あちこちに青あざを作った長男が腰掛けていた。とりあえず、両手両足はついていた。分厚い包帯の下の顔のキズの程度は分らない、顔が膨れてぼこぼこだった。首筋にも青いあざがあった。その横にドライバーが、肩をすぼめて、申し訳なさそうに立っていた。私を直視出来ないほど、肩を落としていた。ここでは書けない理由が彼にはあった。そして、怪我して、危うく命を落としかけた長男は彼を庇っていた。そのことで、ワシと長男は、口論になった。長男は病院中に響き渡る怒声を上げ、ワシは、話が出来んと思い、病院から外に出た。外に出た私を追いかけ、会社の専務とドライバーがやってきた。私は筋を通そうと思った。しかし、ある理由によりそれが通りそうも無かった。私は、自分の意思は伝えた。2002年10月15日を再び思い出していた。あぁ、どうして、こんなに、荒れるのだろう。悲しくて天を仰いだ。潤を呼び、借りたカペラに乗り込んだ。後の処理は専務にお願いした。奇跡的に?入院は必要ないという。そうは、思えんかったのだが、そうなった。色々事情があるらしい。また、悲しさと怒りが込み上げた。誰が、痛い思いをして、誰が死に掛けたのか、キズだって残らない、後遺症だってないと言えるのか?念書を持って対応してもらう事にした。自分たちで解決するのだという。こんなことが許されるのか。しかし、私の一言がドライバーの人生を左右する。どこを走っているのか分らない。ただ2号線を西に向かっているだけだった。気がつけば、海田の辺りを走っていた。潤も私もそれまで一言もしゃべらなかった。「潤、アイスクリームでも食べようや。」ポプラに車を止め、カペラの中で、ガリガリ君を食べた。しっかりしなきゃ、新しい車ももう直ぐ来るし、偶然このレンタカーもマツダ車だ。メーターは19万キロを越えていた。しかし、すこぶる調子が良い。潤は、小学校の頃、マツダの工場見学に行ったことを話してくれた。丁寧に乗られているのだろう。潤は、この車が気に入ったようだった。今度来る車は、中古車だけど、大切にすれば、このぐらい走れるかな?本当は、フォルクスワーゲンのマークが一番すきなんだけどなっ、でも、今はマツダが良いよ。そんな会話になった。兄ちゃんは命があって良かった。その頃漸く、兄ちゃんの話が出来るようになった。高架の登り坂で風に煽られスリップスピン、転倒したという。速度は70キロ〜80キロだという。スピンして、縁石にぶつかった反動で長男が窓を突き破り居なくなったという。その直後横転して、ドライバーは長男が荷台の下敷きになりぺしゃんこになったと思ったと言っていた。神は見放しては居なかったようである。潤は、家を出る前に、神様にお祈りをしていた。広島市内に入り、ガソリンを入れた。一応、車の周りを点検した。すると左前輪のホイルキャップが無かった。あらっどこかで落としたかな?ひょっとしたら、何か言われるかも知れない、そう思った。給油を終え、約300m離れた、レンターカーに車を返した。有難う、凄く調子が良かった。わしはそう言った。しかし、なんとなく、ワシの笑顔と声は無視された形となり、店員は、車のチェックを始めた。車の左ドアの下をしきりに気にしている様子だった。そして怪訝というか、不審そうな顔で、こちらをちらちら見る。どうしたのかと聞くと、「ここ、今朝、キズ無かったですよねぇ」ワシは、ビックリして返す言葉も無かった。車は、営業していない病院の正面玄関に一台だけ堂々と停めただけだった。それと、ポプラでアイスを食べた。その間、隣の車と1.5mは離れていた。前のフェンダーから、後ろのフェンダーまですじが入っていた。ワシは、ホイルキャップが無かったことを伝えた。それは、前から無かったとその店員は言う。朝のチェックの時私は心ここにあらずでそんなことは知らなかったから、そう告げたのだった。朝、車は、左側を壁際に停められていたため、左前の前方から、側面を覗いただけだった。私は、愕然とした、完全に疑われていた。話を聞くと、私には同じキズに見えるのだが、前のフェンダーのキズは今朝からあった。後ろフェンダーのキズも前からあると言う。じゃ、左ドアのキズは,同じでは無いのかと聞くと、違うという。わしは、そんな馬鹿なことがあるかと思った。潤もビックリして、目を丸くしていた。声を荒げて、ワシではないことを説明した。その声に、若い店員がやってきた。粉ふいているじゃないですか、今日やったんでしょ。ワシは、嵌められたと、恐怖すら感じた。ここは、ヤクザが経営しているのか、広島は怖い町だ。粉をふいているというのなら、この前のフェンダーのキズは如何だ。指で触ると、同じようにざらざらしていた。すると、それは、別だという。ワシは、如何説明すれば良いか分らんかった。今日車を借りに来た経緯、今日の出来事を全部話した。すると、今回はよいですから、と言う。その言葉の裏には、犯人はお前だと言う意味が込められている。私は怒った。客商売でそんなことを言うのか、ならば、インターネットで投書する言ってやった。さらに、その若いアンちゃんは、脅かすのなら、こちらにも考えがあると、事務所の奥に行こうとした。全く、なんと言うことか、天を仰ぐしかなかった。その後、最後まで、無実と信じてもらえなかった。結局、今回はよいからと言うことだった。ワシも潤も打ちのめされた感じだった。バイクの二人乗りで、潤は悔しさ、父さん悪くないと噛み締めていた。二人でバイクで本通り(広島一の繁華街)に向かった。宛てはない。なんとなく、綺麗な街並み、に触れたかった。現実を忘れたかったのだと思う。美しい女性がへそや肩を出して幸せそうに歩いている。潤も年頃で、女性を目で追う事がある。ちょっと、大人に近づいているのかも知れない。シルバーアクセサリの店に入った。兄ちゃんが教えてくれた店だと言う。何も買わずに店を出た。潤からもう帰ろうと言ってきた。街は幸せそうな人であふれている。その人並みは、ぶつからないように、スルリスルリとワシらを通り過ぎて行く。天満屋の角止めたバイクに乗り、家に向かった。潤が落ちないように、私のベルトにしっかり手を通した。とりあえず、良くないことは続いたけど、みんな生きているし、これからも、何とかなるさ。
2004年09月21日 00時19分35秒

  • 2004年9月18日
    朝から雨が降っている。今日は体育祭だ。電話が鳴った。明日に順延かと思いきや、10時スタートで予定通り、体育祭はやるという。ワシ的にはこの方が良かった。夕べ仕事を終えて家に帰ったのは午前1時を過ぎていた。潤は、何も食わず寝たらしかった。わしは、24時間営業のスーパーで弁当のおかずを買って帰っていた。朝6時に起きて、べ弁当の準備をした。体力的にきついから、順延だけは、勘弁願いたかった。潤は、病院でリハビリを行ってから、体育祭に参加する。結局、潤は何も参加できず、本部のお手伝い要員だ。リハビリを終えて学校に入るのはお昼になるから、父さんは午後から来てと言っていた。ワシは、午後1時まで仮眠した。一階のリビングでメイとうたた寝している最中も、雨が時折パラパラと降っていた。本当に体育祭、やっているのかな?かなり疑問の天気だった。中学2年の体育祭、弁当は作った。まぁ、これで、お役目御免にしようかとも考えた。でも、怪我をして出番が無いから、見に行かないのは、何か悲しい。潤の中学2年の体育祭は一生に一度だけだ。そう思うと、布団から飛び起き、バイクにまたがり、中学に向かった。中学の体育館の前にバイクを止め、ヘルメットを脱ぎ、ふと顔を上げると、潤がそこに友達とニコニコしながらいた。ワシは、すかさずカメラを構えると、恥ずい(恥ずかしい)といって逃げていってしまった。その後、ずーと潤を探したのだが、見つけることが出来なかった。競技は見てはいるが、何をやっているか、全く興味が無かった。ただ潤がどこに居てどんなことをしているのかが知りたかった。最後の種目、学級対抗リレーになった。アンカーだけが、自分のクラスの番号が入ったゼッケンを付けている。本当は、あそこに潤が居るんだなぁ。でもどこに居るかも分らない。潤は、自分で言うには、クラスで一番足が速かったらしい。2年生は9組まであり、潤のクラスは黄緑色のチームカラーの4組だった。どんな展開になるか、この競技だけは、しっかり見た。もし、潤だったら、もし走っていたら、等と走者を潤に置き換えた。しかし、潤は居ない。結局、第一走者は2着につけたものの、ずるずる順位が下がり6位で終了した。もし、潤だったら・・・、このことが、頭の中で、目の奥で、ループした。雨が再び降ってきた。最後の全体体操の時に、潤を発見することができた。救護テントにちょこんと座っていた。そうかぁ、案外近くに居たんだなぁ。わしから20mぐらいの位置に居た。潤には、きっと私の場所が分って居たと思う。そう思うと、なんとなく父親の役目が出来たかなと、考えることができた。
2004年09月20日 21時49分07秒

