Ice Ninja
忍者
 氷忍者のスケート観

スケート技術について

 金持ちならいざ知らず、貧乏人がスケートをするには毎週のリンクの
 滑走代だけで精一杯のはず。
 フィギュアスケートを習うのは、女性が洋服を選んで買って着るのに近い。
 男としては、技を身につけたいが、それは金で買ったものでは情けない
 という考え方もある。
 金で買った技術は、生きた技術でないとか、それを開発する能力がない
 人間が高度な技術を金の力で手にすると身の破滅を招くとか
 そういうことが言われるが、そういう意味でも望ましくないかと思う。
 しかしながら、社会にスケートリンクという施設があり、インストラクターが
 スケーティングを教えるというインフラが整っているのであれば、
 そういう施設、制度、サービスを利用するのが正しい社会人とも言える。
 また、技術の発明という観点で考えるなら、人類として先人が発明したものを
 再発明するのは無駄なことであり、そういう意味で先人の教えを乞わないのは
 愚かだと見ることもできる。
 どうなのだろう、人類の英知が商業的目的で保持されている場合は・・・
 技術を得たくても買う金がない場合。
 工業製品の開発競争では、他社の特許を回避するために同じ目的の技術開発が
 行われる。そういった過程で、副産物として生み出されるものや新たな発展の
 ヒントが得られたりするのも事実である。
 日本人が外国から工業技術などを買う場合に、外国のメーカーは、二流の
 技術しか売ってくれないと言われる。それは、意図的に売ってくれない
 ということもあるかもしれないが、どちらかというとそれを正しく理解して
 活用する下地がないのが大きな原因だと思う。
 安易に金で買った技術で一儲けすることはできるが、高度な技術程、それを
 使いこなすには、それを生み出した時と同じだけの技術力を必要とし、
 結局再発明するのと同じ努力が必要だとも言える。
 弟子が師匠から色々学ぶけれど、師匠を超えるためには、師匠が持つのと
 同じ境地を努力によって自ら開かなければならない。
 師を超えるということは、オリジナルを確立するとこだから、同じ境地と
 いっても師とは違った、自分の個性を元にしたものになるだろう。
 恐らくそれを乗り越えるまでには、これでいいのかという数多くの自問と、
 これでいいと決断するための大きな不安が伴うはずだ。
 それを乗り越えて得たものは、大きな自身につながる。

日本人選手

 どうなのだろう、スケートに関して選手が日本人でインストラクターが
 外国人だった場合、果たして日本人がやったと言えるのか。
 選手だけ辛い思いをして、他の日本人が本当には誰も理解してくれない
 というのも避けたい。
 知識でも、形式でも、苦労でも何でもいいけど、文化として共有出来るものに
 根ざしていないと応援もしにくいと思う。

王様の耳はロバの耳

 私がスケートを習わない理由は多い。
 実際に技が出来るより、原理を解明して行くのが楽しいのが第一の理由。
 教わることはその楽しみを失う。(悔しいことも多いけど)
 一番の問題は、インストラクターに習うことは、商売で教えている以上
 教わった内容を口外出来ないのが常識だろうと思う。
 子供には熱心に教えるが、大人にはあまり教えないのは、ノウハウが
 漏れるからだと誰かが言っていた。子供は体で技を憶えるから知識として
 他にもれる心配が少ないのだという。
 そうなると「王様の耳はロバの耳」・・である。
 そんな言えないこと作ってまで習いたくない。
 スケートクラブに所属してその範囲内では自由に技に対して議論出来るとか
 範囲限定では話す場があるにしても、そこに障壁が出来るのは好まない。
 例えば、習った動きをコンピュータ・グラフィックスで表現したいと思っても
 何か権利関係がグレーになってしまいそうで嫌なのだ。
 私の考え方では、ノウハウが完全に公になってしまったとしてもインストラクターは
 今と変わらず必要とされるだろうと思う。
 その理由は、
 1. 客観的に見て指導する
  とにかく、客観的に見ないと気付かないことがとても多いのです。
  自分がどうやっているか、半分くらいは分かっていない、気付かない。
  上達の能率も大きく違います。
 2. 試行錯誤が不要
  自分でやると試行錯誤が必要となり、よほど運が良くない限り
  かなり回り道をすることになるだろう。
 3. 生き字引
  仮に理屈で分かっても机上の理論では役に立たない。
  経験者の指導は、必要な知識や技術がさっと出て来ることに価値がある。
  技術の診断ができることも大きい。
 4. 書籍やビデオでは伝えられられない
  書籍だと、文章では伝えられないことも多く、すべて書くことは不可能。
  教習ビデオを見ても着眼点が悪いと役立てることが出来ない。
  図解、文章化できるだけの技術分析もされていないだろう。
 だけど、インストラクターはノウハウを公開しないであろう。
 書籍を発行しても売れないし・・・。
 ノウハウではなくて、時間でインストラクターを雇うという割り切りが
 出来るのであればそれはそれでいいが。

