シドニーオリンピック2000 アジア地区最終予選グループC
U−22日本代表 対 U−22カザフスタン代表

1999年11月6日(土)19:05キックオフ
東京・国立競技場(テレビ観戦^^;)

中村俊輔のU−22代表でのポジションは左MFのアウトサイドである。
しかし中村本人は、所属クラブチームと同じ『トップ下』と言われる1.5列目の中央の位置でプレーすることを熱望している。

これに対しフィリップ・トゥルシエ監督は、トップ下の司令塔の役割を中田英寿(あるいは小野伸二)に与え、中村を左サイドに廻した布陣をとっている。
それもそのはずで、中田英寿のドリブルでの突破力、戦術眼、得点力が、世界最高峰のリーグであるイタリア・セリエAでも充分に通用することを考えれば、ヒデを司令塔にと考えるのは当然であろう。トゥルシエがチームの攻撃の布陣を決めたときに、一番最初にヒデを真中に置くことを考えたに違いない。

次にアウトサイドだが、U−22代表チームは、中盤の底に位置するボランチに二人を配しており、アウトサイドには比較的攻撃力のある選手を充てることができる。ここで、所属クラブチームで司令塔の役割をこなす中村の攻撃力を見逃す手はない。さらに中村は左足のスペシャリストである。

かくして中村は、このチームにおいて、左のアウトサイドにポジションをとることになった。

「サイドとか、、、」
試合後、MVPに選ばれた中村のインタビューにおいて、「ちょっと目が充血してるが?」と聞かれ、中村はこう言った後、言葉に詰まり涙ぐんだ。アウトサイドのポジションよりも中央でプレーしたかったという気持ちの現われであろう。
実際に前半のうちでも、左サイドのライン際に貼りつくのではなく、中に入ってプレーすることが多かった。
そして、左の空いたスペースに出るのがヒデだった。

ヒデの爆発的な攻撃力が生まれるのは、彼の右足からである。もちろん、左からでも効果的なセンタリング等はできるのだが、やはりヒデが活きるのは右である。
左寄りの位置でプレーしていたヒデは、とてつもない存在感をみせる『通常』よりもやや消えている時間が多かったように思える。

左サイドでプレーすることを希望していない中村俊輔と、左サイドでプレーすることをあまり得意としていない中田英寿。前半、U−22日本代表はどこか、ちぐはぐな攻撃をしていた。

近代サッカーにおいて、選手は与えられたポジションにずっと居続けるのではく、得点を挙げるのに最も効果的な形になるように、それぞれが有機的にポジションチェンジを行っていかなくてはならない。
監督はこういったことも考慮して、チーム全体の攻撃力・守備力が最大になるように、チームの布陣を決めるはずだ。
選手は「サイドだから自分は活きない」などと考えるのではなく、「サイドでも通用するように守備力を向上させる」という考えを持つべきだろう。

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