  • 2004年9月11日
    今日、嬉しいことがあった。やっとトスマシーンが手に入った。しかし、家で組み立てただけで実打はまだ行っていない。部屋の中で組み立てて、ボールガイドにボールを転がすと、メイが猫のようにじゃれてくる、ワンワンいって、きっと新しい自分のおもちゃに違いないと思い込んでいるんだろうか。新しいものが来ると興味津々だ。そういえば、メイのしぐさは、小さな幼児に似ている。買い物袋を下げて帰ってくると、何か美味しいものが入っているのかも知れないとでも思うのだろうか、必ず袋を明けようとする。思い出されることがある。メイがまだ2歳ぐらいの頃、空いたプランターにおもちゃをいつもしまっていた。使ったら、そこにまとめて置くことにしていた。ある日そのプランターに、名前は忘れたが、赤い毛むくじゃらの花を植えた。そうして、庭にメイを放したら、それを、おもちゃと思ったのだろうか、全部花をむしってしまったことがあった。全く無邪気で可愛い。ワシのやっていることを、いつもじっと見ている。昨日電話でトヨタに、もう廃車にすることを伝えていた。練習が終わってから、西風新都のトヨタに潤と2ケツでアクシスで行った。潤がエスティマ可哀想と言っていた。エスティマは、外見は綺麗に洗車されていた。荷物をとりに来たことを告げると、鍵をくれた。バッテリーを繋いでいないので、手動でドアを開けた。明けた瞬間、現実がそこにあった。海水の腐った匂いが車内に充満して、バッティンググラブには、カビが生えていて、息が出来ないくらい物凄い悪臭が車内に立ち込めていた。あぁ、やっぱりダメかぁ。暫く換気ををすると匂いは消えた。匂いが無ければ、綺麗な車内だ助手席のシートが倒されていて、エンジンルームが見えていた。そこには海草や漂流物が溜まっていた。ワシも、淋しくなった。この車を新車で買ったとき、潤は小さかった。潤の母さんが気に入って、決めた車だった。潤にしてみれば、母さんの思いでもあるのかも知れない。また、一つ、影が薄くなって行くのだと思う。潤の記憶から、母さんが薄れて行く。ワシも子供の頃経験した。夢の中には出てくる。しかし、段々思い出せなくなってくる。潤は、今では、母さんと言うことがあまりない。父さんと兄ちゃんだけだ。むしろ、気にしているのは、ワシの方かも知れないが、潤にいつも現実を受け入れろ、強くなれと言ってはいるが、それは、残酷な事だと思う。それが分っているから、凄くやり切れないのだ。もうちょっと、綺麗に洗車でもしてやればよかった。この車で旅することはもう無い。ディーラーを出て、近くの中古車屋に行った。今日の練習はアクシスで2ケツで行った。途中のポプラで朝飯を食っていると、友達のお父さんが潤を乗せて言ってくれるという。野球道具と昼飯とドリンクで明らかに積載オーバーだった。助かる。お言葉に甘えて、潤と荷物を運んでもらった。帰りは、やっぱり送ってきてもらった。チームのみんなに迷惑はかけられんなぁ。わし、本当は、車を買うのをやめようかと思った。車が無い生活も興味深い。どんな困難があるか試してみようとも思った。しかし、結局、周りに迷惑を掛ける事になる。だから、車を買うことにした。ワンボックスが良かった。潤とメイで旅が出来る。しかし、急な出費で手が届かない。潤に車を選ばせた。営業のお兄さんは潤とばかり話している。わしは、車に興味が無いんで、何でも良かった。潤は13年式のファミリヤが気に入ったようだった。一応ワゴンタイプなので助手席一人は、真っ直ぐ背中を伸ばして寝ることが出来る。まぁエスティマより大分小ぶりだが、これからは節約しなければならない。エンジンも1500ccで、お手ごろだ。燃費はエスティマに比べて月5千円は安そう。まぁそう考えると悪くはないなぁ。契約書にサインした。後ろを振り返らずに行くしかない。言葉が悪いが女々しいじゃないか、これから大事に、すればよい。潤が言った、「 この車が家に来たら、今度は可愛がろうね、可哀想なことが無いように。」その後、二人で紺のれんにラーメンを食いに行った。今日も外食だ。初秋の夜風が涼しい。潤と山道を遠回りしてツーリングしながら家に帰った。明日の朝は、トスマシンで練習できる。
2004年09月12日 00時35分30秒

  • 2004年9月10日
    エスティマは、廃車になりそう。200万掛かると言われた。だめだこりゃぁ。久しぶりに家で飯を作った。と言っても、レトルトハヤシライスに白身フライのせて冷凍庫で枯れかけているインゲンを水に戻した後、バターで炒めただけ、あっそれとカップスープが一つ余っていたので潤の分だけ作った。仕事が遅くなって、どうも家事まで手が回らない。植木も切るだけ切ったが、散乱したままだ。台風の後始末が済んでいない家は、もう殆ど無くなった。雑草も伸び放題だ。今年初めて、花を植えていない。毎年必ず何か植えていたのに・・・。生活にゆとりが無い証拠かもしれない。子供は、どう思っているのだろう。
2004年09月11日 23時45分42秒

  • 2004年9月9日
    仕事が遅くなった。家に帰ると、カテキョの先生は既に居なかった。代わりに潤の兄ちゃんが帰ってきていた。家の前に4tトラックがでんっと止まっていて、ワシは、バイクを車庫に入れられん。玄関を開け潤に聞くと、兄ちゃんは風呂の最中だった。ワシはカギを受け取り4tに乗り、少しだけ動かした。すげぇ、でけー、エアサスだし、寝台まで着いている。シフトレーバーが、トラックヤローだぜ。長男は仕事を変えて、ウンちゃんをやっているらしい。こんなでかいの、よく転がせるなぁ。それにしても整備されているのだろうか、11月で引退すると言うトラックだった。久しぶりに3人そろったので、飯を食いに行くことにした。ワシの車は、入院したままだ。バイクでは3ケツする若さはないなぁ。ワシは助手席に乗り、潤は寝台で兄ちゃんのトラックで飯を食いに行った。結構きしむ。大丈夫かなぁ、この三菱のトラック。運転席のコンソール周りは綺麗にしてあった。このトラックは兄ちゃんの担当だという。庭木は、倒れたままで、それを起そうとして刈り込んで、それも散らばったままだ。鳥小屋も相変わらず根っこから倒れている。車も無い。潤は怪我している。ふっと息が抜けたときに、暗くなってしまう。ぱぁーっと、焼肉食い放題にでもいくかぁ!といったが、トンカツが良いと言う事で、石内バイパスの弁慶に繰り出した。時間が遅かったので、入店と同時に、ラストオーダーとなった。店には、ワシらしか居ない。貸切状態だった。まぁ、それが、かえって気兼ねが無くてよい。兄ちゃんはさすが肉体労働者、トンカツ2枚たいらげた。お代わり自由が嬉しい。みんなお代わりして、腹いっぱいになった。潤は、足が痛いと言う。明日やっぱ、医者に行かそうと思った。店の隣が、中古車屋で、暫くそこの車を見て回った。兄ちゃんも原付から、そろそろ車が欲しいらしい。ワシも勿論困っている。友人のレガシーは修理に100万掛かると言われていた。気の毒にローンが6年残っていると言う。ワシは、支払済んでいるだけマシかぁ。兄ちゃんの運転するトラックできた道を戻った。たくましくなったなぁ。自立して、何とかやりくりしている。ワシの学生自分より、100倍たくましいと思う。
2004年09月10日 18時46分36秒

  • 2004年9月8日
    朝、潤を送り出してから、4本のコニファーを何とか引き起こそうと頑張ったが無理だった。刈り込んで木自体を軽くしてやってもダメだった。根っこが浮いてしまっていて、もう諦めた。造園業者に電話して引き取ってもらおうとした。しかし、忙しくて、これないと言う。なんてこったぁ。刈り込んだ枝は拾う気がせず、散乱したまま会社に出た。会社は午後出社となった。会社も午前中は、台風の後始末に追われていた。エスティマのエンジンが掛かるか、一途の望みをかけて、キーを回したが、ショートしているエアバッグの回路の所為かバッテリーが弱っていた。マフラーは一晩明けたら赤く錆が浮いていた。ディスクブレーキもまっかっかだった。友人にブスターケーブルを借り、チャレンジしたが、エンジンは掛からなかった。結局ディーラーに電話をして取りに来てもらうことにしたが、レッカーの手配が出来ないという。結局ワシが退社した午後8時を過ぎて車を引き取ったらしい。バイクで家に帰り、車が無いので、アクシスでバッティングセンターに練習に行った。潤も肉離れが、よろしくない。軸足を使えない。そこで、左に流す練習に終始した。悪くはなかった。帰りに1年ぶりに平田ラーメンに行った。おじさんは、潤が大きくなったので高校生になったのかと思ったといっていた。味噌ラーメンと潤は醤油チャーシュー麺を食った。懐かしかった。あったまった身体をバイクで冷やしながら帰った。偶には2ケツも悪くはない。
2004年09月10日 00時04分25秒