スケート教室とは・・・

 あまり多くを期待してはいけないと思う。
 学校と同じで優等生も出れば落ちこぼれも出る。
 多分に、個人の才能や先生や教え方との相性が影響する。
 平均的に見て無難な教え方をしていると思った方がいい。
 例えば、書道と似たようなものではなかろうか。
 現状は、理論でどうこう言うのではなくて、実習してそれを見てもらう。
 スケートも形から入る習い事だと考えると・・・
 少なくとも教えて金を取るには、試験に合格しなければならないので最低限の
 教習は保証される。しかし、保証されるのはそこまでで後は個人技量。
 団体で教える場合は、日本スケート連盟などが定める教習過程を
 事務的に遂行しているといった程度だと考えた方が無難だ。
 まあ、スケート教室は社交の場だと考える方が正しいかもしれない。
 仲間やライバルが居るのは、ただ教わる以上に価値がある。

結局商売というものは

 何でもそうだけど、商売は、採算性があって成り立つものだ。
 スケート教室だって、規定される技術があるにしても、やはり
 力を入れる部分は、みんなが習いたい部分だろうと思う。
 変わった癖を持つほんの1人や2人のために、それが出来る様に
 努力してくれるということはあまりないと思う。
 ボランティアでなけば、そこまでは出来ない。
 信用を得るために安全を確保しなければならないし、形や外見を
 整えることはほぼ必須なのでそういう制約も大きい。
 客は高望みし、営業は誇大広告を出すのが世の常。
 また、どんな仕事でも業務はルーチンワークになるので、
 日々日常の業務をこなしながら、レベルアップを計るのは
 並大抵のことではないと思う。

男子とフィギュアスケート

 小さな男の子が、スケートの為に自らを律することが出来ればそれは相当な才能だ。
 ある意味、我慢のスポーツとも言えるスケートに於いて目的意識を持てるのは。
 ピアノを学ぶ男子が少ないのも似たような理由だ。
 そういう意味で、従順な女の子の方が上達し易い。
 工夫しようとするのが仇になる。自分でやっている気がしない。
 本当にその面白さが分かればやるのだろうけど。
 空手や少林寺拳法などの方がまだ分かりやすいだろう。
 男の子は、自分が予想、工夫したことで進歩しないと不満を持つ。
 教え方についても、理論的説明と説得が必要になる。
 身につけたものを道具として活用出来ること。

氷忍者は荒削りの三流を目指す

 氷忍者流、段階の定義
 一流 本物、心得た完全なもの
 二流 形式主義
 三流 感覚主義
 日本で一流になれない人は、恐らくこの二流の分類にすべて含まれる。
 形から入ると、初期の進歩は早く、かなりの人が平均点までは容易に得られる。
 しかし、手本が悪ければそこで止まり、また手本に100%到達することはあり得ない。
 概略において、教えられた範囲のことしか出来ない。
 単体の技は、ある程度まで仕上がるが、それを連結するとボロが出るし、
 結局プログラム全体を仕上げた時に全体が見えない。
 何か少し変えようとしても身動き取れないのだ。
 一流になるには、師匠を超えなければならず、形から心への転換が必要。
 この転換は、並み大抵の努力で成し得るものではない。
 ただ、フィギュアスケートでは、インストラクターが一流なら、選手が二流でも
 全体として一流の演技はできる。
 一方、ここでいう三流は、形から見ると荒削りでボロボロに見えるかもしれないが
 原理な要点を押さえて感覚的にそれらを活用する様に進歩する。
 技術的な要素に優先順位をつけている分、理解は進んでいるかもしれない。
 形が完成するのは、最後の最後になるから早熟ということはあり得ない。
 彗星のように突然現れるのもこのタイプだろう。
 また、形を整える方向に努力するかというと必ずしも形は意識しないが、
 原理的な最適化を意識することで必然的に形が整う。
 詰めが甘いと見かけは二流未満。
 二流も三流も方法は違うが、恐らく突き詰めれば目的は同じ。
 三流の極意として宮本武蔵の五輪書風に言わせれば、形式主義に陥ることなく
 臨機応変に、考えなくとも反射的に身につけた技が出るくらいに精進すべし。
 ということになる。
 心とは、理念ということだが、理論とは若干違う。
 多分に感覚要素を持ちイメージを構築する骨格となるものだ。
 現象を起こし、観察し、分析して理論を得るのだが、推測を踏まえて
 それを総合的に支えるのが理念である。
 理論とは、偶然を整理して構築する知識体系である。
 形になっていないものを察知するのが勘であり、探り当てるのが読みである。

