|
|
「山陰の怪童」といわれ、島根・江の川高校を2年連続で夏の甲子園に導いた。強肩・強打の捕手として87年夏の大会(2年生)では初戦で横浜商と対戦したが涙を呑んだ。88年夏も連続で甲子園に行ったのだが、島根大会で5本塁打を放ち、「島根県大会NO1の強打者」として甲子園に望んだものの期待のHRは出ずに終わった。しかし、この大会では江の川高校を夏の甲子園ベスト8まで押し上げた原動力となったことは間違いないのだが、本人は甲子園通算成績「2割6分7厘」の成績に物足りなかったようで「どうせ俺の力はこんなもの」という言葉を残して甲子園を後にした・・・。
|
|
|