  • 2004年9月7日
    台風で荒れると言われた割には、穏やかな朝だった。いつものように家を出たが、台風が近づいているために車で出かけた。中学校は、暴風警報がでていたので、休校となっていた。しかし、全然風は吹いていない。変な天気だった。会社について、9時半頃から風雨が強まった。11時になると、公共交通機関が止まって、私のいる廿日市木材港は孤立しつつあった。前回の16号ぐらいの事ぐらいしか考えていなかった。前回は12時で自主退社を促す館内放送があったが、前回差ほど被害が無かったため、今回は、退社を促す放送は無かった。昼飯を食いに食堂に行くと、既に道路は冠水していた。まぁ、それでも自分の車は、歩道より高い位置に止めてあるので大丈夫だろうと思っていた。暫くすると、停電になり、予備電力に切り替わり、2時間は、室内に灯りがあった。さらに風雨が強まり、ついに、建物の玄関の屋根がとんでしまった。25㎡の屋根がはがれ、駐車場に止めてある車を次々に傷つけミラーが吹っ飛び、ガラスが割れた。それでもその場所は、自分の車の位置じゃないので、他人事だった。私は3時50分の満潮時に、駐車場が水没しないか、駐車場が見えるところに陣取り、構内電話で連絡を取り合っていた。暫くして、上の方でバリバリという音が聞こえたかと思うと、雨漏りがしてきた。それも暫くすると収まり、満潮時は結局駐車場まで30センチのところでおさまった。しかし、反対側の海側からは、波しぶきと雨で、マーチのタイヤハウスを半分ほど覆い、海面までの30センチを瀧のように水が流れていた。雨水はしょっぱい。駐車場の無事を確認して、自分の車を避難させてある場所に向かった。その途中で車が数台水没していると、誰かが話すのを耳にした。会社正門の高いところに停めたはずのエスティマが顔を水中に突っ込む形で水没していた。愕然とした。その先にも2台水没している。回路がショートしているのだろう。無人の車には電気がついていた。広島湾の蛎いかだの残骸や、その浮きの直径50センチ以上ある発砲スチロールの浮きが、十数個次々に漂着する。それらには、蛎や烏貝が付着していた。他の車は更に高いところに避難していたのに、私だけ、会社の裏窓のある個室で本来の駐車場を監視していて、車避難の連絡が届いていなかった。館内は停電していたため、連絡できなかったらしい。諦めて、様々な浮遊物を片付けていた。当然、びしょぬれだ。暫くすると、警察の車、救急車、消防車、工作車が木材港の端を目指して突き進んでいった。パトカーは車高が低いため、途中で立ち往生していた。ラジオでカンボジア船籍の船が座礁したと言うのを知った。救急車が行きかう。6人が行方不明で一人の死亡が確認されていた。相変わらず私の車は水没したままだった。4時半頃になり漸く、水が引き車に乗った。ドアを開けると水が噴出した。エンジンをかけようとセルを回すと、勢い良く回った。しかし、エンジンは掛からずだった。潤に電話を数回したのだが中々繋がらなかった。携帯と、家の電話に何度も電話した。やっと携帯に繋がったが、バッテリーが潤もワシも無くなりつつあった。家も停電して4時間経っていた。車から最後の電話になった。家の電話はモデムにつないでいて、その電源が落ちているためか、何回電話しても繋がらなかった。携帯で離した時も家の電話はならなかったと潤は言っていた。蒸し暑いし、ご飯は炊けないし、お湯はないし、真っ暗だし何も食っていないと言っていた。家の木コニファーがなぎ倒されたと言っていた。会社の車も20台は被害を受けたと思う。雨漏りは10箇所以上だと思う。こんなことは、今まで日本では経験したことが無かった。6時頃になり、漸く木材港の停電は解消したが、依然ネットワークは、寸断されていた。8時近くまで、車を干してエンジンが掛かるか待ったが、結局ダメだった。車から、積みっぱなしの野球道具を下ろし、タクシーを呼んで帰途についた。西広島バイパスの外灯が点いていなかった。街が異様に暗い。まだ停電は解消されていない。途中ローソンに立ち寄った。ローソンは真っ暗だったが懐中電灯で営業していた。潤と最後に話した時、飯を食っていないと言っていたので食料を何か調達しようと弁当と灯り用のローソクか、懐中電灯を買いにいったが、既に売り切れだった。仕方なく暗闇の中、店員の懐中電灯の灯りを頼りにカップ麺を購入した。携帯コンロの場所は分っていたからだ。待たせておいたタクシーに乗り、改めて大変なことになったと思った。自宅に近づくにつれ、潤の事が気になった。自宅に向かう坂を上り始めた頃、周りの家に電気が着いているのがはっきり確認できた。遠くを見るとまだ停電のところもあったが、うちはどうやら復旧しているようだった。タクシーが家の前に止まったが、その車庫にはエスティマは無い。高さ4mのコニファーが2本倒れて玄関をふさいでいた。ワシは、玄関を開け、家に上がろうとしたとき、膝から下が、びちゃびちゃだったのを思い出した。潤は無事だった。8時に電気が戻り、カップ麺を食べていた。ご飯も炊いたところだった。ローソクで灯りをとっていたという。復旧してからは、ウオーターボーイズを見てけろっとしていた。ワシは、大変な一日だった。会社に電話を入れた。まだ残っている社員から、ネットワークが復旧していないと聞いた。明日は、大変だろうなぁ。車も金が掛かるだろうなぁ。庭もぐちゃぐちゃだし、困った。
2004年09月07日 23時05分30秒

  • 2004年9月4日
    朝起きると、昨日よりさらに悪化している。階段を伝うようにして降りてきた。太ももの前が緊張して固くなっているのが分かった。それを触るととびあがった。あぁあ、今日は見学だ。監督になんて言おうと悩んでいる様子だった。グランドは、故障者の赤坊を被っていた。上半身の筋トレを中心に行っていたが、何かの拍子に下半身に力が入ったのだろう、痛くってもだえ苦しんでいた。練習から、外れ、保護者席の隣で椅子に腰掛け痛みをこらえていた。ワシはこの間、移動式バックネットの作成中だった。あるお母さんが潤に痛み止めを飲ませてくれていた。その後は、楽になったと言う。全く、ついていない。今日は、飲み会があるために練習は3時に終わった。一度家に帰り、風呂に入り、弁慶に連れて行った。午前中の作業で、バックネットはキャスターをつけるだけになっていた。この作業でクタクタで、潤の夕飯を作れない状態だった。弁慶では、彩りご膳を注文した。1500円で凄いボリュームだった。これは正解だった。そしてバランスも良さそう。ワシは、これから焼肉を食いに行かなければならなかったので、少量で美味いモノを食いたかった。そんな訳で単品でうな重を注文した。家で食うのとは違うなぁ。ヤッパ美味いわ。しかし残念なことがあった。食事中に会社からトラブルの報告が入り、電話対応をしていたが、中々はかどらなかった。潤が痺れを切らして、気を引こうと、ちょっかいを出してきた。潤には事の重大さは分からん。分かる必要も無いのだが、わしが、切れてしまった。電話口を手で押さえ、黙れ!と言い、潤にお絞りを投げつけていた。店員には作り笑いで、店を出た。ハンドルを握りながら、心の中で、潤に謝ったのだが、出てくる言葉は、相変わらず、潤を非難する汚い言葉だった。これから、家で一人留守番するのに可哀相な事をしたと思った。大事な仕事なので自分の苛立ちを潤にぶつけてしまった。家に潤を送り届け、口を利かぬまま、家を後にした。後ろめたさでいっぱいだった。30分遅れで宴会に到着した。家で何も無かったかのように振舞った。しかし、また会社から電話が掛かってきた。店の外に出て、電話対応しているうちに、お開きになった。ワシは、2次会の誘いを断り、そのまま会社に向かった。会社に着くと既に誰も居ない。真っ暗の中で、指紋認証装置に指を置き、仕事場に入り、問題個所の修復を行った。何のことは無い、ものの30分で解決した。帰りの車の中、二次会グループにこれからも頑張ろう、と電話を入れた。家に着くと潤が待っていた。足をかばうように階段を下りてきた。今日は言いすぎたと軽く謝った。これで良いのか・・・・。子供にとって親は絶対の存在、ましてうちは二人暮し、ワシがあほなことをすれば、潤に心のよりどころはない。メイが潤を慰めてくれるのかなぁ。不良の親にして、よくもまぁ、ひねくれずに、育っていると思う。
2004年09月07日 20時23分04秒