直すという発想

 多分に語弊があると思うが、直すという発想は好きではない。
 書道で二重書きするのがタブーなように一筆で描けていないものは駄目なのだ。
 直すという発想では、何かイビツな部分が残りそうで嫌だ。
 スピードスケートの清水選手は、新しい記録に挑む際には、古いフォームを
 一旦分解して、一から再構築すると言っている。
 全体のバランスや協調動作を含めた直しを直しと言うか?
 ちょっとしたニューアンスの差ではあるが。
 また、スケートのように、イメージが主導なものはフォームを直しても、また
 元に戻ってしまうもので、根本的にはイメージを修正しなければならない。
 直すのではなく、発想を変える。
 今の間違った技は、正しいとは言えなくても一つの技。
 これとは別にもっと正しい技を身につけよう、という発想の方が正しい気がする。
 個人が持つイメージは、目的意識に大きく根ざしているので、それが教える側と
 一致しないと良い部分まで否定することになる。
 駄目な部分は駄目だとしても出来る限り正しい部分を削がない様に新しい
 提案をする必要がある。

スケートをやる動機

 憧れが元だととんでもない勘違いをしてしまうことが多い。
 楽しみたいという目的だけでは、高度な技術は習得出来ない。
 難しいことを強要すると嫌いになる。
 大抵みんな上手くなりたいという向上心はあっても、そこまでして
 やろうとは思わないということろで止まってしまう。
 その辺りが普通の人の感覚だ。
 しかし、習う人は金をかける以上、ちゃんとした技術を身につけたいと
 思うだろうし、上手くなりたいという情熱があれば基礎練習も受け入れるだろう。
 私がスケートをやる動機は、体感要素。爽快な滑走感。
 ジャンプで宙に舞うあの感覚。クロスオーバーでグイグイと
 氷を押して加速するあの感覚。難しいカーブを正確にかつ滑らかに
 滑り通した時の満足感。ジャンプの踏み切りタイミングがピッタリ
 合った時のあの感触。
 そして、適度な運動により帰ってから心地良い睡眠が約束される。

4〜5才くらいの子供を教えてみて

 とにかく、親や手摺にしがみつかないで自立出来る様にするのが第一。
 ヘナヘナなのをシャッキッとさせるのもコツが要る。
 子供の気持ちになって考える、一緒に遊ぶつもりで
 本能的に興味を持つものは決まっている
 悪いところを否定しないで気長に待つ
 歩みのテンポが早すぎるが我慢させる
 遊びを許すが、やることはキッチリやらせる。
 やって見せても案外無意味、うまく真似出来ない。
 大人の様に言葉の意図が伝わらない。
 難しいことを要求すると拒絶される。
 騙し騙しの誘導と動機付け
 日常の遊びの中で既に獲得した動きによっても差が出る
  お遊技、タイミングを合わせたジャンプ、自転車に乗るなど
 性格によってもだいぶ違う

スケートの才能とは

 どうなんだろう。
 まず、第一に困難があってもスケートが好きだということ。
 結局、困難の先にあるものが見えているか、みたいなこと。
 向上心があり、負けず嫌い。
 更に、冷静に善し悪しを察知するセンスと感覚。
 注意されて、傷付いたり腹を立ててしまうのと、「あっそうか」と
 気付くのとでは大きな違いが出る。
 やりたいこと、技のモチーフなどがイメージとして描けること。
 今自分がやったことがどうなっているかを正確に把握して記憶する能力。
 反射神経とタイミング能力、回転軸などを収束させる能力。
 謙虚というより、スケーティングの法則を知りそれに合わせようとすること。
 自分なりの基準や物差を持っていること。
 感覚はかなり大きな才能の指標だが、感覚が鋭いと疑問を持ちそれを解決
 出来ない限りそこで止まってしまう可能性がある。それを伸ばすのは難しい。
 教わる側も、ある程度教える側を信頼して一時的に鵜呑みにすることは必要。
 出来るようになってからその意味が理解出来ることも多いから。
 詰めが甘くならない様に疑問点は残さない。

華があるスケーター

 一般的には、技術を軽視してやりたい放題だけど素人目に見ると
 比較的サマになっているタイプのスケーターだろう。
 キッチリ守らなければならないことをサボっているという意味で
 軽蔑されることが多い。邪道に走ってしまう場合もある。
 特に形から入る教え方の場合は、論外と見られるだろう。
 正しい者がより強い発言権を得るためにも放置出来ないと。
 しかし、その敬遠は「表現力」を摘み取ってしまうのも確かだ。
 取り敢えずは、こんな風に滑りたいと、やりたい放題やっていいと思う。
 ただし、このターンではコジているし、この踏み替えでギクシャクする
 といった部分はきちんと見て、コースを修正したり、ステップを
 より適切なものに変更したりという努力はしなければならない。

良い演技を見ることは大切

 下手な練習をするよりも案外重要だと思う。
 ただ、習っている人は、自分の習っているものと流派が違うと困るかも。
 優れた演技には、真似させてしまう魔力がある。
 基礎が備われば、見て覚えた動作を無意識にやってしまうことも多い。
 具体的な形より、動きの流れとしてとらえることの方が重要で
 自然な流れとタイミングを学ぶには、優れた演技を見るのか良い。
 同じ演技を見ても自分の技量に応じて見えるところが違ってくる。