  • 2004年9月3日
    会社から帰ると、足が痛いと言う。坂道ダッシュをして、大腿四頭筋を痛めたという。両方の足が痛いらしい。何でも、18日の体育祭の学級対抗リレーのアンカーらしい。それで張り切っていたのだろう。とりあえず、明日、バックネットをグランドに設置するため、軽く聞き流し、ナフコに建築用の単管を買いに行った。午後8時までなのであまり時間が無い。単管とキャスター6個で締めて3万5千円で部材がそろった。6メートルの単管は台車のナフコの軽トラには積めなかったので、無理を言って2トン車を拝借した。事故れば自分持ちだった。まぁそれでもグランドに無事到着し荷物を潤と二人で降ろした。グランドは回りに民家が無いため、漆黒の闇だった。しかし、まぁなんだかすがすがしかった。台車をもどし、エスティマに乗って、広島市内に焼肉を食べに行った。明日、チームの焼肉パーティーがあるのだが、1,2年生の保護者の集いだ。明日、潤を家に残して、自分だけ焼肉を食べに行くのが嫌だったので、今日、潤に焼肉を食べさせてやりたかったのだ。上カルビとファミリーセットを注文して、腹いっぱいになった。時々、足を気にしていたようだが、食い気の方が勝っていた。満腹後、打撃王に練習に行った。先月HRチャンピョンだったので、賞品を受け取りに行きたかったのだ。打撃王の掲示板に、デカデカと名前が張られていた。実際に見るとちょっと照れくさいようだった。同じ中学の女子に、名前が張られているのを数日前に聞いていたようだった。悪くはない。ホームランの賞品は3千円の14回件だ。ここに通い出して2ヶ月半、二月連続でゲットだった。練習を始めて、6ゲーム目にまた、HRにぶちあてた。賞品は缶ジュースと特製タオルだ。そろそろ他の賞品が欲しい。カウンターに飾ってあるぬいぐるみがあったのでそれをくれと言うと、それはディスプレー用だからダメだと断られてちょっとがっかりした。メイのおもちゃにしたかった。3日目に1本でたのでまぁ良いかぁ。家に帰った。家に帰ると、潤は足の痛みを気にした。本当は、もっと練習したかったのだと言う。しかし、足が痛くて立っていられないといった。困ったものだ。サポータとシップをした。
2004年09月07日 19時49分15秒

  • 2004年9月1日
    学級委員になったらしい。夏休みの宿題は、無事提出したという。
2004年09月07日 12時46分17秒

  • 2004年8月31日
    夏休み最後の日、今晩夜勤のため、変則的な勤務体制だ。 会社は午後出のため、午前中は、潤と朝練するのに、時間を 気にしなくて良い。公民館ででピッチング練習をした。 9月一ヶ月で何とかモノにしないと、10月は、毎週の様に 試合がある。本人もかなりやる気になっている。最近漸く 自分のウィークポイントを克服しようとしているのが分かる。 毎日、自分に課題を課しているようだ。夕べ何々をやった等とこちらが 聞かなくても、報告するようになった。 朝錬を終えて、出勤した。帰宅は午後6時、今晩は徹夜なのだが 潤の夕食と、夜練の為に一時帰宅したのだ。カレー味の焼肉を 作り、それをどんぶり飯に乗せて食べた。口の中に掻き込み易くて 好評だった。食後ワシは寝ないと身体が持たないので、15分仮眠した。 その後、打撃王に練習に行った。今日は月末、打撃王の掲示板が気になった。 今月、月間HRは未だ首位を守っていた。先月チャンピョンで14回券を GETしていた。今月も貰えるとありがたい。デジカメで撮影し、軸のブレを修正 した。潤は右投げ左打ちだ。左の上腕二頭筋がもの凄く発達している。 それに比べ右は、貧弱だ。右投手なら、これからトレーニングで右上腕二頭筋を作っていかなければ と思った。左のそれは、鍛えたわけではない。バッティングスイングに よるものである。下半身内転筋群も必要だ。そこらは、自分で 気がつきやっているようである。10時半に練習を切り上げ、潤を家に送って、出勤した。 23時からミーティングがあった。それに間に合さなければならない。 月末対応を終え、無事6時00分に帰宅した。既に9月1日と言うことは、 今日から2学期だ。弁当を作ってやった。以前潤の友達のお母さん から、弁当を作って貰った事があり、それが、素晴らしくバランス よく、上品に作られていた。ワシの乱暴な弁当とはまるっきり 違っていた。それを教訓に、作った。枝豆、鮭の切り身、白魚のフライ 、ポークソテー、チャーハン、きゅうりと白菜のおしんこと鳥のから揚げ そして、杏仁豆腐とフルーツのデザートを4つのタッパーに詰めた。 それを保冷バックに詰め終えて、潤を起した。潤を7時40分に送り出し、 ワシはメイと散歩に出た。今日昼の1時にまた出勤だ。起きれるかなぁ。
2004年09月02日 13時08分39秒

  • 2004年8月30日
    午前0時に潤を呼んで肩を抱きしめた。誕生日おめでとう。大きくなったな。それだけ一番に言いたかった。その後直ぐに床に着いた。わしは相変わらず1階のリビングでメイと寝ている。今年未だ1度もベットで寝ていない。潤に先週、母さんの部屋をやった。ベットが小さくなったので、ダブルベットの8畳間をやった。そこになにやら自分でソファー2個とテーブルを持ち込んで自室を作っていた。ワシは、朝、潤を起こさずに出勤した。台風16号接近で風雨が強まり、昼には公共交通機関が止まった。社内アナウンスで、手が空いた者から帰宅するように指示があった。ワシは結局5時に会社を後にした。サンリブで潤の誕生日ケーキを買いに行った。しかし、店内に入ると同時に、店内放送で台風の影響で6時に店が閉まると言われ、慌ててケーキ屋行ったのだが、既に、陳列棚にはケーキが無く、やっとショートケーキを5個買えた。今年は、キャンドルが無いなぁ。まぁ良いかぁ。今日、社内でデジカメを新たに購入した。そして今使っているやつは、兄ちゃんにやろうと思った。そのことを、帰りの車の中で、兄ちゃんの携帯に電話すると、今日は潤の誕生日だから帰宅すると言う。でも、台風の影響で、山陽道が使えず、志和で渋滞に巻き込まれていて、配達が3件残っていていつになったら帰れるか分らないといっていた。家に着いて、潤に言うと大喜びだった。しかし、案の定兄ちゃんは帰って来なかったので、9時には二人で夕食にした。厚切りとんかつを8枚昨日購入してきていた。今は、とにかくスタミナがつくものを食べさせたいと思う。取り合えず、2枚カツを上げた。すりこぎでいりゴマを擦り、浜勝みたいにした(笑)。白菜とゆずの漬物も出した。潤は「浜勝」みたいで美味いと喜んで、全部食った。最近、以前よりは良く食べるようになったような気がする。食物繊維系の食べ物を多く採る様にしている。これで、恐らく胃腸の、特に腸の調子が宜しくて、食が進のだと思う。その後、11時まで待ったが、まだ兄ちゃんは来なかった。潤と二人でケーキを食べた。ここ3年間続いている誕生日の写真を撮った。位置はほぼ同じにする。こうすることで、成長の記録にもなる。それにしても月日が経つのは早い。食後に、リビングで横になるともう眠くてしょうがない。潤も諦めて2階に上がってしまった。灯りを消して寝入った頃、漸く兄ちゃんから電話が掛かってきた。今終わったのだと言う。時間は11時50分、今日中には着けない。沼田からここまでは、20分は掛かる。4トン車で乗り付けると言っていた。ワシは、床から起きて、潤と同じように、トンカツを二枚揚げた。12時10分頃、やっと帰って来た。元気を装っていたが、疲れた様子だった。可哀想に明日は朝4時出だと言う。食後に、潤と兄ちゃんはケーキを食べた。メイがお裾分けを頂いた。やっぱり、家族って良いなぁ。ただ一緒に居るだけで、元気が出る。今年は、プレゼントは特に無い。でも、潤は、兄ちゃんが帰って来ただけで、嬉しくてしょうがないようだった。自分の部屋に呼んで、何か遅くまで話をしていた。ワシは、兄ちゃんが心配だ。寝不足で、明日も4トンを運転しなければならない。無理をするのは、ワシだけで十分だよ。
2004年08月31日 03時33分07秒

  • 2004年8月29日
    昨日1時間程残業して、土手の上の藪からしを一掃していた。今朝はそれが枯れていて、見晴らしが良くなっていた。個人的に思っていることなのだが、グランド脇の若い樹木が、藪からしに覆われて枯れかけていた。また台風接近で強風に煽られたら間違いなく幹が折れてしまうと思った。真っ直ぐ伸びてくれれば、日除けにもなるし、樹木の生長は、子供を見ているようでもある。下草を刈ってやっていた。昨日バッティングケージのネットを畳んだままだった。台風の事もあり守備練習が基本だった。昨日の練習がきつくて、ハムストリングとアキレス腱が痛いと言っていた。昨日のロングティーで、潤は褒められていたかと思うと、ボンズはよせと叱られた。バットが下から出ているわけではない。耳からピシャーと出ている。その後、頭が残らない。これがいかん。潤のホームを理解してくれている、コーチが、潤の頭を押さえてくれて、潤は漸く理解したようだった。今は、外野練習をすることが多い。今日外野アメリカンノックを終えた後、一人指導者に呼ばれた。どこが出来るか、聞かれたようだった。潤は、外野なら全部出来ます、投手も出来ると答えたと言う。その後、「そうか、じゃ、頭数に入れとくからな、」と言われたという。全員で内野練習する時に、潤は投手陣の練習に混ぜられた。その後、投手メニューに混ぜられ、帰りの車の中で興奮していた。「ワシ、やらんで良いと思っていたら、呼ばれたけー、焦ったよ。」そして、帰りにはインナーマッスル用のチューブを貰っていた。潤にとっては、昨日、今日の練習が嬉しく、何か手ごたえを感じているようでもある。そのことが、潤のグラブのツヤを見れば分る。
2004年08月31日 02時53分27秒

  • 2004年8月28日
    久しぶりの練習日だ。ホームグランドで練習は3週間ぶりだ。草が伸びていることだろうと思って、エンジン草刈気を積んで出た。グランドは案の定レフト側は草が伸びていた。内野ファールゾーンも藪からしが、樹木を覆っていた。練習が始まり、ワシは、草刈をした。ナイロンカッターで均一に草を刈るのはテクニックがいる。砂に当てると、カッター部分がどんどんやせ細ってしまい、ローターの部分から、5センチ程カッターを伸ばさなければならなくなり、一度エンジンを切らなくてはならない、これが結構手間である。3週間前に、ラウンドアップハイロードを内野を中心に散布していた。ここのところは、良く枯れていて、さすがという感じだった。外野は均一に草が伸びてくれると良いのだが、まだらの時が一番見た目も悪い。混合ガソリンを満タンの600ccを1時間で使い切り、しばし休憩した。潤は、新チームで楽しそうにやっていた。ワシは、預かっていたスコアブックをコーチに返しに行った時、潤の市民球場での活躍を褒められて、照れくさかった。ワシは、いつもそうなのだが、スコアラーをやっている時って、紙に書いてしまうと、忘れてしまう。これは、野球に限ったことじゃなくて、仕事でもそうなのだが、ドキュメントを例えばexcelで保存し、安心すると、もうそのことは、外部メモリー任せで、自分の頭の中からは消えてしまう。だから、今回も例外ではなかった。しかし、指導者は、選手が20人もいるのに、ちゃんと覚えていて、守備も3箇所代っているのに、走った事、打ったことを覚えて居てくれていた。ちょっと嬉しかった。昼休憩の時、3塁側ファールゾーンの草むしりをした。わし一人だったが、誰か手伝ってくれ等とは思わない。そのことを無理なく出来る人がやれば良いだけのことだと思う。可能な人がやる、ただそれだけだ。各家庭色々な事情があり、うちだって例外じゃない。みんなで補い合い、それが力となってチームが成り立つのだと思う。指導者も含めボランティアだ、だから、誰かの時は、個人的にお礼をするとかは、馬鹿げている。それが個の考えで数名に対し半ば強制的に遂行されようとしていた。どういった基準がそこにあるのか甚だ疑問だった。公私混同であり、また、視点を変えて言うなら、子供に感謝の気持ちを持てとよく言う。しかし、お互いに思いやる気持ちや子供への接し方(親力)、それが必要なのは、取り巻く大人じゃないかと思う。金品で解決すれば良いと言うことなのか?ワシは、チームに対し自分に出来る事の協力は惜しまないが、個人に対することなら御免だ。
2004年08月31日 02時25分16秒