ラフな演技と厳格な演技との混在

 優れたインストラクターは、概してエラーのある動作をさせない。
 これは反復練習によりエラーが癖になってしまうのを防ぐためだ。
 ところが、私のような自己流の者がエラーなしの演技など出来るはずはない。
 よって、試行錯誤でやっているときは、動きの幅を広げることを
 目的として、集中力を下げてラフに行う。
 客観的に後から分析するためにも、ほとんど何も考えずにやることが多い。
 しかし、一度正しい形が見えたら、その部分は集中して反復練習して
 徹底的に固めてしまうのだ。
 万一固めた部分に間違いがあったら、分解して再構築する。
 普段デダラメやっていても、一度身につけさえすれば、ちゃんとした
 技術に切り替えることは可能だ。

スケートを習う人の被害妄想

 インストラクターも人間なので、相性もある。
 また、私の様に疑り深い人間だと良い人間関係を築くのが難しいだろう。
 出来ないのを人のせいにする人も多いだろう。
 自分もしくは自分の子供は、才能があるのに教え方が悪いために
 才能の芽を摘み取られたとか、えこひいきされたとか思う人とか。
 スケートもなかなか結果が見えてこない先の長いものだから。
 先生によって教え方が違って、酷い時は全く逆のことを言われるとか。
 まあ、この辺りは色々ある。
 正しい技術はこうなのだが、いきなりそれば出来ないから代用的な
 ステップを踏んで、というと一度逆のことをやる場合だってある。
 嘘も方便というが、方便に振り回されて本意を悟れないと教わる方も難しい。
 概して人の揚げ足を取るような性格の人は、教わってもなかなか伝わらない。
 最後は、金を払ったのに・・・というところに行き着くと思うが、
 教わらなければ自分では出来なかった訳でしょう。
 出来る出来ないは、あくまでも自己責任であり、教わることが
 プラスになっていないなら、相性が悪かったと思う他はない。
 金による他力本願は、やはりマズい。

理想のインストラクター

 正しい技術を持った観点で見ることが出来るのはもちろんのこと、
 教わる側の立場も十分に理解しなければならない。
 多分に相性の問題もあるが、どれだけそれが見えるかがポイントだ。
 誉めて教えるタイプが叱って教えるタイプか・・・
 自己評価が辛い人にお世辞を言っても逆効果だったり。
 スケートのほとんどが恐怖心との戦いであるとすれば、それを
 克服させるのがインストラクターの仕事かも。
 消極的なのが一番まずいのだ。
 自発的な人は、悪いところを禁止しさえすれば伸びて行くことも多い。
 自分が身につけた確かな形を伝えて行くのがインストラクターだと
 すれば、確かな技術を身につけていることが第一だが、優れた選手が
 優れたインストラクターになるとは限らない。
 自分に出来ない技術を選手を使って実現して行く方が高度なインストラクターかも。
 姿勢を整えなさいと言うのは常日頃だろうけれど、ジャンプの着氷が
 乱れたら、その原因をアプローチにまで遡って修正点を指摘する
 といったことも当然のことだろう。
 優れたインストラクターは、基本的なものなら悪い例を実演できると思う。
 実演は重要。やって見せてくれるだけで出来る様になるものも多い。
 それだけ器用だということ。
 技術が正確なら、精度を高めてそれだけでピリピリした緊張感を出せる。
 緊張感を保ったままリラックスしている不思議な良い状態がある。
 逆に人は良いが厳しさに欠けるといったことでも駄目だし・・・。

無意味な練習

 まず、緊張感がない練習。
 ワンパターンで、出来ることを単になぞっているだけだと
 下手をすると出来ていることも型くずれしてくる。
 基礎を維持するための練習メニューをこなすのは当然としても
 より速く機敏に、より深く、動作を大きく、より適切な位置に乗って
 と同じ動作でも幅を広げて質を高めようとしないとなかなか上達しない。
 やることがないとか、合格したので技が完成していると思うようでは困る。
 嬉しいのは、難しい技が出来た達成感を味わった時だけではない。
 同じことをしても今までと何か違う、手応えが出て来たと思う時は
 進歩した実感がはっきり得られるし嬉しいものだ。
 駄目な練習を繰り返すと、駄目な形が癖になって抜けなくなる。
 概略、癖というものは恐怖心や技術力不足でつくものなのだけに解消は難しい。
 基本概念が違うと同じことをやっても調整能力に大きな差が出るし、
 イメージが間違っているのに正しいことが出来るはずがない。

基礎を教える

 これは、子供には特に辛い試練になるだろう。
 基礎をマスターすることによって、明らかに上手くなったと思わせるように
 仕立て行くことが出来ないとなかなか動機付け出来ない。
 インストラクタが我が子を教える場合は、それだけの強制力を保つことができる。
 次が、大学などの部活動。次が個人レッスン。
 個人の向上心とモチベーションだけで引っ張るのは難しい。
 北朝鮮のように独裁社会で行われる英才教育は、そういう意味では驚異だ。
 国が豊かになると過酷な苦労をしてまで完成度を上げたいと思う人が少なくなる。
 商売が絡むとあまり厳しく教えると、やめてしまうから採点が甘くなるとか、
 そういうこともあるかも。
 では、基礎とは何か。
 何にでも通用する利用価値が高いものであり、土台となるもの。
 あらゆる瞬間を取っても適切にエッジに乗っていること。
 エッジに乗る→踏ん張れる→加減速出来る、安定している。
 といったところか。
 どういうケースがあるのか、基礎と言っても色々な場面がある。
 滑るにも直線あり、色々な曲率のカーブあり、
 右カーブ、左カーブ、右足、左足、前進、バック・・・
 ふみ替え、チェンジ、ターン・・・こりらの組み合わせバリエーション。
 これらについて適切な姿勢やタイミングが存在する。
 更に、これらを組み合わせて思ったようなコースで思った様に
 滑走するプログラムが組み立てられること。
 基礎といっても一つや二つではないし、一つ取っても奥深い。

基礎が出来ていないと

 折角教えてもまた戻ってしまう。
 現時点で安定したところに収まる様にできるている。
 悪く言うと安易な滑り方に戻ってしまう。
 そもそも感覚がない人に何を教えても駄目かも。
 型をつけてあげて、おっ!これはいいね、重心が乗ったなあ・・・
 なんて感じてくれる人はいいのだけど。
 基礎が疎かになる例
 ・力を使うべきところで力を使わない。
 ・踏ん張るところで踏ん張らない。
 ・捻りが不足する、捻りを保持しないですぐに解いてしまう。
 ・必要条件から外れてしまう。
 ・適正な位置まで持って行かない、足りない。
 ・調整能力がない、大雑把すぎる。そもそも合わせようと言う意志がない。
 ・タイミングが違う、遅れる。焦って早すぎる。

スケート技術の理論化は無意味か

 私は、コンピュータ上でスケーティングの動きを表現したいという
 欲求があるので、全然無駄だと感じていないが、人に対して教える
 という場合は、無駄だと思われるかもしれない。
 図や文章で書いても全てを記述出来るはずもなく、教習ビデオを
 作成しても見る人の着眼点が悪ければ意味がない。
 何より見た通りに自分がやっているかを確認するのも難しく、
 また、ある技術に至るまでに必要な練習なども人によって違ってくる。
 本を読んで理屈が分かっても出来ないという人もある。
 洋書や数少ない日本語の解説書を幾つか見て来たが、ほとんど何も
 書かれていないに等しい。
 アクセルジャンプは、左足アウトサイドエッジで踏み切り1回転半して
 右足アウトサイドエッジで着氷するということのほかに、ちょっとした
 コツや腕をどう構えるかといった程度の解説しかないのだ。
 もちろん、それまでの基礎を元にした常識を背景にして考えると
 もう少し読み取れる情報はあるもののその程度。
 また、技術を科学的に解明しましたという記事が書いてあっても、
 単なる客観的数値データを示して「科学的分析は有効だ」という
 主張たっぷりのこじつけ理論が展開されるだけで利用価値がある観点での
 分析が成されなかったりする。
 例えば、ある選手が跳んだ時の軌道はこういう放物線でした・・とか。
 私が専門書に書いて欲しい内容としては、
 エッジワーク、エッジにかかる過重について、足の振り込みについて、
 高く上がることについて、回転軸について、チェックについて、
 着氷について、それぞれの段階における重心位置と重心移動について、
 各種タイミングについて、正確なアプローチカーブのトレスに関して、
 ジャンプ方向や振り込み方向について、使う筋肉について、その技の
 歴史や流派について、なぜそうしなければならないかの理由、
 よくある失敗例、分かりにくい部分や注意点、よく使われる練習方法
 などがある。
 こうやった場合どうなるのだろう、とかいう疑問点が生じた時に
 解決してくれる内容が望ましい。
 そこまで考えてやっていなかったよ、という人がそれを読んで
 しっかり基礎をやろうと思うような内容も欲しい。
 人伝に伝承すると、伝達ゲームではないが必ず情報が欠落する。
 伝承には、優秀な人材が確保出来なければ、名門の伝統も消える。
 練習がマンネリ化することで失われることも多いのだ。
 そういう損失を防ぐ意味でも・・・。
 とはいえ、よく言われていることでも確認が取れていることは少なかったり、
 その理由までは教わっていなかったりするだろうから難しいとは思う。
 また、既に習得した技のコツを聞かれても練習している時ならすぐに
 答えられるのだけどといったこともあり、文書化は難しいだろう。
 だけど、理論化、文書化はある程度しておかないと駄目だと思う。