  • 2004年8月22日
    今日はワシが先に目覚めた。未だあたりは真っ暗だ。午前5時は未だ暗い。そして涼しくコオロギの音が初秋を感じる。寝ている潤を残して、わしとメイで散歩に出かけた。未だ暗いのだが、過ごし易いのだろう、メイは喜んでいた。ぐいぐいリードを引っ張って行く。知らない土地の所為か、鼻で嗅いで辺りを散策しては、マーキングを繰り返していた。近所を一回りして帰ると6時になり、出発した。ロードマップも観光案内も持ち合わせていない。どこに名所旧跡があるとも知らない。まぁそれでよい。千畳敷の看板があったが通りすぎた。途中どうしても眠たくなって、名前の分らない道の駅に車を滑らせ仮眠した。この間も、潤は死んだように寝ていた。1時間程して私は目覚めた。道の駅の魚市場を夢遊病者のようにさまよった。何を買うわけでもなく、歳の所為か目のピントが中々合わず、足を引きずりながら、車に戻った。再び15分程仮眠した。目覚めて、とりあえず、道の駅を出て、191号をひたすら走った。萩と青海島の看板があり、迷わず、青海島を選んだ。何があるかは、知らない。わしが幼少の頃2番目の母親の姓がこれに似ていた為、なんとなくそのことを思い出した。その頃、そこのおばあちゃん、チンチンバーバ(東京の大塚でその頃、都電が走っていたので、チンチン電車のそばの家のおばあちゃんと言う意味)に青島ってどこにあるのと聞いたことがある。青島は、確か宮崎だったと思う。今、訪れようとしているのは青海島だ(笑)。まぁ、私の中では、青と島に懐かしさと親近感を感じるのである。国道から左にそれ、フェリー乗り場を通りすぎ、青海島に掛かる橋を渡った。急勾配の坂をどんどん進んだ。鄙びた漁村が点在する。鯨博物館なるものを発見したがごく普通の建物だった。波の静かな漁村でこれまた幼児期夏を過ごした、福井県の敦賀を思い出してしまう。この間も潤はねたまんまだった。ワシ一人で感傷に浸っていた。潤にも思い出を残したいなぁ。いつの間にか、もと来た道にでてしまった。この島は、島を半周しかできないようだった。再びフェリー乗り場に戻り、この時やっと潤が寝ぼけながら一度起きた。ワシは、公衆便所で、クソを垂れた。その後、メイと軽く散歩した。駐車場に大きな観光マップを見つけて、やっぱり千畳敷を通り過ぎていた事に気がついた。とりあえず、戻ってみるかぁ。未だ8時前だし、潤も寝ている。今来た道を18キロ戻った。国道を右に折れ、標識に従い進んだ。ディーゼルカーの単線の踏切を渡った。線路の間の敷石には、あおい草が伸びどれも同じ背丈だった。ディーゼルカーが通ると刈り取られるのだろう。田んぼ道には電柱が無い。この道は気持ちが優しくなれる。農道のようなところを右折すると、結構今風の舗装道路だが上り坂がキツイ、一気に標高300mまで上った。千畳敷のキャンプ場がそこにあった。山の天辺が、野球場一個分ぐらいの草原になっていることから千畳敷というのだろう。もう一つ向こうの丘には風力発電の風車が2機動いていた。テントが3張りあった。若者が未だ寝ていて、そのうちの一人だけが、昨晩のドンちゃん騒ぎのビール缶を黙々と潰していた。山頂小屋は11時にならないと開かない。展望台に上って、双眼鏡で日本海を見渡した。潤が起きてきた。潤とメイが連ねてやや下の方にあるトイレに降りていった。散策しなが、戻ってきた時は、いつもの明るい潤だった。ローソンで仕入れたカツサンドとウーロン茶を木製のテーブルで食べた。あおい草原が広がり、風がそれを撫でて行く。アメリカ製の2階建てバスが、草原の中央に止められていて、どこかの映画のセットのようだった。千畳敷をでて、工事中の道を直進した。ここまで来たのだから、風車を間近で見て帰りたかった。通行止めを無視して砂利道と、山肌が露出した道を進んだ。たどり着けなかったので、車を降りて歩いていった。不気味だった。ブーンという電気音が辺りを支配していた。風車が回り、タービンが回っている音だと思われた。説明書きによると風車の直径は50.5mに達していた。その3枚のプロペラがグルングルン風を切って回っている。塔の真下に行くと、羽が降ってきて恐ろしさを感じる。この不気味な宇宙人基地のようなところは、長居は無用だった。まぁそれにしても、大したことなかったなっ、はっはは。坂を一気に降りて、来た道を国道まで戻り、萩に行った。途中小さな綺麗な浜があり、そこで、ワシとメイだけ散歩した。また潤が眠ってしまった。そりゃ夕べ2時頃まで起きていたから仕方ない。浜では、数隻のヨットが浮かんでいた。わしは満ちてくる潮溜まりに沢山の小魚が泳いでくるのを暫く見ていた。メイはこの頃になると、別行動、勝手に自分で好きなところに行き、野良犬状態、でも呼べば直ぐに戻ってきて、やっぱり、可愛い、うちのワンコだ。車を走らせること5分、萩の越ヶ浜なるところにやってきた。海抜0メートルなのに、明神池とやら淡水の池があり、外国人も訪れていた。何だ、横浜の三景園のミニ版だ。ここを通り過ぎ、笠山の山頂まで行くが何も無い。引き返して、ガラス工房に車を止めた。店内は萩ガラスの作品が陳列してあり、とても綺麗で繊細だった。潤はビー球を3つ購入した。店の両隣は工房とガラス細工教室になっていた。ガラス細工教室は小学生が数名、夏休みの作品作り?に挑戦していた。反対側のガラス工房では、溶かしたガラスから宙吹でグラスや花瓶を作っている最中だった。これは良い。面白そうだ。店員さんに尋ねると、午後1時半からなら、宙吹きが体験できるという。これは、理科の宿題にもってこいだった。やったことをレポートにまとめ、考察を着ければ、自由研究になる。一先ず、朝飯を食いに行くことにした。未だ時間は10時15分だった。国道に戻り、右に行くか左に行くか、潤に聞いた。左が良いということで、左折した。15分走ると、道の駅があり、レストランがやっていた。朝食にハンバーグ定食を頼んだ。そういえば、夕べは、まともに食っていなかったなぁ。アサリバター焼とイチゴゼリーを追加注文した。メイは、車でお留守番。ハンバーグは、ファミレスのそれとは違い手作りでやわらかく美味しかった。潤が美味かったって言うから多分間違いない。ワシは何を食っても美味いから、当てにならんらしい。レストランの斜め前には温水プールがあり、工房の予約時間まで2時間あるので、泳ぐことにした。ワシとメイは、近くを散策した。民家の路地を歩くと、漁村特有の潮の香りがする。古い家屋が子供の頃にタイムスリップする。メイのリードを解き二人で気ままに海岸を散歩した。メイが河口のの橋のど真ん中で、今まで我慢していたであろうウンチを垂れた。その時、偶々、赤いスポーツカーがやってきて、ウンチを切り終わって、走りかけたメイが危うく引かれるところだった。スポーツカーの青年は笑って会釈してくれた。ワシは無事を確認すると、ウンチを拾い上げコンビに袋を3重にして、ゴミ箱に捨てた。普段は持ち帰るのだが、長旅では車中さすがに臭いから、仕方が無い。メイを車に乗せて、ワシはプールに行った。受付の老人が、タダで入れてくれた。泳いでいるのは潤を入れて4名だけだった。幼児二人とお母さん、そして潤だった。潤は、平泳ぎ、クロール、バタフライを見せてくれた。ワシがバタフライを出来ないのを知ると、得意になってやっていた。結構センスが良い。12時40分にプールを出て、萩ガラス工房に戻った。工房の優しいお兄さんの話を熱心に聴いていた。そして、宙吹きを行い、自分で成形してガラスのコップを完成させた。冷却に1日掛かるので、作品は、郵送してもらうことにした。ガソリンの残量を気にしながら、191号を須佐町に走らせた。ホルンフェイスという聞きなれない文字が目につき国道からその看板の方にそれた。リアス式海岸特有の勾配のキツイ坂道を登り降りしているうちに目の前が開け正面は海だった。しかし、海抜50mはあると思う。そこの駐車場に車を止めて、潤とメイとでホルンフェイスに向かった。断崖の細い道をノーリードで降りていった。手すりも何も無い、岩盤の上に出た。オーバーハングしていて、下は見えない。直ぐに海である。高さは数十メートルある。背中がぞくっとする。メイには困った。犬は基本的に近眼で、遠くのものが良く見えない。だから、足元ばかり見ている所為か、恐ろしいところをどんどん行ってしまう。海に落ちてしまうのではないかとひやひやした。そんなことを想像していると、不幸を連想してしまう。急に不安になり、写真を手早に撮り、急いで安全なところまで退散した。あの時メイが海に落ちたら、ワシの所為だなぁ。本当に無事でよかった。潤は、父さん大げさだと言うけれど、親ってそんなモンだと思う。駐車場のドライブインでバニラアイスを二つ買った。車の中で、食べ始め、静かな、道路わきのスペースで食べた。メイにも分けてやった。アイスのカップを舌を丸めて上手に舐める。今日2回危険な目にあわせてしまった。無事でよかった。車のガソリンメータはエンプティーのゲージの下を指していた。やばいなぁ。後10キロ持つかなぁ。不安な所為かペースが落ちていつの間にか安全運転になっていた。でも、ブレーキはもったいないから踏まない(笑)。ようやく休日開いているスタンドを見つけ30L給油、これだけあれば、広島に帰れる。益田を通りすぎ峠を越えて、中国自動車道吉和ICに着くが、高速は使わず筒賀村の方右折した。湯来を通り、無事広島の家に5時に到着。メイは、家に帰りたがらなかった。よっぽど車が気に入ったらしい。休日は終わった。しかし、やり残したことがあるような気もする。全行程650キロだった。どうしても長野と比較してしまう。駒ヶ根まで800キロだから、片道にも達していないなぁ。私としては、長野に連れて行ってやりたかった。
2004年08月28日 00時59分59秒

  • 2004年8月21日
    潤が先に起きて、海まで散歩に行っていた。わしのいびきが煩くて目が覚めたという。メイは、ワシの側にペットろ寄り添って寝ていた。6時になり、大島町に渡った。途中の釣具屋でヤスを買った。片添え海岸は白い砂浜で湾の向こうからこっちまで誰も居なくひっそりしていた。お盆が過ぎたし、台風の影響で、とうに営業を止めてしまっている感じの店もあった。関東地方にいたら考えられない閑散とした風景だった。それでも9時を過ぎると、パラソルが数本立ち始めた。潤は、買ったヤスで魚を突こうと、海につかり奮闘していた。メイはノーリードで離していても全く問題ない。人が殆ど居ないからだ。桟橋から海を除くと、様々な魚が泳いでいる。いかを見つけ、桟橋の上からヤスを放つと着水する前に、墨を吐いてどこかに逃げていってしまった。それでも、2匹の魚をしとめた。といっても、5センチ程の稚魚で、ついたら、バラバラ状態なのが笑えた。メイは、ワシと潤が海につかると大騒ぎだった。自分は長い被毛なので、濡れるのが嫌らしい。それでも、腹の辺りまでは浸かって木切れなどを追いかけていた。昨年は、ここに兄ちゃんが居た。潤と一緒にバナナボートに乗って、潤が海に振り落とされたのを思い出す。ワシと暑さに弱いメイは木陰で昼寝をしているのに、潤は相変わらず、魚とりに夢中だった。午後1時になり、海の家で、昼食ににした。潤は醤油ラーメン、ワシは焼そばを注文した。わしの焼そばはべちょべちょでいまいちだったが、潤の醤油ラーメンは美味かった。メイは暑さでぐったりしていたので、エアコンの効いた車の中に一先ず先に入れていた。昼ごろには、海辺は200名ぐらいの人がいた。もう夏の終わりを感じた。シャワーを浴びて着替えた後、車を西に走らせた。宛ては何もない。ただ気ままに西に向かった。ラジオで甲子園の準決勝、駒大苫小牧対東海大甲府の試合だった。東海大甲府は、若い頃付き合っていた彼女が居たなぁ。文通は2年続いた。大学の頃、一度再会して、それが最後だった。振られてしまったようであった。そんな事があって、どちらかというと東海大甲府を応援していた。しかし、両チーム投手を大量に使い。打撃戦の結果、苫小牧が勝った。その頃、山口市の辺りを、散策していた。初めて来たのに街並みが懐かしかった。中国道に乗り、下関で降りた。ここまで来たら、水族館海響(かいきょう)に行こうと思った。水族館というと、高いイメージがあったが、そんなことは無かった。二人で2千円も掛からなかった。天気の良い夕暮れで凄く気持ちが良かった。一通り見て回って、イルカショーを堪能した。あいつら、頭が良い。家のメイ、勝てるかなぁ。メイは、車に2時間ほど閉じ込めていたので、可哀想になり一度駐車場に戻り、夕暮れの港を散歩した。港の繁華街では、ライブショーが行われていて、そこでバーベキューなど、店が出ていた。そこで夕飯のカツカレーと、潤はふぐカツどんを食った。あまり美味くは無かったのだが、許せる値段だったため、まぁよい。散歩しながら車に戻った。夜の港街は若者があふれていた。ワシが20代の頃居た横浜元町を思い出す。しかし、下関の方がオープンで、綺麗な感じがする。そりゃ、ブランドショップなど無いが、雰囲気は良い。それと、韓国人が結構多く、異国情緒をかもし出していた。車に乗り国道191を走ることにした。途中ゲーセンで深夜1時頃まで遊んだ。その後何時になったか分らんが、ひたすら走り、ローソンの駐車場で、二日目の夜を迎えた。
2004年08月27日 20時40分17秒