意識と無意識と

 技は、最終的には無意識の中に刻み付ける。
 人間は、意識的には一つの部分しか動かせないので、複数の部分を
 同時に同調させて動かすには無意識にやるしかない。
 それをコントロールする手段がイメージであり、それを使った練習が
 イメージトレーニングである。
 形さえ決まれば、反復練習することで整って来て完成度が上がる。
 しかし、反復練習は悪い癖もつけてしまう。
 だから、繰り返す時には極力悪い要素を排除しなければならない。
 無意識に体の各部を動かすと、似た様な動きではある動きに別の部分が
 引きずられて動いてしまうため、これを分離しなければならない。
 両手でピアノが弾ける様にする訓練とに多様なことも要求される。
 また、共通要素を持つ技Aと技Bがあるとき、技Aをほぼ完成させて
 技Bを修正したら、その共通部分に引きずられて技Aも崩れてしまう
 というようなことも起きる。
 無意識の部分は、意識した部分が壊され易いという性質もあるため
 調整しながら技を固めて行く場合、注意を払いながらも固める部分に
 直接意識を向けないようにするのが望ましい。
 こういった制御は、1人でやるよりもインストラクターなど第三者の
 指示に従うといった形によって合理的に行うことができる。

書面化

 現在スケート関係の技術書が書店にほとんど出ていない。
 三野勉氏のスケート教室は比較的よく目にするが、この本はかなり古い。
 さて、書籍が出版されない原因としては、
 1. 本を書いても売れない、儲けない。
 2. スケート教習は、形で手取り足取り教えるのが本筋で、原理を完全に
   解明したり図や文章で記述するのは無駄だという考え方があること。
 3. スケート教室が充実し、原理を教えずに滑れる様にする指導が出来ている。
 こういった背景から、ほとんど書面化されないままスケートが受け継がれている様に思う。
 しかし、こういったことは本来的には出版物にも残しておきたいものである。
 まず、一般の人に何をやっているのかが分かること。技の名前すら一般には
 知られていないという状況だから、派手な部分だけに注目が集まるようなことになる。
 一般の人に対する堅実なアピールが少ない。
 それから、出版を行えば、それが歴史的価値を持つことになり、具体的にその
 年代にどういうことをやっていたかが分かる。
 技術を積み重ねて行くにも、そういったことが必要なのだ。
 単にスケートといっても色々なテクニックがある。その全てを偏りなく練習することを
 考えても練習内容を列挙して細かくチェックして進めないと漏れてしまうくらいに
 要素が多いのだから、スケートを学ぶ人が印刷物などでいつでもそういったものを
 確認出来ることが望ましいと思う。
 口伝、手取り足取りだと、練習がマンネリ化したり、技そのものが型くずれしたり、
 良い人材が途絶えたとき技が継承出来なくなったり、言い伝えとしては伝わるが、
 その理由が分からなくなってしまうような事態に陥る。
 正しい技術の理解なくスケートとしての豊かな表現力は生まれてこないのであって、
 日本の形から入る方法では、諸外国のような表現力を得ることは難しいと感じる。
 指導者が口を酸っぱくして言うような基礎的なことは、常識として教科書に書かれて
 いるべきだろうし、スケートを習う父兄の間でも常識化するのが普通だ。
 余談になるが、書籍が比較的出ている外国においては、酷い本があって、写真を
 連続写真として捉えた時、その通りやったのでは重要なヒネリの要素がなくて
 これを見て真似たのでは出来ないなあ・・・というのもある。
 よく見ると背景が連続していないと分かってしまう。
  こういう本は、手足はキチッと伸ばしていて、既にスケートを習っている人が
  見た時には、止め絵として模範的な形になっていて害はほとんどない。
  本を読んで出来なかったら、スケート・スクールにいらっしゃいということだろう。
  まあ、私などは現在の自分の技術を感覚的に発展させる考え方なので、他人の方法を
  全部まねることはしないし、テレビで放映されている実技映像しか信用しないので
  関係ないが、世の中にはそういう罠がある。(商売熱心というか・・・)
 まあ、実技で教わることが本筋だとしても、用語などは口伝では不正確になったり
 紙に書こうとした時書けなかったりするからやはり、書面での情報伝達は必要だ。
 例えば、コンパルソリーのようなものでも、図形は氷の上に座標軸すら描かれて
 いないのですべてフリーハンドというか、頭の中でこう滑るというトレス図を
 思い浮かべた上で、それに忠実に滑る必要がある。
 思い描いた図形を忠実に滑るとき滑走技術がつくのであって、途中で勝手に
 予定変更したのでは身につかない、その元になる図形が間違っていては
 ことさらお話にならない。
 もしも、コンパルソリーを人がやっている姿だけを見て真似ると案外どういう
 図形を描いているのか分からなくなって伝達ゲームのような酷いことになる。
 現実に、セミサークルでそういう光景を目にしたことがある。
 実技で習うと、自分がやっていることが、あれ?こうだったかなあ、と分からなく
 なることも多いが、自分がやっていることが分からないのは情けないと思わないか?
 また、運動神経はあるのに、実技でシーケンス動作になると右と左がごっちゃになり
 訳が分からなくなるような人でも、トレス図を自宅に持ち帰って眺めながら床上で
 大まかなステップ動作を確認すれば覚えられたりするものだ。
 まあ、書面で学ぶべきものと、実技で学ぶべきものがあるということだ。

人間の愚かしさ

 人間は、ある分野ではバカだな〜あ、と思う。
 他のことでは、堅実に出来ることがスケートになると愚かなことをしてしまう。
 当たり前とされている常識でも繰り替えし訓練されて身についているのだと思う。
 多くは、気持ち主導で根性で努力すれば、大抵のことはうまく行くものだが、
 ことスケートに関してはそうでないトリッキーな側面がある。
 勉強しないでテスト100点取れると思う人はないと思うが、勉強しないで
 テスト100点取りたい人は多い。
 それと同様に、練習しないで上手くなりたいと思う人は多くて、その気持ちから
 練習しなくても出来る、というような夢を描いてしまうことも起きる。
 上達するための練習もそうだけど、スケートで引っ掛かるのは大抵、
 当たり前の「準備」が出来ていないことが原因だ。
 基礎が何か欠けていると出来ないが、揃うとスッとできる。
 いつも出来ていた技が突然出来なくなったり出来る様になったりすることは、
 意識していない中に必要条件として「前提」事項があって、習慣的にいつも
 そうしているという部分が、その時の環境の微妙な違いやメンタルな要素の変動で、
 気付かずにいつもと違うことをしてしまうことによって引き起こされる。
 しかし、スケートにおいて「準備」で引っ掛かるのは、もっと単純な場面だろう。
 例えば、ジャンプするためには、膝を曲げて体を低くする様な準備が必要だとか、
 左に体を捻るためには、予め右側に捻っておかなければならないとか、
 前に振り出すためには、後ろに引いておく必要があるとか、よく考えれば
 当たり前なことが、スケートになると常識が抜けて真っ白な状態になっていることが多い。
 そういうことがあるから、専門外のことになると「俺、〜素人だから」と失敗を
 恐れて挑戦しない人も多いが、それはある意味賢い。
 まあ、案外振り返りの中で、ふと常識的な理屈を照らし合わせてみると、
 当たり前のことに気付かず無駄な努力をしていることがあるのではないかと思う。
 上手い話が目の前にあると騙され易くなる心理と同様に、「こうしたい」という
 夢や、自分のやり方に対する固執、目先の目標などによって、大切な「準備」の要素を
 見落としていることが多いものだ。
 しかし、見落とした状態で、結果から原因を推測するのはとても難しい。

氷忍者の滑走術

 私の滑走方法は、フィギュアスケートからは外れている。
 だから、フィギュアスケートを習っている人に教えるのは基本的にまずい。
 また、形で学んでいる人に理論や感覚で教えると、完全に身についていれば
 問題ないが、全体を壊してしまうことにもなりかねない。
 自分が一番好きな滑走は、必要な力以外は使わず、エッジが受ける力が
 摩擦を含めて最小になる受け流しの滑走方法なのだが、制動能力が弱いため
 空いたリンクで1人で滑る時以外にこれをやると危険。
 極めればフィギュアの滑走技術に含められるかもしれないが音楽との同期を
 取ることも極めて難しい。(企画倒れか)
 また、通常の滑走もわざと重心を外すために正しくない滑走になっている。
 コンパルソリーのターンを、フリースケーティングのジャンプスピードで
 行うとどうなるかという発想でやってきたのでそうしている。
 深いエッジは得られるし、深いエッジを保つための筋力もつき易いのだけど。
 これとは別に、重心を非常に細い範囲に保ち、重心が遠心力でトレスを
 乗り越えない内側ギリギリに筋力で押し込めるような滑走もしている。
 私の上達の原因を、インストラクターが片足バックスネークによるものだと
 分析していたみたいだけど、私はそれは一端に過ぎず、全般的に深いエッジに
 乗っていることが大きいと思っている。
 深いエッジで高速にきわどいターンをやっては転んで上達した。
 カーブを緩くして体を倒し、カーブをきつくすることで倒していた体を立てるなど。
 ジャンプの場合は、エッジに正しく乗っているかは、踏み切り時に力強く
 踏み切れるかで判断出来るし、それを目的にしているのだから、アプローチに
 入ってからは、正しく乗っていないとジャンプは成功しない。
 エッジに乗るという概念も、トレスに正直に体重を乗せるだけではない。
 弧線滑走競技と言われるフィギュアスケートの分野では、遠心力の制動を
 含めた正しい乗り方を考える必要がある。
 体重と遠心力をブレンドした力で重心が出来て、その重心をエッジで受け止める。
 最初は、体を傾けるだけの自然滑走で究極的に極めようとしていたが、
 それでも小さな急カーブは曲がれない。高速にループ図形を回る練習を
 するうちに、筋力での押え、腰を偏重心で構えた捻りによる振り込み、
 腿のはさみ動作といった制動動作が自然に身について来て制御出来る様になった。
 フィギュアスケートでもストッピングは疎かにしてはいけないと思う。
 スリップさせるかグリップさせるかは紙一重で基本的に同じものだということ。
 ストップでも、カーブで遠心力をエッジで受け止めるにしても、重心が
 浮くことが致命的になる。内側に倒しつつ上から押さえ付けるような
 制動が必要なのだ。