  • 2004年8月20日
    今週末は久しぶりに練習が無い。雨の日以外で土日が開くのは凄く久しぶりの気がする。どうやって週末を過ごそうか考えたり調整したりした。潤の母親のところに行くか、兄ちゃんと一緒に山口の海に行くか、色々調整したのだが、結局、どれも叶いそうになかった。そりゃそうだよなぁ、皆、自分たちの生活をしていて、あす、明後日だけ都合つけてなんてことは、無理だった。彼らに電話連絡を入れたのが午後だったので、仕事の予定を入れた後だった。私は8時過ぎに仕事を終え帰宅した。潤に言った。「今から遊びに行くぞ。バッティングセンターに練習に行って、そのまま、片添が浜に行くぞ。」私は疲れていたので、10時まで仮眠をとった。その間、潤はオリンピックを見ながら仕度をしていたようだった。結局、一度寝てしまった私は、中々起きれず、潤が諦めて二階の自室に上がって行った。ワシを起こさないで寝かせてくれたようだった。起きたのは午後11半だった。「おーい行くぞぉ!」の声に、一発で弾んだ返事で、階段を下りてきた。夕飯は結局作っていない。荷物を積んで、メイも連れて出発した。ファミリーマートでパンを買い、隣のセルフのスタンドで給油した。バッティングセンターでの練習は、深夜になった。最近、この時間帯の練習が多い。今日は、余り券の6ゲームで終了した。夏休みなんだなぁ、この時間でも、小学生がお父さんと練習に来ていた。午前1時半に打撃王を後にした。どこにも予約を入れていない、気ままな旅。急いでもしょうがない。練習中に車の中でお留守番のメイを、散歩させた。最近、深夜は大分ひんやりしてきたので、メイは、大喜びだった。再び車に乗り、2号線を西に向かった。宮島をいつの間にか過ぎてしまった。いつも混んでいて渋滞するイメージがあったので、信号で止まれば宮島かぁって感覚だったが、信号は極めてスムーズだった。潤と、ソールドアウトのミリオンモンスターズアタックを大合唱しながら、陽気(病気)な時間が過ぎた。私がリズムに乗れないので、それが馬鹿ウケした。私は笑う潤が見たくて、わざとそれを繰り返した。岩国で午前3時までやっているラーメンやがあり、ぎりぎり最後の客で、夕食にありついた。店の名前は忘れたのだが、醤油味で美味かった。難を言えば、スープがぬるかった。もう、一度火を落とした後だったのだろう。まぁ、しょうがないかなっ、でもそれが、かえって潤にはスープが飲みやすかったようだった。潤は、店のアンケート用紙に、大きな文字で、うまかったよ!と書き込んだ。潤は店を出た後、ウインドウ越しに、後片付けの店員の様子を伺って、にんまりしていた。車を西に走らせた。1時間程して海岸線の綺麗なコンビに車を滑らせ、そこで夜明けまで、仮眠することにした。エスティマの後部座席はベットにしてカーテンを閉め、潤、メイ、私で、十分なスペースだ。
2004年08月24日 09時31分13秒

  • 2004年8月17日
    昨日負けたので今日は試合が無い。大会の手伝いで広島市民球場に行った。 スタンドのゴミを拾い、エスティマに積んで持ち帰った。駐車場は3520円だった。 会社を休んで手伝いに行った。何だか虚しい。雨足は強まった。台風15号の影響だと思う。 広島市民球場を5時に出て、バッティングセンターに向かった。打撃王の駐車場で、1時間程仮眠した。 ワシが本部席に居る間、潤は、他の2年生と市民プールで泳いでいたため、疲れて眠ってしまっていた。 今日、何もしなかったので、はっぱを掛けたかったが、可愛い寝顔で起こすことが出来なかった。 閉じた目の睫毛のあたりを見ていると、あどけない。目を覚ますと、辺りは暗くなりかけていた。 直ぐに練習しても身体が起きない。そして何より、今日、ワシは潤に一度も未だ飯を食わせていなかった。 潤に2千円を渡していたので、何かしらは食べたと思うのだが、きちんと食事を採ったかは分らない。 駐車場を一度出た。 何が食いたいか聞くと、醤油ラーメンが食いたいのだという。定食にしようと言ってもラーメンが良い言うので 2号線を西広島方面に車を走らせた。豚骨醤油ラーメンの店を見つけて、バク美味ラーメンを頼んだ。 どうも、どろっとしたスープは苦手である。何だか血管が詰まりそうな気がする。床は油でギトギトする。 アップシューズの底が滑り、この靴底では、車に乗りたくない。帰りにサービス券をくれたが、この店には もう来ないと思う。口直しに、斜め向かいのローソンでフルーツゼリーとコーヒーゼリーを食べた。 バッティングセンターに戻り、練習した。飯を食った所為か潤に元気が戻った。今日も10時半まで打ち込んだ。 ワシは、疲れて、一先ず先に車で寝ていた。ドアを開けて入ってくる潤が、「父さん有難う。」と言った。
2004年08月20日 00時07分47秒

  • 2004年8月15日
    広島市民球場大会、家を出る前に、クロスのお守りをアンダーシャツの下につけていた。試合の日の朝は、必ずお祈りをする。今日はいつもより気持ちが入っているように思えた。開会式で、前年度優勝の楯を返還した。監督から今日は主将を務めよと言われていたからだ。潤は5番センターで出場した。相手は3年生チームだった。こちらはスタメン2年が4人残り5人は1年生だった。2回ノーアウトで5点を失い1年生投手2名の後、3番手として登板した。ランナーを背負い、慣れないセットポジションでセカンド盗塁を許すも、5回まで左中間2ベース1本に押さえた。見方のエラーと四球で1失点となった。4回の満塁策は成功した。その後、カーブが決まらず、自信を失っているように見えた。WPやPBが怖くて投げれない様子だった。そこで、再び先発投手に戻し、潤はショートに入った。代ったところに球が来るものである。あわやレフト前となる打球を横っ飛びでライナーを捉えた。着地した時に、球がこぼれるなと祈った。後で聞いたのだが、ランナーとボールが重なり、一か八かで飛んだのだと言っていた。一方打撃は初回四球で出塁したFC、WPでサード迄進むが援護射撃無く残塁。4回ワンナウトの後、2−3から、センターより左中間を高々と越える2ベースを放ち、打球はフェンスまで転がった。ワシは、打撃は安心してみていられた。全く堂々として、打席に立っていて力が抜けた、ジオンビィのような構えだった。わがチーム初ヒットで、沈んでいたベンチは一気に明るい雰囲気になった。次の打者が、監督の指示通り、サード前にセーフティを決めて1,3塁となった。一発で絵に描いたように決まった。ベンチからの声援は勢いを増した。続く1年生が勢いに乗りライト前ヒット。完璧にリズムを取り戻したカのようだった。潤は無事生還しWPで2点を返すことが出来た。その後5回ツーアウトランナー3塁で、潤はセンター前を放ち、ランナー生還その後2盗は成功するも、後続が続かず、得点は4点にとどまった。相手は10点を上げていた。最終回、ツーアウトで潤の打席だった。インコースは、鋭い打球で1塁横ファールゾーンをかっ飛んでいった。その後徹底してアウトローを攻められた。潤はどうしても打ちたかったと言っていた。2−3から、四球は選ばなかった。スイングアウトの三振だった。しかし、堂々と人を食ったような顔で帰って来た。これでよい。試合中は悔しい顔は絶対に見せるなと言っていたのをきっちり守った。試合を終えた後、ワシらは主管チームのため、午後8時過ぎまで市民球場に居て後片付けをした。潤を含む6名の子供が、帰れないでいた。時間つぶしに、隣接するアリーナで、野球ビデオ鑑賞した。このビデオ鑑賞が潤に新たなやる気を吹き込んだようだった。紺のれんでラーメンを食べた。長い一日だった。
2004年08月18日 01時05分33秒