アメリカで買ったある本

 カート・ブラウニングの伝記「KURT FORCING THE EDGE」を古本で入手した。
 著作権などの問題がなければ、ここに書きたいことが沢山あるのだけど書けない。
 邦訳して出版する価値は十分にあると感じた一冊。
 何より、本のタイトルが自分にとっては魅力的だった。
 4回転トウ・ループを世界で初めて公式な場で成功させた人でもあり、
 それだけでも読む価値はあるだろう。
 本人が書いた記事に、周囲の人のインタビュー記事を織りまぜた形の形式で
 色々なことが書かれていた。
 カートは、「HONDA LEV CUP 1999 国際オープンフィギュアスケート選手権大会」で
 「Rag-Gidon-Time」というプログラムを演じたが、これには本当の初心者を始め
 色々なレベルの人へのスケートの技術に関する色々なメッセージが込められている。
 「KURT FORCING THE EDGE」には、そのメッセージと同じものが文章で書かれていたと思う。
 当時の私は、トッド・エルドリッジがクリーンなエッジで好きだったのだけど、
 カートの滑走は、クリーンを超えたツルツルな曲線的な滑りで、技術と言うよりは芸を感じた。
 この本には、カートがNHK杯で日本を訪れた時のことも書かれていて、とりわけ
 伊藤みどり選手とも仲が良かったみたいで詳しく書かれていた。
  「脱水機に張り付いた衣類のように」と形容されていたが、リンクいっぱいを使って回る
  バック・クロスオーバーのこととか、トウ・ループの前のスリー・ターンに見られる様な、
  薄く張り詰めた際どい乗り方からのジャンプなど、特徴をよく捉えていた。
 日本の観衆に関して彼は、
 「熱狂的でありながら、とても注意深く、鑑賞力があり、とても洗練されている。」
 と言っている。
 この本は、期待以上だった。

スケートと筋力

 海外出張の際に、ほとんど運動しない期間が約4週間続いた。
 通常の通勤では、一日約1時間の徒歩があり、歩道橋、駅の階段などの起伏も
 運動に大きく役立っている。
 この運動がなくなってみると、結構無惨なものだった。
 一番の衰えは足の前の方で横に氷を押す力が弱くなって、多くのエッジワークが
 不安定になったしまった。
 スポーツ選手にはよくあることらしいが、土踏まずを埋める様に筋肉がついて
 いたのだがそれがだいぶ落ちた様だ。
 これは、階段を高速に駆け降りると鍛えることが出来る。
 これに対して、アクセルを跳ぶ筋力はそんなに落ちていないと思った。
 週一度のスケートでどれくらいの技とそれに必要な筋力が保持出来るか・・・
 毎日の徒歩がなければ、今の自分の筋力はないなあ・・・
 5Kg体重を減らして、重い靴で鍛えたせいで、筋力的にはかなり充実している。
 ただし、腹筋と背筋は鍛え方が足りない。
 練習時に気が滅入るような時の多くは、筋力不足であることが多い。

ストレッチと伸ばす筋力

 ストレッチは、無理矢理伸ばせばいいものではない。
 また、一通りの伸し方をしても駄目で、若干ヒネリを入れてみたり、柔軟性に
 幅をつけたりしなければならない。
 何より重要だと思うのが、伸ばすための筋力をつけること。
 実際の運動では、この筋肉はほとんど使われない。
 しかし、この筋力を鍛えなければ、極めてバランスを欠いた状態になる。
 瞬発的に伸ばしても意味がないと言われることの半分は、伸ばすための
 筋力を持続的に使って鍛えることに意味があると思う。
 例えば、足を上に上げる動作で、足を伸ばす筋肉を使う場合、
 伸ばすための筋力がないときは、補助して手伝ってやらなければ持ち上がらない。
 補助しながら自力で持ち上がるまで伸ばす筋肉を鍛えることだ。
 仰向け姿勢で柔軟運動するとこの辺りの筋肉は、比較的楽に鍛えられる。

スケートの才能とは

 どんな困難や苦しい練習があっても、スケートが好きであること。
 その楽しみを本質的に分かっていること。
 そして、氷の上の法則に対して限り無く素直であること。

−−−まあ、色々あるがこの程度にしておこう。

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