  • 2004年8月14日
    明日のミズノ杯(広島市民球場)のための練習は、今回が初めてだった。ワシは、グランドに除草剤をまいたり、チームの買出しで練習は 殆ど見ていなかった。練習は午前中の3時間で終了した。主力メンバーは東京で居ない。練習も不十分。明日、試合ができるだけでも、潤にとっては 嬉しいが、お盆のこの時期練習時間の無理は居えない。というか、今更、今日練習したからって、これまで練習を地道にしてきたもの、そうでないもの差が、 明日現れることは、間違いない。 ワシは、チームの施設のペンキ塗りを終えた後、最後に潤と二人で、練習した。コーチから、明日、二番手で投げるぞと言われていた。 嬉しいらしい。練習もいつも外野だったが、内野によばれた。暫く投げていないので不安は思いっきりあるが、まぁ、2イニングぐらいは行けるかなぁって 処だった。帰りの車の中、今日、凄かったじゃろ?って潤に言われて、何のことか分からんかった。「フリーバッティングで、ライト側の柵越え3本で 内一本は土手のところまで飛んだじゃん。」柵越えといっても、ライトは80mぐらいしかないが右中間への打球で、コーチが立ち上がって見たと言う。 そのことを、嬉しそうに言った。その後、ワシが知らんと分かると、頬っぺたを膨らませてみせた。そのままバッティングセンターに練習に行った。移動中の車の中、 東京組みから、電話連絡があった。先ずは1勝したと言う。こうなると、潤も目を輝かせる。同じ仲間が全国で戦っている。打撃練習は6ゲームで終了させた。 疲れを取り除くため早めに切り上げ、浜勝で夕食にした。午後5時前だ。豚の生姜焼きを食べさせた。理想的な時間だ。早めに帰宅したら潤はグラブの 手入れをしていた。明日は、長丁場のため、早めに寝かせた。
2004年08月16日 17時49分31秒

  • 2004年8月12日
    朝練で入れ込みすぎて、9時半まで行ってしまった。わしは、当然遅刻である。昨日良いかたちで、ピッチングを終えたのに、今朝は 潤が自分でいじって、フォームを崩していた。故障して欲しくないから言うのに、どうも中々言うことを聞かない。 結局、家に帰って、PCで画像を見せた。真っ直ぐは、結構速い、カーブも切れる。緩急の差があり、打ちにくい球を投げる。 登板のチャンスは如何か分からない。びっくりしたのだが、キャッチボールとピッチングでは、別人のように球威が違った。 やっと、何とかなりそうな気がする。後は自信を持って望んでくれると良いが。ワシ血を引いているなら、速球は活けるはず。 いつになったら、芽を吹くか、楽しみであるが、じれったい、歯がええ。今日は夜練を省いた。疲れが溜まっていると思う。 ワシが疲れているんだから、潤も疲れているはず。家庭教師が帰った後、潤は練習に行こうと言った。身体を休めるのも練習さ。 ざるソバを作った。とろろ芋をすりおろして、久しぶりに家で夕食を食った。潤が、これじゃ足りんよと言った、ほうじゃねぇ。 二人で、4人前じゃ、やっぱ足りんな。ビーフジャーキーと牛乳で蛋白質を補充した。
2004年08月13日 18時06分41秒

  • 2004年8月10日
    わし的には、朝練はきつい。ずーっと寝不足が続いている。でも、今週末、結果が求められている。何が来ようがやるしかないというところだ。朝8時20分まで練習に付き合って、わしは、潤を一人グランドに残し、速攻で家に帰り、着替えて出勤した。出勤は、いつも最後で退社は大概1番早い。そして急いで帰る。家に帰り、リビングの床に倒れこむとそのまま10時まで寝てしまった。潤に起こされて、打撃王に練習に行った。深夜の練習になってしまった。帰りにジョイフルで和定食とミニステーキとアスパラのベーコン巻きを潤はたいらげた。夕飯はもっと早い時間に食べさせないと、身体に良くないだろうなぁ。わしは、499円のカレーを食った。家に帰って、hpを更新してなにやらやっている内に今日も午前2時半をすぎてしまった。明日も6時起きで朝練だ。日に日に目覚ましの位置が遠くなる。
2004年08月11日 20時20分11秒

  • 2004年8月6日
    原爆投下の日この日は毎年暑い。日本選手権の疲れがようやく抜けた。仕事のペースは夏休みモードばく進中、何かネジが緩んでいる。6時のキンコンカンで退社して、一度家に帰り、サンリブで待つ潤を迎えに行った。潤は勉強を済ませ、家の掃除機掛けと拭き掃除を済ませて、散髪に行っていた。チャリで家まで帰るのが面倒なので、どうせバッティングセンターに車で行くのだから、ならば、帰らずに、ここで待っているという作戦だった。仕事中に電話があり、サンリブのオアシス(喫茶)で夕食を済ませるように伝えていた。わしは、駐車場の入り口で電話をすると、直ぐに、真っ黒の笑顔が現れた。「オアシスランチ食ったか?」の質問に、「ラーメン食った。」が返って来た。聞きなおすと、オアシスランチを食ったと言う。何だか分らんが、とりあえず飯は食っていそうだった。食が偏らないように色んなものを食って欲しい。自転車をエスティマに積んで、打撃王に練習に行った。ここのところ毎日通っている。件を渡すと、白いゼットの手袋をはめ、先に行ってしまった。入って左にダーツのコーナーがありその横に、HRランキングが載っている。何気なく見ると、ランキング1位で潤の名前が貼ってあった。潤に言うと笑いながら「はずい」(恥ずかしい)と照れていた。5ゲームやって、券がなくなると、買ってきてと甘える。仕方なしに券を購入3000円で14ゲームなのだが、スタンプが溜まっているので1ゲーム追加で15ゲーム分を手に入れた。買って、潤のケージに戻ると、ケージ入り口のガラスの透明のドアに、ランキング1位は14回件を進呈と書いてあった。ほんまかいな?潤にカウンターに行かせた。戻ってきた潤は笑顔で得意そうに、自分の名前が印刷された。打撃王の封筒を手にしていた。灯りにすかして見ると、券が入っていた。大事そうに、今日はこれは使わずに持って帰るのだという。結局今日は午後10時半まで練習した。練習途中、ワシは腹が減って、一人ラーメン屋で飯を済ませていた。明日の試合に備え、コンビニでドリンクを購入して帰った。家に帰ると、荷物を玄関に置いたまま、直ぐに庭のケージで練習を始めた。ハロゲン照明を点け、室内の電気を消すと、リビングの大きな1枚ガラスが鏡に変わる。午後9時以降はティーはしないように自粛しているため、シャドウバッティングを行った。その後、今週キャッチボールがあまり出来なかったため、やはりシャドウピッチングを行った。シャドウと言っても、ネットに向かって球は投げることが出来る。そして最後にやはり素振りで終了。練習を終えたのは午前1時近くだった。無心になろうとしているのが、なんとなく伝わって来る。早く結果が欲しい。親としては、なんとなく、可哀想に思う。明日は4時50分起きの予定である。わしは、連日の睡眠不足で自信がない。目覚ましを寝床からうんと離してセットした。
2004年08月08日 01時01分22秒

  • 2004年8月3日
    万博球場で奈良と対戦して3−4で負けた。 昼飯を食い、広島に帰ったのは5時頃だった。広島駅ホテルグランビア前で解散した。 普段乗ることの無い山陽本線で五日市駅に行った。JRに乗るのは、1年ぶりぐらいかなぁ。 潤は昨年夏に長野に行った時以来だと言っていた。駅からはタクシーに乗って帰った。バスがいたが、 疲れていたので、タクシーで帰った。ワシは、寝たかったのだが、潤がバッティングセンターに行きたいと 言うので、練習に行った。遠征の間、球を打つことはなかった。今週末は試合がありうかうかしていられない。 試合後のミーティングの言葉が、頭に焼き付いているらしい。約1時間半程打ち込んだ。バッティングセンター代のために 節約して外食は止めにようと思ったが、疲れていたので、目の前のラーメン屋で飯にした。本当は、これじゃダメなのだが。 家に帰ると、妹からプロテインが送られてきていた。AMWAYのベリーだ。久しぶり、これ非常に美味い。栄養失調気味の 野球少年にはありがたい。ムサシのアミノ酸は後少しでなくなる。
2004年08月06日 12時57分08秒

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